第18話

 茅野の車で一時間、松井戸は再び佐桜署に舞い戻っていた。茅野に取り調べを任せてから今まで三時間程度しか経っていない。この短時間で何かが進展しているとは、松井戸は大して期待していなかった。松井戸は署内へ急ごうと車を降りようとした時、グローブボックスに膝をぶつけて、しばらく悶絶した。

 我に返った松井戸が目を向けると、グローブボックスはぶつかった反動で開いていた。八つ当たりの如き強さでグローブボックスを閉めると、閉める時の風圧によって中から何かが飛び出してきた。見ると写真の裏地らしきものに一文字、マジックペンで“桜”とだけ書かれている。

 松井戸は後で直接帰そうと思い、その飛び出した何かをポケットに入れ、そそくさと佐桜署の中に入った。署内に入ると、未だ浮足立った雰囲気は健在だということが分かった。市民からの苦情と思われる電話が引っ切り無しになり、再捜査のためと思われる資料を大量に運ぶ荷車が縦横無尽に行きかっている。

 忙しない――という言葉では到底足りなかった。

「あ、松井戸さん。戻ってきたんですね」

 松井戸がロビーで署内の様子を見ていると、後ろから茅野が声をかけてきた。どうやら近くのお弁当屋さんで昼食を買って帰ってきたようだ。唐揚げ弁当のおいしそうな臭いを嗅いだことで、麻痺していた松井戸の食欲も刺激され、急激に空腹が感じら、みっともなく腹が鳴った。

「あ、昼飯まだだったんですね。署を出て右手に少し行ったところにお弁当屋さんがあるんで、そこまでどうぞ。僕は署内の小会議室をあてがってもらったので、そこで待ってますね。色々話したいこともありますし」

「悪い。ちょっと買ってくる」

「あ、松井戸さん。気を付けてくださいよ」

「え? なにが?」

「……そこのお弁当屋さんの看板娘、めっちゃくちゃ可愛いんで。浮気したら、真白ちゃんに殺されますよ」

「……その前にお前を殺すよ?」

 茅野は笑いながら謝罪の言葉を述べ、足早に階段を昇って行った。小会議室は、署内の三階にあるらしい。

 松井戸も大急ぎで弁当を買い、小会議室へ戻った。茅野の言う通り看板娘が美人だったからか、はたまた松井戸の食欲が暴走したからか。ともかく、松井戸が弁当を三つも買って帰った理由は不明だった。

 松井戸は部屋に入るなり、早速茅野に岡濱東署で明らかになったことの詳細を話した。話が進むにつれ、茅野の顔はだんだん険しくなっていった。

「松井戸さん、あなたはどっちなんですか?」

「どっちって……何の話だ」

「真白ちゃんが無実であってほしいのか、はたまたその逆か」

「そりゃあ、無実を願ってるに決まってるだろ」

「そうですか? 僕の目には、真白ちゃんが事件に関わっている可能性が高まれば高まるほど、松井戸さんは喜んでいるように見えますよ。ひょっとしたら、僕の方がよっぽど彼女の無実を願っているかもしれません」

「は? とんだとばっちりだな。第一、何度誘ってもレストルームに来なかったお前が、真白ちゃんの無実を俺より強く願ってるわけないだろ」

 松井戸は冷やかしながら言ったが、それでも茅野の顔は険しいままだった。なんだか、いつもと雰囲気が違うように感じられた。

 その雰囲気に気圧された松井戸は、佐桜署での件に話を逸らすことにした。

「ところで、あのミミズの方はどうだ。何か分かったか」

「とりあえず、彼の正体は分かりました。同時に、動機もね」

「動機? いったい何を言ってるんだ。動機なら最初から証言してたじゃないか。住処を追われた恨みだって」

「その住処を追われた皆さんに話を聞きに行ったところ、全員ミミズのことは見たことが無いと証言しました。つまり、その動機は嘘だということです」

「じゃあ、何のために」

「それを調べるために、彼の身元を突き止める必要がありました。私怨だと思ったんで。それで身元を特定し、そこから芋づる式に犯行動機も分かった。次の取り調べで、全部明らかにするつもりです」

 松井戸は度肝を抜かれた。茅野がこんなに優秀な捜査能力を有しているとは、露とも思っていなかったからだ。松井戸の中で、少し茅野の名前を覚える意欲が湧いてきていた。もちろん、すぐに消え失せたが。


 昼食後の取り調べ。取調官には茅野が入り、松井戸は隣の部屋からマジックミラー越しにその様子を観察する。ミミズの様相は相変わらず小汚く、取り調べのストレスからか、頬のあたりにいくつか引っ搔き傷が増えているような気がした。

