第20話
十月九日、午前七時。松井戸は二日酔いの頭を揺さぶって起こしながら、捜査会議に参加する。いつもなら捜査に進展がある度に調子よくしゃべる青鳥が、今日はおとなしく報告していた。内容を考えれば、それは当然だろう。
「つまり、佐桜で起きた波野刑事殺害事件に天城真白は関係していなかった。この負北という男が、すべて認めた。物証も揃っている。決まりだ。河野の件は、またふりだしに戻った」
話を終え、青鳥が席につく。その姿からはどこか、哀愁が漂っている。
だが、会議室全体の雰囲気は暗いものではなかった。むしろ面倒な捜査が無くなったと、喜んでいる空気さえ流れていた。
「あの、一つよろしいでしょうか」
例に及んで茅野が声を上げる。捜査員たちは一斉に睨みつけ、再び座らせようと圧をかけた。当然、茅野には無駄な小細工であった。
「なんだ、茅野。自分の推理を押したい気持ちも分かるが、負北が犯人と突き止めたのはお前だろう。これは覆しようのない事実だ」
「はい。波野刑事殺害の犯人は、間違いなく負北です。ですが、だからといって交換殺人の件が完全に間違っていたとは言えないと思います」
会議室内がざわつく。その場にいる誰もが、茅野の発言の真意を量り損ねていた。
「どういうことだ?」
「そのままの意味です。まだ、新田と真白ちゃんの交換殺人説を否定しない方がいいと言っているんです」
「だから、その根拠を話せと言っている」
「はい。波野刑事殺害の犯人である負北が捕まった今、河野刑事の事件には二つの可能性があります。一つは、河野さんの一件と波野さんの一件が何の関係もない単独の事件だという可能性です。この場合なら、現時点で浮上している容疑者の中で一番怪しいのは東でしょう。物証とも整合性が取れます。ですが、この考えでは不審点が残ります。新田友勝が、なぜ偽名を使ってまで河野さんや松井戸さんに接触したかということです」
松井戸は感心していた。連続誘拐事件の時には突飛な推理をする馬鹿な奴だと思っていたが、茅野は誰よりも事件の全体像をしっかり把握し、矛盾点に気付いているのだ。散々エキストラだと蔑んでいたが、どちらかというとこの働きぶりは、探偵役に近いのかもしれない。
しかし、同時に不信感も抱いていた。その原因は当然、昨日見たあの写真である。ひょっとしたら茅野は、真白を犯人に仕立て上げようとしているのではないか。そんな風にも思えた。
「では、新田の行動も矛盾せずに説明することはできるのか。それは簡単です。当初新田と真白ちゃんの二人は交換殺人を計画し、実行しようとした。しかし、実際に殺害したのは別の人間だった。これが、もう一つの可能性です」
「つまり、波野刑事の件については偶々負北が先に殺しただけで、天城真白が殺す予定だったということか」
「そうです。もしそうだとした場合、河野さんを殺害したのは新田の可能性が高いでしょう。物証とも整合性が取れます」
「確かに、筋は通っているな。分かった。今後の捜査は、その両面から考えて行う」
青鳥が捜査方針を指示すると、捜査員たちからけだるそうな返事が返ってきた。ようやく楽ができる。そう思った矢先のことだったから、青鳥の前でも取り繕うことができなかったらしい。
青鳥もそれを察したのか、ほとんどの捜査員を東の身辺調査に分担し、交換殺人を捜査する側にはあまり数を割かなかった。その代わり、この説に対してやる気のある松井戸と茅野を組んで配置することでバランスを取っていた。
捜査会議終了後、茅野と松井戸は会議室に残り、これからどう行動するかを相談していた。
「さて茅野、どうする」
「……どうしましょうか。一先ず、午後五時からの予定は決まっているのですが」
「決まっている?」
「当然、真白ちゃんに会いに行きます。僕はまだ、一度も会ったことがありませんからね。そして揺さぶりをかけて、反応を見ます」
茅野は自信たっぷりに言ってみせた。だが、松井戸の頭の中では理解が追い付かなかった。“僕はまだ、一度も会ったことがありませんからね”。この一言が頭に引っかかる。
