第11話

 いつもなら軽い足取りで心躍らせて潜る戸も、今回はとても重かった。辛い現実という名の重りが、松井戸の両手に負荷をかけた。それでも戸を開けると、いつども通りのベルの音は鳴る。そして、いつも通りのあの声も。

「いらっしゃいませ……あ、松井戸さん。今日はいつもより早くお越しですね。それだけ、今日は平和な一日だったということですね」

 いつもと違うのは、松井戸の心持ちと来店時間だけだった。普段はその仕事が一段落つく午後十時以降に癒しを求めて来店するが、今の時刻は十七時を回った頃。レストルームは十七時以降は酒類の提供も始めるので、真白とマスターがその準備をしていた。

 店内のテーブル席には、既に三組ほどのお客が鎮座していた。真白ちゃんをつまみに酒を飲む変態紳士の集まりだろう、四十代から五十代の男性客のみだ。マスター目当てに来店する女性客は、いないらしい。これもまた、別の意味で辛い現実だと言えよう。

 松井戸が普段と違って定位置に来ず、店内を頻りに見渡しているのが不思議だったのか、カウンターの向こうで酒樽や瓶を運んでいる真白が何度か名前を呼んでいた。

「松井戸さん、どうしたんですか? あ、その新しい靴に触れてほしいんですか。ほんとにもう、かまってちゃんですね」

 だが、松井戸の耳にその声は届かなかった。ただ真白の方を見つめ、自分がこれから何を質問すればよいのかだけを考えた。

 一人の人間松井戸としてではなく、一介の刑事松井戸として取るべき行動のみを頭に思い浮かべた。これまでの楽しい記憶や思い出をすべて頭の外に追いやり、ただ淡々と質問する。そうしないと、自分の心が保てそうになかったから。

 心を切り替えた松井戸はカウンターの方へ歩み寄り、マスターと真白に警察手帳を示した。二人の顔は強張った。その行動は、今の松井戸が一人の客として来店したわけではないことを意味していたからだ。

「申し訳ないが、今日は客として、ゆっくり談笑する暇は無いんだ」

「松井戸さん、何の真似ですか。あ、パフォーマンスですね。真白ちゃんが警察のことをいつも根掘り葉掘り聞くからって、そんなサービスしなくても……」

 マスターがお茶らけたことを言って、必死に空気を和ませようとする。真白のことを気遣ってか、松井戸の方に向けて同意を求めるような目配せをしているが、松井戸は一切意に介さなかった。

「自分は、岡濱東署の松井戸剛です。天城真白さん。昨日起こった事件について、あなたにお聞きしたいことがあります。自分の先輩である、河野圭介刑事をご存じですよね」 

 松井戸のかしこまった態度に、マスターはもう何も言えなくなった。真白が手に持っていた酒樽を引き継ぎ、店の奥で一人準備を進めている。

 真白の方は、唖然とした表情で松井戸を見つめていた。普段の松井戸ならその表情で気持ちが高ぶり、何枚も写真を撮っていただろう。しかし今の、刑事モードの松井戸にはそんな邪念は無かった。

「……河野刑事に、なにかあったんですか」

 ようやく真白が話した。だがその言葉は途切れ途切れで、とても動揺していることがすぐに分かる話し方だった。目も伏し目がちで、とても普段元気いっぱいに振舞っている看板娘とは思えなかった。

「昨夜、亡くななりました。あなたの誘拐未遂があった、例の河原で」

「え? 亡くなったって……それで私の所に松井戸さんが来るってことは、私は河野刑事殺害の容疑者ということですか?」

 真白は、相も変わらず小声で話していた。だがその一言で、店内は静まり返った。正面の店の奥からはマスターの、背後からはテーブル席にいる紳士たちからの刺すような視線が松井戸に注がれた。

 松井戸は普段の小心者の自分が少し頭をもたげたので動揺してしまったが、すぐに切り替えて事件のあらましを説明した。少し詳しく話しすぎたかもしれないと考えたが、それよりは話を続けて情報を引き出すことを優先した。

