第30話
十月九日(火曜日)
昨日の松井戸さんの目が気にかかりすぎて、大学の講義に全く集中できませんでした。おかげで講義終了時のレポートがうまく書けず、危うく居残りを喰らいそうになりました。ただ、私は既に、そういう場合の回避術を心得ています。
自分の手を恋人つなぎのよう指を組み合わせる形で合わせ、上目遣いをし、「今日は、どうしても駄目なんです。だから、また今度にしてください……ね」と言って、最後に首を傾げながらウインクをする。
こうすると、大抵の教授は許してくれます。ただ、何故かこの技は男性教授にしか有効ではないため、女性教授にはやらないことをお勧めします。女性教授にやった場合は、むしろ反感を買うことの方が多く、敵を作ることに繋がります。この回避術の効果になぜ性差があるのか。これもまた、謎です。
とにかく、今日は四十台の男性教授の講義だったので、その技を使って居残りを回避することができました。これで、遅刻せずにレストルームに向かうことができます。
レストルームに入ると、カウンターのいつもの席に松井戸さんが座っていました。その右隣には、初めて見る顔の刑事さんが座っていました。なんとなく松井戸さんが怯えた目をその人に向けている気がしたので、河野刑事と同じように先輩刑事さんなのかもしれないと思いました。
店のベルを聞いてお二人が振り返ると、初めて見る刑事さんの方が素早く立ち上がり、芝居がかった紳士のような立ち振る舞で自己紹介を始めました。私の目には、その人がものすごく胡散臭く映りました。
「天城真白さんですね。初めまして。現松井戸さんの相棒、茅野と申します。噂はかねがね聞いていましたが、本当におきれいな方だ」
「茅野さん、初めまして。いきなり私のことを褒めるということは、やはりお客としてではなく刑事として私に用が有りそうですね」
私は満面の笑みで答えました。本当にそうだという確信はありませんでしたが、この胡散臭い人の術中にはまってはいけないと、私の直感が警告を発したのです。
私にそう言われた茅野さんの顔は少し引きつり、「まさか、そんなわけないですよ。単純に、きれいだなと思っただけで、別に深い意味は」と苦しい言い訳をしていました。そうやら、図星だったようです。鎌をかけて正解でした。
「それで、何の用でしょう。今から準備が忙しいんです。要件があるなら、早く済ませてください」
私はさらにプレッシャーを与え、茅野さんに冷静な判断をさせないようにしようと考えました。私の警告が正しい保証はありませんでしたが、なんとなくこの人とまともに会話してはいけない予感がしたのです。
「……分かりました。では、単刀直入に聞きます。この人、ご存じですよね」
茅野さんは、如何にも悪人顔に見える人の顔写真を取り出して私に見せました。私は特に思い当たることが無かったので、「知りません」と短く答えました。すると茅野さんは大きな笑い声をあげたかと思うと急に静かになり、こう言ったんです。
「忘れるわけがありませんよね。金曜日にあなたが殺した人ですよ」
これまで河野刑事や松井戸さんに散々疑われました。だから、疑われること自体に起こることは極力避けてきました。それでも、こんなに直接的で失礼な物言いには、さすがに我慢することができませんでした。
「……! なんですか、その言い方! 私は人を刺したりなんかしていません」
こんなに感情的になったのは、いつぶりでしょうか。私は怒髪天を突きました。
「人のことをまるで殺人鬼のように言って、疑われるのはそちらにも事情があるでしょうから仕方がないと思いましたが、そんな言い方をされる覚えはありません。それとも、私が殺した証拠でもあるというんですか。あるなら今すぐ、見せてください」
「……いやー、実は無いんですよね。あなたが殺害した証拠なんて、なにも。それに、この人を殺した犯人は捕まってるんですよ」
とぼけた調子で、茅野さんがそう言いました。私は呆れかえり、それ以上何かを話そうと思えませんでした。
「はあ。松井戸さん、同情します。あんなに優秀な河野さんの次がこんなポンコツなんて……相手するのも大変でしょう」
私が嫌味を言うと、茅野さんはさらに腹立たしい言い方で嫌味を返してきました。私は、更に言い返してやろうと思いました。でも、私が言葉を紡ぐより前に、マスターが茅野さんを怒鳴りつけました。
私が見てきた中で、最も強いマスターの怒りでした。十人連続無銭飲食をされた時よりも怒っていました。依然ここに雇用主失格だと書きましたが、従業員のためにここまで怒ってくれるその姿を見て、前言撤回を決意しました。
「おー、怖い怖い。では帰りましょうか、松井戸さん」
茅野さんはコーヒーのお題をカウンターに置いて、入り口に向かっていきました。松井戸さんは小さな声で私たちに謝罪した後、茅野さんについて行きました。
しかし茅野さんは、すぐには帰りませんでした。扉の前に立って、再度私たちに挑発的な態度で話し始めたのです。私はそれが、感情的にさせて余計なことを話させようとしていると分かったので、努めて冷静に話しました。
「ではお聞きしますが、あなたはなぜ波野さんが刺されたことを知っているのですか」
冷静になることが遅かった。そう思った私は、「な、何の話をしているのでしょうか」と誤魔化すので精一杯でした。
その後も茅野さんは言いたいことを言うだけ言って、店を出て行きました。私は急に呼吸が乱れました。緊張していたのでしょう。
心配した松井戸さんが手を差し伸べてきましたが、その時私は昨日松井戸さんから事件の情報を聞いたことを思い出しました。その時、“被害者は刺殺された”と聞いていたのです。
なぜ松井戸さんは、そのことを説明してくれなかったのか。きっと、捜査情報を漏らしたことが発覚することが怖かったのでしょう。やるせない気持ちになった私は、松井戸さんの手を取る気になれませんでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます