疑惑
第12話
十月五日、午前七時。松井戸はひとりで電車に乗り、天城真白が通う大学である県内一番の偏差値を誇る
松井戸は有料道路で素早く着くことも可能だったが、真白の通学路をすべて見て回りたいと考え、面倒な電車道で行くことにした。到着予定時刻は午前九時五十二分。駅から大学までは徒歩十分ほどなので、午前十時に始まる一限にぎりぎり間に合わない計算だ。
もちろんこれは松井戸が朝に弱いかそうなったわけではなく、真白との遭遇を避けるためであった。現段階で聞き込みをしている時に真白と鉢合わせするのは得策ではないと、松井戸が青鳥に進言していた。
松井戸は電車に揺られながら、車内の様子を見てみた。都会なら間違いなく通勤ラッシュとなるこの時間でも、この使い勝手の悪い電車には無縁のものだった。駆け込み乗車した松井戸でさえ、堂々と席に座ることができた。それでもまだ、二・三は席が空いていることが確認できる。
乗っているのは疲れた顔をした中年のサラリーマン、覚えたての化粧で着飾った女子高生、電車に揺られてお出かけしようとしている親子まで、実に様々な人間がいた。駅から駅までの距離が少しあるので車内放送も他のものに比べては少なく、車内には静かな時間が流れていた。
窓の外に目を移す。景色がきれいな緑一色だった。車両の誰かが窓を開けているのか、森林の心地良い臭いが車内に流れ込んでくる。松井戸にとっては、もう数少なくなった癒しの時間に思えた。
だがそんな心地良い空間も、大学へ向かうために乗り換えをしていく度にどんどんと消えていった。一度目の乗り換えでは心地よい風と緑の景色が、二度目の乗り換えでは余裕のある時間と空間が消失した。松井戸は、また辛い現実に引き戻された。
松井戸が到着すると、既に一限目の授業が始まっていることもあってか、大学内の人は疎らに見えた。校門を通ってすぐ左手の駐車場を見ると、見慣れた捜査車両が止まっている。その中に、顔は分かるが名前を思い出せないあいつの姿も見える。そんなあいつがこちらに気付き、車を降りて声をかけてきた。
「松井戸さん、遅いですよ。途中で人身事故にでも巻き込まれたのかと思いました。スマホに連絡しても返事が無いし」
「電車に乗っている人間に、スマホで連絡がつくと思っている方が悪いと思う」
松井戸は一切の言い訳も謝罪もせず、茅野だけを咎めてこの話を終わらせた。茅野は少し腑に落ちない様子だったが、松井戸が拳を振り上げると話を切り替えた。
「松井戸さんが来る前に、教務課に訊いていろいろ情報を集めておきました。天城真白は、この大学の経済学部にいるようです。現在三回生で、卒業要件に含まれている単位はほとんど取得済み。どれも最高評価で、学部の主席のようですね。今日の履修予定は一限目に別の学舎で行われている応用経済学Ⅲと、三限目にこちらの学舎で行われている行動経済学Ⅱですね。どちらも欠席無しの皆勤賞だということです」
「イメージ通りの優等生だな」
「あんな過去がありながら、立派に育ったもんです」
会話を終えた松井戸と茅野は事務室で許可を取り、今いる学舎で行われている経済学部の講義に潜り込むことにした。まずは真白と同じ三回生が多く履修しているという、応用経済学Ⅰの授業に入った。
講義室内は前列に座った全情報をノートに書きとる真面目君と、後列に座った適当に授業受けながら内職する不真面目君に分かれていた。教務課で聞いた話では経済学部の男女比率は五分五分だという話だったが、この講義室内に限って言えば、九割が男子学生であった。教授も陰気な雰囲気のおじさんで、話し方に覇気がない。何故女子学生がいないか、なんとなく分かった気がした。
やがて、講義終了を告げる鐘の音が鳴る。教授が最後に総括を述べているが、後列に座った生徒は次々と退席していく。松井戸は教授の話が終わってから行動しようと思いその場を動かなかったが、茅野は講義室に後ろにある扉の方を向きながら松井戸の手を引いた。
「なんだ?」
「真白ちゃんのことを詳しく知ってそうな学生がいます。まずは、あの子に話を聞きましょう」
「なんでそんなこと分かるんだ?」
「この講義中に雑談している中で、その学生だけが真白ちゃんの名前を三回も出しました。あれは、確実に惚れてますね。真白ちゃんの一大事だと言えば、喜んで知っていることすべてを話してくれるでしょう」
