第29話
十月八日(月曜日)
十七時、いつも通りレストルームでの勤務を開始しました。でもこの日は、またあの人がやってきました。私の知る限り、ここ数日はお客さんとして来店したことがないため、いらっしゃいませすら言わなくなっていました。
それどころか親の仇でも見るかのような目で、強く睨みつけていたようです。
「そんなに怖い顔をしなくても大丈夫だよ。自分は今日非番なんで」
そう言われて、私は眉間にしわが寄っていることに気付きました。急いでそのしわを顔の外に追いやり、飛び切りの笑顔で出迎えることにしました。お客さんとして来ていただけたのなら、一時的にはすべてのことを水に流すべきですから。
「いらっしゃいませ」
「切り替えが早いな。そこは、見習うべきところかもしれない。俺はなんでも引きずってしまって、日常生活に支障が出てるからな」
松井戸さんが、苦笑いをしました。私の目には、松井戸さんがとても落ち込んでいるように見えました。ここまで落ち込んでいるのを見るのは、初めてのような気がします。
人はどんなものにも慣れる生きもののはずなのに、松井戸さんは失恋の辛さに慣れないのでしょうか。それとも、やはりあの失恋話は私へのアピールで、それが全く功を奏さないことを引きずっているのでしょうか。だとしたら、とても悪いことをしているような気がします。
少し気まずい時間があったものの、松井戸さんは私の目を見て、注文を始めました。何か言いたげな目をしているように感じましたが、その時は何も聞きませんでした。きっと言いにくいことだろうから、話始めるまで待とうと思ったのです。
「真白さんは、本当に何も関係ないんだよね」
松井戸さんが注文したワインを持ってくると、唐突にそんなことを呟きました。私にはすぐに、河野刑事の件だろうということが分かりました。
まだ疑われているのかと思うと少し腹も立ちましたが、松井戸さんの様子を見ると、そんな気持ちは消えました。なにか、抱え込んでいるとてもいいにくいことを言い出そうとしているように見えたからです。
「……実は、同じ兵庫県内でまた刑事が殺害されたんだ。それも、この人も河野さんと同じように、かつて冤罪事件に関わった刑事だった」
「……連続殺人事件……ということですか」
「その可能性も、ある。それに、今度は――」
そこまで話したところで、松井戸刑事はふと顔を左に向けました。いつもなら、左隣に座った河野刑事から頭を叩かれるタイミングでしたが、そこにはもう、河野刑事の姿はありません。松井戸さんは、少し涙ぐんだ声で言いました。
「もう、居ないんだった。でも、なんでだろうな。今も、河野さんが俺に怒鳴る声が聞こえてくるんだ。あの日以来ずっと、ずっと、ずっと……耳から離れなくなったんだ」
「……それだけ、かけがえのない存在だったということではないでしょうか。まあ、ここに河野刑事が居たら、怒鳴り声じゃないの思い出せよ……って、怒鳴りそうな気がしますが」
珍しく私の冗談で、松井戸さんが笑いました。いつもは真顔で、センスがないと罵倒するだけだったのに、今日は初めての笑顔を見せました。その衝撃たるや否や、今日のことを、松井戸さん笑顔記念日にしたいくらいでした。
「ところで、お話の続きは……」
「ああ、そうだったね。まだ捜査中の事件だからあまり詳細については話せないけど、亡くなった刑事は、ナイフで刺されたらしい。河野さんの事件と違って、こっちは間違いなく殺人事件だと断言できるよ」
「立て続けに凶悪事件が起こるなんて、ここの治安はどうなってしまったんでしょう」
「さあな。連続誘拐事件の時みたいにあっさり解決して、被害者は全員無事でした。……なんて結末になってほしいもんだよ。まあ、もう被害者の無事は叶わないけどな」
そう言うと、松井戸さんは持っていたグラスを傾け、中にあったワインをすべて口に流し込みました。そして、追加で同じワインを注文しました。
何度も何度も同じワインを注文し続け、遂にはボトルごと持ってくるように私に言いました。そんな松井戸さんの姿を見ていると、私はあの日の河野刑事のことを思い出しました。
なんだか、今日の松井戸刑事の飲み方と、あの日の河野刑事の飲み方は似ている。まるで、忘れたいすべてをワインと一緒に口へ流し込むような、それでいて望みとは裏腹にどんどん頭が冴えていっているような、そんな破滅的な飲み方でした。成人式で、誰もがやってはいけない飲み方と習うものでした。
結局松井戸さんは、その日ワインを五本ほど開けましたが、千鳥足になることも陽気になることもなく、店を後にしました。お会計があの日の河野刑事を上回っていたことが、今日の松井戸さんの苦悩の大きさを物語っていました。
その後、店を出た松井戸さんがなぜか引き返してきて、しばらく店の前で足を止めていました。今更ながら、値引き交渉でもしようとしたのでしょうか。何度か私の方に目を向けましたが、結局再度店に入ってくることがありませんでした。
でも、その時の松井戸さんの目が――何かに怯えるようなその目が――なぜか私の脳裏に焼き付きました。
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