第32話

「大丈夫ですか、松井戸さん。エスプレッソ、少し濃くしすぎましたか」

 マスターの心配そうな声を聞いて、自分は日記の世界から現実の世界に帰ってきた。いつの間にか、店内には自分とマスターだけになっていた。

「いえ、とてもおいしかったですよ。眠気も一気に吹き飛びましたし……なんでそんなこと訊くんですか?」

「いや、頼んだ数が数ですし。それに、そんなにキラキラした目は初めて見ましたから」

 マスターの言葉を聞いて、咄嗟に自分の眼もとに手をやる松井戸。ほのかに、手が湿る。最近は自分でもこんな経験が無かったから、不思議な感覚に襲われた。そういえば、日記を読んでいる最中の記憶がほとんどない。完全に、その世界の中に入り込んでいた。

 松井戸がふとカウンターに目をやると、そこには頼んだことを後悔したはずのあの暗黒物質が入っていたであろうカップが、左手に十個ほど転がっていた。自分でも気付かないうちに、日記の一日を読むごとに注文したのだろう。

 ――自分の精神状態が心配になる。

「大丈夫です。お気になさらず」

「それなら、いいんですが」

 精一杯気を遣った笑顔で答えた松井戸を見て、マスターは一度店の奥に下がり、ジョッキのような大きい器に入れたお冷を持って出てきた。重いのか、片方の手で取っ手を、もう片方の手で底を支えるようにして持っていた。

「まあ、気休めですが。カフェイン中毒にならないよう、念のため」

 カウンターの上に、鈍い音をたてながら置かれるお冷。これで体内のカフェイン濃度を薄めろということなのだろう。松井戸はそれを受け取り、一息でそのお冷を飲み干した。マスターが若干身を引いて、顔を強張らせたのが見えた。

「ご心配、ありがとうございました。自分はもう、大丈夫です」

 そう言って器を返すと、マスターは無言のまま店の奥に消えた。

 それを見送った松井戸は、再度日記に目を落とした。内容以外にも、何か手掛かりが隠されているかもしれないと考えたからだ。

 日記帳に使われているのは、どこの店でも見るような、特段特徴のない縦書きのものである。インクを見ても、特に特殊な細工がされているとは考えにくい。炙り出しなどによって、暗号や真のメッセージが浮かび上がってくるような代物ではなさそうだ。

 詳しいことは専門的に知らべてみないと分からないが、筆跡に関しても普段オーダーを書くときに見る、あの真白の字で間違いないように思えた。日記に使われている言葉遣いにも、特に違和感を覚えるところは無い。

 だが、何かこの日記には違和感があった。言葉で形容することが難しい、何とも言えない違和感が。

「ぬあああああああ」

 そんなことを考えていると、いつの間にかレジの点検をしていたマスターが断末魔のような声を上げた。何事かと思って見てみると、そこには薄い紙を手にしながら、顔を真っ青にしてレジの中を眺めるマスターがいた。

「マスター、一体どうしたんですか」

「どうしたもこうしたもありませんよ。あなたたちが店内で騒いでいる間に出て行ったあの大学生みたいな客、あいつお勘定せずに帰りやがったんですよ。食い逃げですよ、食い逃げ。あの野郎、ふざけやがって! 二時間も居座って三千円以上飲み食いした癖に、食い逃げだと。ははは……ふざけるな。貴様は俺を怒らせた。必ず貴様を見つけ出し、合法的な手段だけで、破滅へと導いてやる……ふふふ、あはははは」

 マスターは両手を広げながら、どこかの魔王を彷彿とさせるような高笑いをしていた。その目は、邪気しか帯びていなかった。

 これがもしフィクションの世界だとしたら、今回の事件の裏にこのマスターが居ても、視聴者は誰も不思議に思わないだろう。むしろ、無関係だとしたらミスリードが過ぎると、批判が殺到するような展開になるだろう。そう思えるほど、あくどい笑みを浮かべていた。

 だが、この事件はそう単純ではない。はっきり言って、この事件を第一線で捜査してきた松井戸にも、この事件は謎が多かった。

 確かに現在の捜査方針通り、天城真白と新田友勝の二人が交換殺人を実行した可能性はある。凶器の購入ともとれるネットショッピングの履歴も見つかっているし、交換殺人を前提にすれば二人のアリバイは無い。

 あらゆる状況証拠が、彼女たちが犯人であることを示している。それに反して、その他の物的証拠等は彼女たちが犯人ではないことを示している。何より、松井戸の心の中ではずっと、真白は犯人ではないと、なにかが話しかけてきているように感じていた。

 では、二人はなぜ逃げるのか。この日記は、何のために残されたものなのか。考えれば考えるほど、自分の頭の中が混乱していくことが分かった。

「マスター、なんか頭がすっきりするような――」

「許さない、許さないぞ……貴様もブラックリスト入りだ」

 混乱した頭をスッキリさせる飲み物を頼もうとしたが、マスターはまだ食い逃げ犯のことで頭がいっぱいな様子だ。ブラックリストという名のノートに、何かを必死に書きつけている。きっと、食い逃げ犯の特徴だろう。

 松井戸が注文を諦めようとした時、マスターはそのブラックリストを携えて、すごい勢いで自分が座っているカウンター席に突撃してきた。猪突猛進という言葉がこれ以上に似合う場面を、松井戸は知らなかった。

「どうしたました? マスター」

「松井戸さん、あなたは警察ですよね。そして、食い逃げは犯罪ですよね。だから、あなたが捕まえるべき相手ですよね」

「もちろんそうですが、今はそれどころでは……」

 マスターの目が、ぎらついていて怖い。下手に断れば、何か重大な問題が引き起こされるのではないか、そう感じさせるような雰囲気だった。

「捕まえるのは後でもいいですから、とにかくこのノートを見てください。あのやろう、学割を使うために学生証を見せやがっていまして、そこに書かれていた大学名をメモしておきました」

「なら、捕まえるのも簡単でしょう。しかし、よく覚えていましたね。そんなにまじまじと学生証を確認したんですか?」

「それは覚えますよ。だって、真白ちゃんと同じ大学でしたから」

 マスターの言葉を聞いて、咄嗟にそのノートに目をやった。使われているノートは、件の日記帳と同じものだった。

「ほら、神背大学ですよ。あの賢い大学生が、こんな間抜けなことをするなんて」

「確かにこの大学は――」

 その時、松井戸は真白が書いた日記帳の違和感の正体に気付いた。そしてマスターがブラックリストを書くために使っていた鉛筆をひったくり、一番後ろのページを黒く塗りつぶし始めた。丁寧に、細かく、端まできれいに黒く塗った。

 それを塗り終わるのと同時に、松井戸は様々なことへの合点がいった。真白も新田も、誰も殺していない。犯人ではない。そう確信できた。

 大急ぎでカウンターの椅子を回転させ、マスターに背を向ける。勢いが凄まじかったのか、猪突猛進状態のマスターも、口を閉ざした。

「本部、こちら松井戸。レストルームのマスターから、天城真白のものと思われる日記帳の提出がありました。その内容を踏まえると、真白ちゃんは東京方面へ逃亡した可能性が高いです」

「こちら本部。既に主要駅の防犯カメラを確認しているが、二人の姿は確認されていないぞ」

 無線の向こうから青鳥の声。松井戸の情報を全くもって信用していないような態度が、言葉の端々から読み取ることができた。

「移動手段が新幹線とは限りません。とにかく、今はこれ以上の情報を得ることはできないでしょう。ご決断を」

 その後も松井戸は煽りに煽って、本部や現場の人間に東日本への警戒心を植え付けた。その無線を聞いたほとんどすべての人間が、真白と新田の二人は東日本に逃げて、空港からの海外逃亡を図っていると考えただろう。我ながら、誰かを丸め込むときだけはよく頭が回るものだと、松井戸は実感した。

 松井戸がお会計を済ませてレストルームを退店しようとしたところ、突然携帯が鳴った。画面を見て、うんざりする。松井戸のことを全く信用していない青鳥からだっだ。相も変わらず、その名前に反して幸運のこの字も与えてくれる気配がない。

「はい、もしもし」

「松井戸。すぐに天城真白の日記を持って、本部に戻ってこい。隣なんだから、二分もあれば戻ってこられるな」

 無線なら耐えられるが、電話ではその声の大きさと圧の強さに耐えられない。青鳥と電話するには、鼓膜を犠牲にする覚悟が必要である。

「……できれば、天城真白を追いたいのですが――」

「お前はいつからそんなに偉くなったんだ。俺に逆らってんじゃねえよ。お前は俺の命令に従って、ロボットのように、命令を遂行することだけ考えて動けばいいんだよ。いいから早く持ってこい。それとも、見られたら困ることでもあるのか」

 松井戸は動揺を悟られまいと心を殺し、適当な返事をすることだけに専念した。

「分かりました」

「一分で戻ってこられるな」

「分かりました」

「いや、やっぱり時間が惜しい。三十秒で戻ってこい。きっちりストップウォッチで計ってやるから、遅れたら承知しねえぞ」

「分かりました」

「……さっきから適当に返事してねえか」

「分かりました」

「てめえ、ふざけてんじゃねえぞ」

「分かりました」

「もういい。早く戻ってこい!」

 松井戸がさらに気の抜けた「分かりました」を言う前に、電話は切れた。

 松井戸はすぐにスマートフォンの電源を切り、ポケットに仕舞いこんだ。急いで青鳥のもとに駆けつけるためにそうしたわけではない。むしろその逆である。青鳥から電話で邪魔されないように、逆探知で居場所を知られないように、わざわざ電源を切ったのだ。

 松井戸は意を決した顔で、岡濱東署とは反対の方向へ走り出し、タクシーに乗車。そしてその足で新神戸駅まで行き、九州方面へ向かう新幹線のチケットを買った。無線で捜査本部に告げた二人の逃走ルートは、一から十まで嘘だった。

 松井戸には、二人が真白の父の墓参りに行っていることが手に取るように分かった。父親の墓前で、すべてを明らかにしようとしている。松井戸がそれに気づき、そこに現れることまで計画のうちに含まれている。日記の仕掛けから、そう考えた。

 だから松井戸が今そこに向かっているのは、刑事としての使命感だけではない。真白の期待に応えたい。いや、答えなければならないという思いもあった。

「待っていてくれ、真白ちゃん。もう全部分かった。分かったから……」

 そう呟きながら新幹線に乗り込むと、周囲の人間からは白い目で見られた。確かに、息を切らしながら新幹線に乗り込んでくるだけでも注目されるのに、その上なにかを呟いているとなれば、不審がられるだろう。

 咄嗟に松井戸は呟く言葉を席番号に変え、さも席を探しているだけだという雰囲気を醸し出した。しかし、それがかえって注目を集める原因となった。

「あ、自由席だった」

 口を塞ぎ、手近な空いている席に座る。窓に映る自分を見ると、顔が赤くなっている。これは必死に走ったからか、恥ずかしいからか、はたまた知恵熱か。とにかく、今は先を急ぐしかない。目的地に着く頃には、既に夜の二十三時を回っているだろう。それでも、眠たいなどと泣き言を言っている場合ではなかった。

 しかし、この時の松井戸は気付いていなかった。自分の視野が狭くなっていることに。前だけしか見ることができていないことに。

 そしてなにより、後ろから二つの影がその後をつけていることに――。

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