「じゃあ、そいつにしよう。但し、気をつけろよ。真白ちゃんに惚れているということは、言い換えれば共犯者の可能性がある人間だということだ。こちらの出方が不用意なら、余計な手間を取らされる可能性もある」
そう言うと松井戸は重い腰を上げ、茅野は軽い足取りでその男子学生を追いかけた。追いついた時、丁度仲のいい学生と別れの挨拶をしているところだったので、それが済んで一人になったところで声をかけた。
警察手帳を見てその男子学生は驚いたが、事情を説明すると捜査協力に応じると言ってくれた。その男子学生は
「それで、真白ちゃんがその刑事さんが亡くなった件で疑われているということでしょうか。僕が何を話せば、彼女を救うことができるのでしょうか」
「そんなに気負わないでください。東さんには、真白ちゃんの交友関係を教えて頂ければと考えていますので」
年が近いこともあってか、茅野がうまく話を合わせながら情報を聞いていた。松井戸は途中で何度か割って入ろうとしたが、若者の会話テンポに付いていけずに、遂には置物と化した。茅野がいてくれて助かった、と思う松井戸であった。
東の話では、大学内でも彼女はよく話にあがる存在で、男子学生の間ではとても評判がいいという。あの美貌の持ち主であるため、勝手にエントリーさせられては大学のミスコンを受賞し続けている。今年の受賞も間違いないと目されていた。
だが、そうして男子学生の人気を一手に集めているせいか、女子学生からはとても嫌われているのだという。彼女に向けられた陰口は数知れず、時には掲示板に彼女が全裸で踊っている写真が張り付けられるという。当然、合成写真だが。
そう言った関係のため、彼女に助けを求められて道を踏み外す可能性があるのは学内の男子全員、彼女をはめる動機のある人間は学内の女子全員だという結論だった。捜査の進展は、全く無かった。
「僕から話せることは、そのくらいでしょうか。ところで刑事さん、この後も引き続き聞き込みを続けるんですか?」
「ええ。そのつもりです」
松井戸がそう答えると、一瞬東の口角が上がるのが分かった。松井戸は少し気がかりだったが、そのまま東を解放した。東の存在が見えなくなった頃、最後の方は口を閉ざして聞き役に回っていた茅野が言った。
「彼、嘘をついてるんじゃないでしょうか」
「どうしてそう思うんだ?」
「東君を追いかける時に言ったと思いますが、あの講義中に真白ちゃんの名前を出して会話をしていたのは彼だけなんです。最初は彼が真白ちゃんに惚れているから頻繁に名前を出していると考えましたが、それにしても周りの反応があまりにも悪かった」
「……少し、質問の仕方を変えて継続しよう」
そう言うと松井戸は、学内にいる学生百人ほどに無作為に声をかけた。身分を雑誌の記者だと偽り、この大学内でファッション雑誌に掲載されるにふさわしいと思う女の子を推薦してほしい、と聞いて回ったのだ。結果、真白を推薦したのは僅かに二人だった。それも、どちらも同じ学部の女学生からの推薦だった。
さらに松井戸は、真白を推薦しなかった学生たちに既に候補者として真白が上がっていることを告げると、ほとんどの学生がそんな人は知らないと答えた。
その上、この大学ではジェンダー平等の観点から、五年も前にミスコンは廃止されていることが分かったのだ。また、東の話した嫌がらせの数々も、実際には無かったことが判明した。
「どうなってる? あいつは一体、何が目的なんだ? なんであんな嘘を……」
「東にとっては、嘘じゃないのかもしれませんね。彼は彼女を思うあまり、ストーカーに近い存在となってしまった。その過程で認知が歪み、妄想と現実の区別がつかなくなっている……とか?」
「とにかく、この大学の中で犯行に加担する可能性があるとしたら、間違いなく東だということだな。本部に戻って報告するぞ」
二人は車に飛び乗り、有料道路を通って岡濱市に戻った。所要時間は約一時間だった。本部に戻って、直ちに青鳥に東のことを報告。新たな参考人として、マークすることになった。
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