第19話

 茅野と松井戸は、車で佐桜署を後にする。残りの取り調べは、佐桜署の面々に任せることになった。

「一つの冤罪事件が、多くの人の人生を変えた。僕たちの仕事って、本当に責任が大きい仕事ですよね」

「そうだな。でも、まだ終わっちゃいない」

「もう一つの冤罪事件から起こった悲劇は、またふりだしに戻りましたね」

「ああ。こうなってくると、河野さんの事件が謎だらけだ。交換殺人でないなら、なぜ新田は河野さんに接触しようとしたのか。真白ちゃんとのSNSでのやりとりはなんだったのか。東の意味不明な発言の真意はなんなのか。どれも分からない」

 車の中で、二人は仮説検証という名の愚痴大会を始めていた。話はやがて、青鳥の悪口や岡濱東署の待遇の悪さなど、どうでもいいことにまで波及していった。

 そんなこんなで二人は岡濱東署に戻ってきて、青鳥に一連のことを報告した。さすがの青鳥も頭を抱え、捜査方針をどう変更するか、すぐには決めかねている様子だった。

「あの、青鳥さん。このまま特に決まらないようでしたら、今日はもう上がってもいいでしょうか」

 松井戸が、突然そんなことを言い始めた。時刻は午後十六時五十分。定時と呼ぶにはまだ早いが、本日の早朝勤務を考えると十分すぎる勤務時間だった。それに連日働き詰めで、まるで休みが無かった。

 青鳥は相棒が亡くなった人間に対して配慮が足りなかったと反省し、松井戸に今日はもう上がるようにと告げた。

 松井戸は更衣室で私服に着替え、すぐ隣のレストルームに出向いた。久しぶりの、客としての来店だった。松井戸は今の荒んだ心を、真白に癒してもらおうと考えたのだ。

 我ながら、つくづく図々しい人間に思える。真白の平穏を壊しておきながら、こちらは平穏を取り戻してほしいと願うのだから。そんな松井戸の心が見透かされたのか、来店を告げるドアのベルが鳴っても、真白はいらっしゃいませと言わなかった。一瞬振り返りはしたが、松井戸の姿を認めると、またすぐに背を向けたのだ。無理もないが。

 松井戸はそっけない態度を一切意に介さないような素振りを見せながら、定位置のカウンターへ歩を進めた。カウンター席へ近づくほどに、真白が時折向ける顔がどんどん険しくなっていった。席に座るころには、親の仇でも睨みつけるような目つきで松井戸のことを見ていた。

「そんなに怖い顔をしなくても大丈夫だよ。今日は俺、非番だからさ」

 そう言うと、真白の眉間に寄っていたしわは地平線の遥か彼方に消え失せ、極上の癒しをもたらす笑顔を見せてくれた。

「いらっしゃいませ」

「切り替えが早いな。そこは、見習うべきところかもしれない。俺はなんでも引きずってしまって、日常生活に支障が出てるからな」

 松井戸は俯き加減で言う。真白が気を遣って、その目線の先にメニュー表を出してきた。メニューにはコーヒーではなく、アルコール飲料が書かれている。非番と聞いて、こちらの方が良いと判断したのだろう。

 松井戸は、身の丈に合わないワインを注文した。正直ワインのことなどまるで分からないが、今日はグラスをまわしながら優雅に飲みたい気分だったのだ。

「真白さんは、本当に何も関係ないんだよね」

 真白が注文したワインを持ってくると、松井戸が唐突にそんなことを呟いた。真白は少し不機嫌な様子を見せたが、松井戸が何かを言いにくそうにしていることを察したのか、笑顔とまではいかないまでも、表情を和らげてくれた。

「……実は、同じ兵庫県内でまた刑事が殺害されたんだ。それも、この人も河野さんと同じように、かつて冤罪事件に関わった刑事だった」

「……連続殺人事件……ということですか」

「その可能性も、ある。それに、今度は――」

 そこまで話したところで、松井戸はふと顔を左に向けた。いつもなら、左隣に座った河野から「余計なことを話すな」と言われ頭を叩かれるタイミングだったが、そこにはもう、河野の姿はない。松井戸は、涙ぐんだ声で話を続けた。

「もう、居ないんだった。でも、なんでだろうな。今も、河野さんが俺に怒鳴る声が聞こえてくるんだ。あの日以来ずっと、ずっと、ずっと……耳から離れなくなったんだ」

「……それだけ、かけがえのない存在だったということではないでしょうか。まあ、ここに河野刑事が居たら、怒鳴り声じゃないの思い出せよ……って、怒鳴りそうな気がしますけどね」

 真白の冗談で、珍しく松井戸が笑った。いつもは真顔で、センスがないと罵倒するだけだったが、この日初めて笑顔を見せた。真白は一瞬驚いた表情を見せたが、首を左右に振り、冷静さを取り戻した。

