第25話
十月二日(火曜日)
「なんであんな危ないところに行ったんだ! あれだけ言っただろう」
二十時。いつも通りの時間に来店した河野刑事と松井戸さんでしたが、第一声はいつも通りではありませんでした。注文より前に、河野刑事から私へのお叱りの言葉がありました。私は体をビクつかせて固まり、何も答えることができませんでした。
「まあまあ、河野さん。そんなに怒らないであげてください。彼女も悪気があったわけではありませんし、その話は僕が昨日しておきましたから」
「悪気がないなら、余計にたちが悪い。たまたま、本当に偶々滅多に訪れない通行人が居たおかげで、君は助かったんだ。彼が居なければ、君はどうなっていたか分からない」
河野刑事は、真っ直ぐな目で私にそう言いました。確かに、河野刑事の言うことは正しい。私は、何も反論できずにいました。松井戸さんも、いつものひょうきんな感じで振舞えず、どこか調子が狂ってそうな様子でした。
お二人はしばらく押し黙り、注文もしませんでした。私は何度か他のお客さんに呼ばれましたが、体が思うように動かなくて、気を遣った店長が代わりに対応していました。何故か店長がお客さんから怒鳴られる場面もありましたが、「気にするな」と言って、店長はなにも私に話しませんでした。
でもその去り際には、店長の「新しいアルバイトを募集しようかな。次、また可愛い子を……」という声も聞こえました。
その時はお二人との会話で頭がいっぱいで何も感じませんでしたが、今更になって悲しみが込み上げてきました。私は、既に用済みということでしょうか。一か月前に私を看板娘と言ってくれたあの言葉は、嘘だったのでしょうか?
……また話が脱線していましたので、話を戻します。とにかくお二人は私のことを心配してくださって、色々お叱りの言葉を頂きました。
でもその語調はだんだん弱くなり、やがては小さい子供がお母さんにおねだりをするような、そんな弱弱しさを醸し出すほどにまでなっていました。もうお叱りというよりは、懇願されていると言って差し支えないほどでした。それでも私が何も答えられずにいると、いつもは余計なことを話すなと松井戸さんをたしなめる河野刑事が、事件の情報を話してくれました。
「……この市内では今、未解決の誘拐事件が三件起きている」
「三件……そのうちの一件は私がたまま助かった、所謂未遂事件ですよね?」
「いや、それを含めると四件目だ。実は、昨日話した河原での誘拐事件は、三件目だったんだ。一件目は市内の住宅街で二十代前半の女性が。二件目は市内西部の公民館近くで同じ年代の専業主婦が。三件目はあの河原で、これまた二十代前半の女性が誘拐された。そして昨日、君があの河原で襲われた。これはただの偶然じゃない……間違いなく、誘拐犯はこの市内にいる。そして、真白さん。君はその標的になっている可能性が高い。もう絶対、あの河原には……人気のないところには行かないと約束してくれ」
いつも口数の少ない河野刑事が、こんなに話すのを聞いたのは初めてでした。途中までは俯いたまま話していたので気付きませんでしたが、その苦労の刻まれたしわの多い目には、涙が光っていました。
「はい、約束します。もう、あんなに危ないことはしません」
私は、そう返事する以外の選択肢がありませんでした。またしばらく沈黙の時間が流れると、雰囲気を変えようとしたのか、松井戸さんが変顔と変な声をしながら注文を始めました。
それも、普段は絶対頼まないであろう、“真白の手作りメイプルシロップ漬けパンケーキ~あなたへの愛をこめて、真白との甘い夜を~”を注文しました。今書いていて思いますが、本当に下品で、嫌悪感を覚える商品名です。
この商品は私が出勤している時限定で提供される料理で、私がまかないでいつも店長にお願いするものを商品化したものでした。もちろん、店長が無断で追加したメニューです。三週間前に初めて注文されて作らされるまでは、私もその存在を知りませんでした。正直言って、この小恥ずかしいメニュー名を今すぐに変えてほしいところです。
でも注文が入ったので、私は作るしかありませんでした。厨房に下がろうとしたところ、河野刑事が突然大きな雄たけびを上げました。
「俺も真白ちゃんとの甘い夜を過ごすんだー。俺にも真白の手作りメイプルシロップ漬けパンケーキ~あなたへの愛をこめて、真白との甘い夜を~をよこせー」
……なんだか、河野刑事が壊れてしまったような気がしました。私の事件を心配してくれているだけではないような、それだけでは説明が付かないほど様子が変でした。なにか、誰にも言えない秘密を抱えている。そんな気がしました。
私は心配になって、河野刑事に声をかけようと近付きました。すると――「俺も甘い夜を過ごすんだー」「俺にも真白ちゃんの愛をよこせー」「そこのいかついのばっかり真白ちゃんと話してズルいぞ」――等々、店中のあちこちから嘲笑や罵声が聞こえてきました。
すかさず河野刑事も反論しますが、数の暴力で圧倒されます。なぜかヤジを飛ばす側に回った松井戸さんが河野刑事にお腹を殴られ、そのあまりの強烈さに悶絶して店の中を転げまわることで、事態は収束しました。
「次にこうなりたい奴は、今すぐ俺の前に出ろ」
拳を握りながら覇気を放つその姿に、店の中は静まり返りました。慌てて店長が注文の確認に各席を回り、厨房に下がろうとした私に言いました。
「真白ちゃんのパンケーキ、二十五枚注文入りました。最高記録だね」
店長が嬉しそうに小躍りしています。それもそのはず、このパンケーキは店長が作るときと同じ材料を使っているのに、私が作るパンケーキの値段は店長が作るものの四倍。レストルームの中で、一番利益率の高い商品でしたから。
「店長……これって、ぼったくりじゃないですか?」
「……愛に値段は無いんだよ、真白ちゃん」
――私は初めて、このアルバイトを辞めようかと思いました。
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