会ったことが無いというのは本当なのだろうか。本当だとしたら、なぜあのような写真を持っているのだろうか。あの写真が本当に大学の入学式のものなら、少なくとも二年前のものになる。その頃から真白の存在を認識していたのに、なぜ距離が近づいた今、会おうとしないのだろうか。
ただの淡い恋心などでは説明できない何かが、複雑な何かがそこに関わっているように、松井戸には見えた。
その時、茅野のスマートフォンに着信が入った。東を捜査するために大学に向かった同僚からだった。
大学の事務所に捜査協力の依頼に行くと、苦情を受けたのだという。なんでも、今大学に通う学生の中に殺人事件の容疑者がいるとの噂が、どこからともなく湧いて出たというのだ。
今はまだ一部の人間が騒ぎ立てているだけだが、経済学部の講義には支障が出ているし、話を聞きつけた学生の保護者たちからの苦情電話が徐々に増加しているらしい。
そしてその噂の出所を調べると、東の可能性が高いというのだ。
電話を切った茅野からその話を聞いた時、松井戸の頭はその現象の理解を諦めようとした。東は真白に惚れている可能性が高い。その上、共犯者の可能性もある。道を踏み外してまで守ろうとした人間を自分の手で追い詰めるとは、いったいどういう了見なのだろうか。
「大学内で孤立させて、自分だけが唯一の味方になるつもりでしょうか。そうすることで自分に依存させ、離れられないようにする。ストーカーの歪んだ愛情が、遂に凶行に結びついたということでしょうか」
茅野の説得力のある推理が展開される。松井戸はそれを聞き、茅野が単純に優秀な刑事なのか、それとも同族だからストーカー心理に詳しいのか。判断に迷っていた。
いっそのことあの写真について直接問いただそうとも思ったが、思いとどまった。
「俺には、もうさっぱり分からないよ」
そう言うので、精一杯だった。その後も茅野と捜査を行ったが、はっきり言ってどのような捜査を行ったか、まるで覚えていなかった。
気付くと松井戸は、レストルームのカウンター席に座っていた。無意識ではあったが、いつもの定位置だった。茅野はその隣に座り、マスターからコーヒーを受け取っている。コーヒーが飲めることも知らなかった松井戸は驚き、少しばかり子ども扱いしすぎていたことを反省した。でも茅野がスティックシュガーを五本ほど入れたのを見て、その反省を撤回した。
時刻は、四時五十分。来店を知らせるベルが鳴る。振り返ると、そこには真白が立っていた。少し引きつった顔で、「お出迎えならうれしいのですが」と言う。どうやら、客としてここにいるわけではないことが分かっているようだった。それに、初めて顔を見る茅野にも警戒心がむき出しだった。
「天城真白さんですね。初めまして。現松井戸さんの相棒、茅野と申します。噂はかねがね聞いていましたが、本当におきれいな方だ」
茅野が素早く立ち上がり、自己紹介とおべっかを済ませる。茅野が聞き込みがうまい理由が、少しだけ分かった気がした。
「茅野さん、初めまして。いきなり私のことを褒めるということは、やはりお客としてではなく刑事として私に用が有りそうですね」
真白が、満面の笑みで言う。茅野の顔は少し引きつり、「まさか、そんなわけないですよ。単純に、きれいだなと思っただけで、別に深い意味は」と苦しい言い訳をしている。なぜかは分からないが、松井戸は少し胸が軽くなった。
「それで、何の用でしょう。今から準備が忙しいんです。要件があるなら、早く済ませてください」
「……分かりました。では、単刀直入に聞きます。この人、ご存じですよね」
茅野は、波野刑事の顔写真を取り出して、真白に見せた。真白は顔色一つ変えることなく、知りませんと、短く答えた。すると茅野は大きな笑い声をあげた後、すぐに冷静になって話を続けた。
「大変面白い冗談ですが、結構です。本当のことを話してください。忘れるわけがありませんよね。金曜日にあなたが殺した人ですよ」
「……! なんですか、その言い方! 私は人を刺したりなんかしていません」
顔を真っ赤にして反論する真白。松井戸も、こんなに感情的になっている真白は始めた見たよう気がした。
「人のことをまるで殺人鬼のように言って、疑われるのはそちらにも事情があるでしょうから仕方がないと思いましたが、そんな言い方をされる覚えはありません。それとも、私が殺した証拠でもあるというんですか。あるなら今すぐ、見せてください」