「それでは、改めて聞きます。あなたの本名と本籍地を教えてください」

「お前さん、いい加減にしろよ。浮浪者の俺にそんなものは無いと、何度言えばわかるんだ。俺はミミズだ。気持ち悪いといって忌嫌われる存在なんだ」

「では、犯行動機を教えてください」

「それももう言っただろ。俺たちの住処を奪ったあのごみ野郎を殺してやりたかった。ただそれだけだ。住処を追われた仲間たちの復讐も兼ねて、俺はあいつを――」

「もう嘘は結構です。河原を追われた方々に話を聞きに行きましたが、誰もあなたのことは知りませんでしたよ。彼らが仲間だなんて、嘘ですよね」

「薄情な奴らだな。犯罪者とは関わりになりたくないってか。まあ、それが自然な反応だよな。それがこの残酷な世界を生き抜く、一番賢い方法だからな」

「一方で、あなたのことを知っているという人も見つけました」

 茅野がそう言うと、ミミズの勢いは完全に死んだ。目を見開き、茅野の方をただただ見つめている。時折口が震えているので何か言いたいことはあるようだが、それが言葉として発されることは無かった。

「あなたの家族は、今も必死にあなたを探しておられましたよ。あなたは必ず帰って来ると信じて、誹謗中傷に耐えながらもずっとあの家に住み続けていたんです」

「違う、俺に家族はいない。俺はミミズだ。土の中で寂しく生き、寂しく死ぬんだ」

「犯罪者になろうと、あなたが生涯愛すると誓った相手であることに変わりはないから。父親であることに変わりはないからと、今もあなたを待ち続けているんです。昔とは随分風貌が変わっているでしょうが、今のあなたの写真を見せると即答しましたよ。自分の夫だと、父親だと。奥さんも娘さんも、息子さんも。全員が」

「俺に家族なんかいない。俺はミミズだ。俺はミミズだ。俺は――」

「いい加減認めてくださいよ、あなたの本名は負北敗事まけきたはいじ。あの贈収賄事件の――」

「その名前で俺を呼ぶなー!」

 ミミズこと負北は、突如として激高し、机を強く叩いた。その後もうわ言のように何かを言っているが、まるで意味をなしていなかった。

 やがて落ち着きを取り戻すと、負北はとくとくと語り始めた。

「俺は、自分の名前がずっと嫌いだった。まるで生まれた時から、お前の人生は負け組になることが決まってるんだって、そう言われているみたいで。だから俺は、誰よりも努力した。勝ち組になって、バカにしてきたやつらを全員見返してやるって」

「だから地元で一番大きな企業に就職し、昇進していったというわけですか」

「ああ。地元の政治家に賄賂を渡したのも、本当は社長からの命令だった。そこで便宜を図ってもらえれば、うちの企業地盤はさらに盤石になるからと。でも――」

 負北は、唇を強く噛んだ。松井戸は遠くにいたから分かり辛かったが、ほのかに血が滲んでいるように見えた。

「でも、それがバレた。社長は誰を犠牲にしてもいいから、会社と賄賂は無関係だと、誰かが勝手にやったことだということにしろと俺に命令してきた。その時、色々世話をしてくれると紹介されたのが、波野だった。俺はあいつに五百万の賄賂を渡し、当時営業部長だった新田一の単独犯として処理するように頼んだ。だがあいつは、新藤に先を越された。そして俺は逮捕され、社長は俺を裏切り、波野は俺が勝手に判断してやったことにして事件は幕を引いた。おかげで、俺の人生は滅茶苦茶だよ」

 負北は情緒不安定ながらも、事の真相を全て話した。刑期を終えて釈放されてからも、社長の圧力でまともな生活はとても送れなかったこと。姿をくらませれば家族だけは助けると持ち掛けられ、家を飛び出したこと。それ以降はホームレスとなり、居場所を転々としていたこと。

 そして事件の日、偶々あの河原で野宿しようとしたのだという。だがそこに、波野がやってきた。波野は声をかけることもなく負北に近づくと、突如として暴行を始めた。負北は訳も分からず、家を飛び出す際に持ち出して使い続けていた包丁で反撃した。

 包丁に怯んだ波野が距離を取ると、負北はその顔を見てすべてを察した。また社長に裏切られたのだと。自分がここに戻ってきているという情報を掴んだ社長が、自分を殺すように波野を差し向けたのだと。

 そうなれば、家族のことも心配になった。ここで自分が殺されてしまえば、波野は次に家族を殺すかもしれない。いや、自分が知らないだけで、家族はもう既に……。

 そんなことを考えると、積年の恨みが一気に噴出した。負北はなりふり構わず波野に突進し、その腹を貫いた。その後逃走し、家族の無事が確認できたので自首したのだということだった。ただあくまで家族に迷惑をかけないよう、本名を伏せて捕まるつもりだったという。


 一通り話し終えると、負北は肩を落とした。床の一点見つめ、何も話そうとはしなかった。

「確かにあんたは数年間、ミミズのような人生を送ったのかもしれない。でも、その家族を思う気持ちは、あんたが人間だという何よりの証拠じゃないのか。家族もあんたの帰りを待ってくれていたんだ。野垂れ死にしても誰も気に留めないなんて、そんな悲しいこと言うなよ」

 茅野の言葉は、負北に届いたのだろうか。それは、誰にも分からなかった。

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