天城真白の日記

第22話

 今思えば、もう少しうまいやり方があったかもしれない。そうすれば、今も変わらず彼女は自分の目の前に立って、笑顔で接客してくれていたかもしれない。逃亡者ではなく、あくまで一人の参考人として、優しく任意同行できたかもしれない。

 そんなことを考えながらまだ熱々のアメリカンコーヒーを啜ると、店の奥から何かを抱えて出てきたマスターが、申し訳なさそうに腰を低くしながら話しかけてきた。

「あのー、おくつろぎのところ申し訳ありません。真白さんのことで、お話が……」

 松井戸は今の疲れ切った自分にできる最大限の作り笑顔をし、丁寧に返事をした。だがマスターは、どこか怯えた様子だった。

 松井戸はいつもの不愛想な顔に戻ると、再度マスターに問いかけた。マスターは、胸に抱えていた一冊のノートを差し出した。

「いや、無断欠勤なんて初めてだったから心配になりましてね、真白さんのロッカーをマスターキーで開けたんです。決して、やましいことなんて、考えてませんよ。下心なんてありません。純粋な気持ちで――」

 自分が刑事だからか、本筋とは一切関係のない、どうでもいい言い訳を長々と話し始めたので、手のひらをマスターの方に向けて話を遮った。マスターは一瞬息を呑むと、我に返ったような素振りを見せ、本題を話し始めた。

「真白さんのロッカーから、このノートを見つけました。少し覗き見たところ、どうやら日記のようなんです。なにか、捜査の役に立つかと思いまして」

 マスターはその“天城真白の日記”をカウンターの上に置くと、そそくさと店の奥に戻っていこうとした。だが姿が見えなくなる寸前で振り返り、ロッカーの無断開錠や日記の覗き見が罪に問われるのかを恐る恐る訊いてきた。自分が答えずに、食い入るようにノートを見ていると、マスターは肩を落としながら店の奥に入っていった。

 その様子を横目でチラリと見た後、改めてノートを観察し始めた。どこにでも売ってあるA5サイズのノートで、外見上の特徴は特にない。表紙にはバーコード以外何も書かれておらず、一見するだけではこれが日記かどうかは分からない。

 次にノートをパラパラとめくり、まずは全体的に目を通す。確かに日記のようだ。日付を見る限りつい最近書き始めていて、事件が起こった日や松井戸が聞き込みに来た日、その後のことまで書かれていることが分かる。

 改行の具合で生まれたスペース以外は、ページのすべてが文字で埋まっている。なんとなくの想像通り、字がとても美しい。流し見するだけで、真白の几帳面な性格が全面に伝わってくるようだった。

 そして、これを読めばすべての真実が分かるという確信もまた、全面的に伝わってきた。

「マスター!」

 松井戸は今まで出したことのないような大声が、意表を突いて出てしまった。自分でも驚いたが、マスターはさらに驚いたようだ。普段聞いたことのないような素っ頓狂な声で返事をし、出てくる足取りも重かった。目には若干、涙が溜まっているように見える。

「やはり、私は捕まるのですね。どのような罪でしょうか? いわゆる、ストーカー規制法というやつでしょうか? それとも、痴漢なんかと同じ迷惑防止条例違反……強盗? はたまた、この証拠を持っていることが、私が真白さんを殺した証拠だとかいう話になって、私は無実の罪で投獄され――」

「映画の見過ぎですよ」

 松井戸が短く否定すると、マスターは安堵した様子で膝から崩れ落ちた。三十代後半で脱サラしてカフェを開き、細々とやってきたマスターにとっては、この店から自分が離れることはなににも代えがたいことなのだろう。気まずさのあまり、このまま店を出たいと思うほどには泣いている。

 いや、泣きすぎである。まるで生き別れた息子にでも会えたかのように、とめどない涙を流している。いつぞやか彼女から、マスターは異様なほどに涙もろいという話を聞いたが、こんな時にそれを確かめられるとは思わなかった。

「あの、そろそろいいですか」

 松井戸は珍しく気を遣って話しかける自分に、我ながら嫌悪感を覚えた。だがマスターは、そのようなものは感じなかったらしい。むしろ、気を遣ってありがとうと言わんばかりの表情で立ち上がった。

「はい、なんでしょうか」

「眠気覚ましが必要です。とても濃いエスプレッソをお願いします。飲んだら、金輪際寝ることはできないだろうと思えるくらいのものを」

「……本当にいいのですか? かつて河野さんが同じものを注文しましたが、本当に夜眠れなくなったとクレームを受けましたよ」

 内心河野さんに、「アホか。なにしてんねん」とプライベートなツッコミをしたが、死人を悪く言うのは止めようと思って、心の淵に沈めておくことにした。

「……河野さんが飲んだものよりは、少し手加減したものをください」

 やがて、注文したエスプレッソがやってきた。それを見た瞬間、自分は額に手を置いて天を仰いでいた。今自分が感じているのは後悔なのか、それとも悲しみか、はたまた怒りか。何の感情を抱いているのか、まるで分らなかった。

 黒い、黒すぎる。運ばれてきた漆黒というにふさわしいその液体を見て、それ以外の感想が無かった。普通コーヒーをマグカップに注ぐと、真ん中部分がどれだけ黒くても、淵周りはマグカップの色も反射して薄い茶色に見えるものである。

 しかし、この液体は淵周りも黒い。どこをどう見ても、どう光を当てても黒い。まるでブラックホールである。眠気以外の何か大事なものも、そこに吸い込まれそうな気がした。

 意を決して、一口で飲み干した。それと同時に、これまで昨夜徹夜した影響で感じていた眠気が、一瞬のうちに宇宙の彼方へ消えた。

「……マスター。これ、違法なもの入っていないですよね」

「何を失礼なことを!」

 珍しくマスターが声を荒げたことで、自分がどれだけ失礼なことを言ったのかに思い至り、謝罪した。しかし、違法な何かが入っているのではと疑いたくなるくらいに、このエスプレッソの覚醒作用はすごかった。

「これで集中できます。ありがとう」

 マスターにお礼を言い、いよいよ件の日記を開いた。

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