「……いやー、実は無いんですよね。あなたが殺害した証拠なんて、なにも。それに、この人を殺した犯人は捕まってるんですよ」
とぼけた調子で茅野が言うと、真白は呆気にとられた顔で固まった。一部始終を見ていた松井戸もマスターも、思考停止状態だった。
「はあ。松井戸さん、同情します。あんなに優秀な河野さんの次がこんなポンコツなんて……相手するのも大変でしょう」
「褒めて頂いたようで、光栄です」
茅野が、さらに真白の神経を逆なでするような言い方で言葉を返す。だが、その言葉で激昂したのはマスターだった。
「いい加減にしろ! こんな失礼な客は初めてだ。真白ちゃんは、うちの大切な従業員だ。それを馬鹿にするようなら、今すぐ帰れ!」
「おー、怖い怖い。では帰りましょうか、松井戸さん」
コーヒーのお題をカウンターに置いて、入り口に向かう茅野。松井戸は小さな声でマスターや真白に謝罪しながら進み、扉の方へ向かった。
「あ、そうだ。真白ちゃん、帰る前に一つだけ言わせてください」
茅野がそう言うと、マスターがとてつもない目つきで睨みつけ、また追い返そうとした。だが真白がそれを制止し、「言いたいこと言ったら、すぐに帰ってくださいよ」と念を押してから話を続けるよう促した。
「いや、情報を引き出すためとはいえ初対面の印象が最悪だったでしょうから、弁明しようかと。本当はこの通り、礼儀を重んじる人間なんですよ。初対面の女性に対して非常に失礼な言動をとって、申し訳ございませんでした」
「……謝罪を素直に受け取りたいところですが、気になる言葉がいくつかありますね。情報を引き出すためということは、私はまだ疑われているということですよね。そして、あなたは私への疑いを晴らしたわけではない」
「はい。むしろ深まりました」
「……まだ感情的にさせようとしたって、そうはいきませんよ。同じ手に二度引っかかるほどちょろい女ではないと、自負しています」
「それは、素晴らしい心がけです。ですが、先ほどのものは鎌をかけるための嘘ではありませんよ。あなたは、今回の事件に関わっている。私は、そう確信しました」
「ましになったのは、言葉遣いだけですね。相変わらず、私を犯人だと決めつけている。そんな見込み捜査をしているから、税金泥棒なんて嫌われる羽目に――」
「ではお聞きしますが、あなたはなぜ波野さんが刺されたことを知っているのですか」
静寂。辺りは静まり返った。まるで時が止まったかのように、誰も何も言わず、微動だにしなかった。しかし時が止まったわけではないことは、無機質な時計の針の音が教えてくれていた。
「な、何の話をしているのでしょうか」
「私があなたが殺した人間だと言ってこの写真を見せた時、あなたはこう言いました。“私は人を刺したりなんかしていません”と。殺していませんではなく、刺していませんと言ったんです。確かにこの人は刺殺されていました。しかし、本当にあなたがこの事件に関係していないとしたら、なぜあなたがそれを知っているのですか」
再びの静寂。時計が時を刻む音以外は、何も聞こえてこない。
「それでは、失礼します」
茅野がそう言って店の扉を変えると、あのベルの音色と共に全員の時が動き出した。真白は極度の緊張から息を止めていたのか、茅野が店を出ると途端に呼吸を乱した。松井戸が手を差し伸べようとするが、真白はその手を払いのけて、松井戸に鋭い眼光を向けた。これまで見てきた真白の表情の中で、最も恐怖心を掻き立てるものだった。
その圧に耐えられなくなった松井戸は、何も言うことなく店を出た。店の外には、茅野が居た。茅野は松井戸の方にとても満足そうな顔を向けているが、何も話そうとしなかった。不気味。そう形容するしかなかった。
「……茅野。いつかお前が言ったことと同じことを言ってもいいか」
「はい、どうぞ」
「お前は、本当に真白ちゃんの無実を願っているのか」
茅野は笑顔のまま何も答えず、松井戸に背を向けて岡濱東署に向けて歩き始めた。
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