「ところで、お話の続きは……」

「ああ、そうだったね。最近起こったばかりの事件だからあまり詳細については話せないけど、被害者は、ナイフで刺されたらしい。河野さんの事件と違って、こっちは間違いなく殺人事件だと断言できるよ」

「立て続けに凶悪事件が起こるなんて、兵庫の治安はどうなってしまったんでしょう」

「さあね。連続誘拐事件の時みたいにあっさり解決して、被害者は全員無事でした……なんて結末になってほしいもんだよ。まあ、もう被害者の無事は叶わないけどな」

 そう言うと、松井戸は持っていたグラスを傾け、中にあったワインをすべて口に流し込んだ。そして、追加で同じワインを注文した。

 真白に愚痴をこぼしてはグラスを開け、追加を注文する。正直途中から値段や本数のことは考えていなかった。優雅に飲もうと思っていたのに、いつの間にかグラスをまわすのも忘れて、ただただ浴びるように酒を飲んでいた。

 だが、酔わない。何故か松井戸の頭は冴え渡っている。冴え渡っていると言っても、特に明快な推理や天才的なアイデアが閃いているわけではない。底知れぬ不安に襲われているだけだった。ここでずっとこうしていたい、ただそう願うばかりだった。

「松井戸さん、もうお酒は出せません。これ以上は危ないですよ」

 現実世界に引き戻してくれたのは、真白ではなくマスターだった。マスターはジョッキいっぱいに入れたお冷を持ってきてくれて、最後にこれを飲んでおいてください、とだけ言うと店の奥に消えた。

 お冷を口に入れる度、松井戸は自分の中にあった漠然とした不安が薄れていくような気がした。心の中で、マスターに感謝の言葉を述べた。

「なんだか今日の松井戸さん、あの日の河野さんみたい」

「あの日?」

「事件の日です。あの日も河野さんは非番だからと言ってこのお店に来て、たくさんお酒を飲んでいかれました。注文したお酒は違いますけど、なんだか今日の松井戸さんの飲み方と似てる気がして……え? まさかこの後、あの河原に行ったりしませんよね? それで明日の朝には遺体が……」

「縁起でもないこと言うんじゃないよ。大丈夫、まっすぐ帰るだけだから」

「なら、よかったです」

 真白はまた、飛び切りの笑顔を向けた。

 一方松井戸の方は、レジの前でその値段を見て愕然としていた。急に自分の健康状態と懐事情が心配になった。ひとまず滅多に使うことのないクレジットカードで支払い、十五回払いにすることにした。

 しばらくは、モヤシ炒めで過ごす羽目になるだろう。

 そんなことを考えて、帰路につく松井戸。ふとどこかのポケットにお金を仕舞っていないかと思い立ち、歩きながらポケットの中をまさぐり始めた。すると、なにかが入っていることに気付いた。大きさ的に、お金ではない。

 取り出してその裏面に書かれた“桜”の文字を見て、茅野の車のグローブボックスに膝をぶつけた時のことを思い出した。あの時中から飛び出したものを、まだ茅野に返していなかったのだ。

「ああ、忘れてた。近いから今から返しに行くか」

 松井戸は踵を返して岡濱東署の方へ歩こうとしたが、その飛び出した何かの表面を見てその歩みを止めた。それは、写真だった。被写体にも見覚えがある。写っているのは、間違いなく真白だった。

 そこまでは本来、何も問題が無いはずだった。

 だが、これを持っていたのが茅野であることが問題だった。茅野は未だ、一度もレストルームを訪れたことがないはずなのだ。それなのに、真白の写真を持っている。それが問題だった。

 もちろん最初は、一人でレストルームを訪れた可能性を考えた。プライベートで来店した際に茅野も真白に惚れ、恥ずかしさから誰とも来店することができなかった。松井戸はその考えで、自分を無理やり納得させようとした。

 だが、できなかった。それでは解決できない、もう一つの問題があったからだ。それは構図だ。茅野が持っていた真白の写真は、どこかの物陰から隠し撮りされたことが如実に分かる、盗撮写真だった。

 その上、写っているのはレストルームでアルバイトしている姿ではない。桜の木の下で晴れ着を着て、同年代と思しき女性たちと仲良く談笑している姿だった。風貌にも、今より少し幼さが感じられる。大学の入学式の写真だろうか。

 もしそうだとしたら、茅野は真白がレストルームでアルバイトを始める前にこの写真を撮ったことになる。

 これはどういうことなのか。ひょっとしたら真白のストーカーは東ではなく、茅野なのだろうか。振り返ってみると、茅野は一貫して真白のことを“真白ちゃん”と呼んでいた。捜査本部内でそう呼ぶのは、レストルーム常連の中でも数少ない一部の人間だけだった。自分に合わせて呼称してくれているのだろうと考えていたが、そうではない可能性も浮上してきた。

 思いがけないほど身近なところに容疑者がいたという事実に、松井戸は戦々恐々としていた。

 もはや誰を、何を信じてよいのか分からなかった。松井戸はまた、思考の泥沼を彷徨うことになった。

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