第26話
十月三日(水曜日)
十七時二十分。今日は大学の講義の時間が伸びたので、アルバイトに遅刻してしまいました。店長には連絡済みだったから問題ありませんでしたが、一人、私を待っている人がいました。
「あれ? 河野刑事……どうしてこんな時間から?」
「おう、真白ちゃん。君に会いに来たんだよ。今日は非番だから、ここのお酒を飲もうかと思ってね。いつもコーヒーだけだからさ、たまには売り上げに貢献しておかないとね」
私は内心昨日で十分貢献しましたよ、と思いました。がそれが口をついて出るより前に、河野刑事の立ち居振る舞いに違和を感じました。
前にも書いた通り、レストルームでは午後五時から酒類の提供も開始しています。おそらく河野刑事は、その時間に合わせて来店したと言いたかったんでしょう。私の出勤時間を狙ったわけではない……と。
でもその後の会話を考えれば、河野刑事の目的は私と話すことだったのだと分かりました。河野刑事は、昨日みたいに取り乱すような何かを抱えている。そして、それと私に何らかのつながりがあると考えている。そう思いました。
「……真白ちゃん、なんで嘘をついたんだ?」
「嘘? ……なんのことでしょうか。私は河野刑事に嘘なんて――」
「九州が出身なんだってな」
私は思わず、目を丸くしてしましました。私は小学生の時に、方言や文化の違いを馬鹿にされて一年間以上いじめられました。そこから私は決意し、身も心も周りに溶け込むように生きてきました。関西弁はうまく話せなかったので、標準語で丁寧に話す癖が付きました。そうすれば、誰からも疎まれることが無かったからです。
そうしていつからか、私は周囲に「生まれてこのかた、兵庫県から出たことが無い」と言うようになりました。だから、私の出身地について知っている人はそう多くありません。それなのに、河野刑事は知っていました。きっと私に、何らかの疑いを持っていて、調べたんだと思います。そして、今日はその確認に来た。そう考えるのが、自然でした。
「……だんまり、か。ま、これは事情聴取でも何でもない。それに、仮に事情聴取だったとしても、黙秘権は認められている。君が口を噤むことを責めることはない」
くるくる回すロックグラスを見つめながら、河野刑事が言いました。中身はすでに飲み干されていたので、氷がグラスに当たる音だけが店内に響きました。
気付けば、お店の中にいるお客さんは河野刑事一人になっていました。込み入った話になる雰囲気を察知してか、マスターも店の奥に入ったっきり顔を見せません。お客さんの対応に困っている従業員を放っておくなんて、雇用主として失格です。昨日貢献した売り上げを、すべて献上してほしいくらいです。
「あの……確かに私は九州が出身地ですが、それが何か問題あるのでしょうか」
接客業にあるまじき、少し苛立った対応だったと思います。私が封印していた過去に触れられたのが、自分で思うよりもはるかに嫌だったということでしょう。河野刑事もそのことを察知してか、話題を逸らしました。
「……今日は、なんで遅刻したんだ。珍しいじゃないか」
「大学の講義が長引いたんです。あのクソ教授、自分が遅刻してきたくせに謝りもせず、何も言わずに講義の時間を後ろ倒しにしたんです。ほんと、信じられない」
信じられないのは、私の口調でした。大学の同期と愚痴を言いあう際にも、“あのクソ教授”なんて言葉は使わないでしょう。なぜこんな言葉を使ったのか、自分でも分かりませんでした。自分でも正体が掴めず、対応できない苛立ちが私の中にありました。これを書いている今も、その正体が分かりません。
言い終わってから我に返って、恐る恐る河野刑事の顔を見ました。すると、そこには河野刑事の笑顔がありました。予想に反した反応に、私は困惑してしまいました。
「あの……何がおかしいんでしょうか?」
「あ、あぁ。ごめんごめん。ちょっと、色々心配しすぎだったなと思って――遅刻したら、アルバイトの時間も後ろ倒しになるのか?」
「いえ、アルバイトはいつも通り十時までです」
「あと三時間か。いつも通り忙しいと思うけど、頑張れよ」
河野刑事はそう言うと、代金を払って店を出て行きました。全く気付いていませんでしたが、河野刑事と話し始めてから既に一時間半ほどが経過し、時刻は十九時を回っていました。でもその間、何故かお客さんは全く来ませんでした。
私が出勤してきた中では初めてのことでしたが、マスターにとってはよくある話だったようです。マスターは自分のロッカーから読みかけの本を取り出し、カウンター席に座って読み始めました。
……カバーは見栄えの良い洋書のものになっていましたが、本とのサイズが全く合っていないことは誰の目に見ても明らかでした。一体マスターは、何を読んでいたのでしょうか。私に知られては困るものなのでしょうか。
二十時。数名お客さんが入っていましたが、常連となっていた岡濱東警察署の方々が誰一人として見えなかったため、あまり繁盛しているとは言えませんでした。いつも一人でも来る松井戸さんまで、この日は来ません。
ただ、その理由は店内に居ながらも何となく想像することができました。外ではひっきりなしに、パトカーのサイレンが鳴り響いていたからです。本当に絶え間なく鳴っていて、微塵も心が休まる時間がありませんでした。そのためか、お客さんが店内にとどまる時間がいつもの半分ほどになっていました。
気付くと、また店内には閑古鳥が鳴いていました。
「歴史的な黒字を出したと思ったら、次の日は歴史的な赤字か。人生、うまくいかないものだな」
店の奥から出てきたマスターが、鼻につく言い方で言いました。確かにこのままいけば、今日のお店の赤字はとんでもないことになることが目に見えていました。
「もう、店じまいにするか」
「なに言ってるんですか、マスター。もうサイレンが鳴りやんだでしょ。あれだけ忙しなく働いた警察の方々が、今から癒しを求めにここにやってくるということですよ。いつもの倍……いや、五倍は酒類が売れるかもしれません」
マスターは、私の口車に乗せられて営業を継続。しかし常連さん達が店に訪れることは無く、レストルームは歴代最大の赤字を叩き出しました。泣くマスターを見て、私は昨日のお返しだとほくそ笑みました。我ながら、性悪な女だと思います。
でも、この時の私はまだ知りませんでした。この日起こったもう一つの悲劇によって、私の人生に大きな暗雲が立ち込めることを。
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