「容疑者かどうかということに関しては、まだ答えることができません。ただ、自分からあなたに訊かなければいけないことがあります」

「……アリバイ、ですよね」

「そうです。昨晩の午後六時から午後十時の間、どこで何をされていましたか」

「その時間は、ここでアルバイトをしていました」

「それを証明できる人は?」

「マスターです。あの日はお客さんが少なくて、七時くらいからはマスターと二人でいました。閉店まで、ずっと一緒に……」

 アリバイがあるにしては、真白の口調は弱かった。茅野がこの場に来ていたら、間違いなく何か隠していると疑うだろう。だが、今の松井戸はそんな先入観や直感で動く人間ではなかった。店の奥に声をかけてマスターに事実確認を取り、店内のお客にも話を聞いた。そのほとんどの顔ぶれが、松井戸にとっても馴染みがあったからだ。

「あんた、それでもここの常連か? 真白ちゃんが人を殺すなんてありえないだろ。ましてや河野刑事って、いつもあんたと一緒に来てたあの強面の人だろ。いつも楽しそうに談笑してたじゃねえか。それなのに疑うなんて……あんたに協力するなんて死んでもごめんだ」

 客の一人がそう言うと、他の客たちも同調し始めた。客ばかりでなく店長も同じようにヤジを飛ばしたので、店内は松井戸にとって完全なアウェーとなった。とても話を聞ける状態ではなかった。

「天城真白さん。十年前に福岡県に住んでいた際、父親が強盗殺人の容疑で逮捕されましたよね」

 松井戸のその言葉を聞き、店内には一瞬の静寂が訪れた。そして客の間で次々に、「真白ちゃんは犯罪者の娘だったのか」や「生まれてこのかたずっと兵庫に住んでるって聞いてたけど、嘘だったのかよ」等、真白を責め立てるような声が聞こえた。

 当の真白本人は、放心状態だった。

「……でも、それは誤認逮捕だった」

 松井戸がそう言うと、真白は「え!」と驚きの声を上げた。秘密保持契約まで結んで隠そうとしたことを、刑事である松井戸が口に出したことに驚いたのだろう。それも、数人とはいえ、事情を知らない人間がいる前で。

「そして、その誤認逮捕を起こしながら一切の処分を受けずに刑事を続けたのが、河野さんだった。要するに、あなたには河野さんを殺害する動機があるということです」

「……河野刑事が、あの時の……」

 松井戸の目には、真白の目から光が消えたように見えた。店の奥やテーブル席から睨みを利かせていたマスターや客たちも、同様だった。誰もが、その場に居心地の悪さを感じていた。そこで松井戸は刑事モードから切り替えて、普段の松井戸に戻って話を続けることにした。

「だから皆さん、捜査に協力してください。動機があるからと言って、真白ちゃんが犯人だとは限りません。むしろ、僕たちのアイドルである真白ちゃんがそんなことをするわけがないんです。これは、何者かによる陰謀です。真白ちゃんを、嵌めようとしている人間がいるんです。その悪意ある人間から、真白ちゃんを守ろうじゃありませんか。いつも僕たちは、彼女の笑顔に救われてるんです。今度は僕たちが、彼女を救う番ですよ!」

 店内で、歓声が上がった。それ以降は店内にいる全員が捜査に協力的になり、松井戸に自分が知っている情報を次々と話した。

 数人の客からは、昨夜午後七時ごろまで店にいたという証言が取れた。いつもは閉店までいるそうだが、昨日は誘拐犯逮捕の件と河野死亡の件でパトカーが引っ切り無しに走っていたため、あまり寛げずに退店したそうだ。

 松井戸は全ての証言を手帳にメモし、捜査本部に戻って青鳥に報告した。真白のアリバイは複数の人間が証明しているため、直接の犯行は難しいと言うことを。だが青鳥は、簡単には引き下がらなかった。

「共犯者がいる可能性は? 天城真白を助けるという大義名分を掲げると、急に団結したんだ。その中に共犯者が、あるいは全員が共犯者だという可能性はないか」

「その可能性は否定できません。彼女はこの地域では評判の子ですから、レストルームに来たことのない人間でも協力者を募ることができるかもしれません。あの美貌ですからね、助けを求められて道を踏み外す人間がいても、おかしくはありません」

「なら、明日は天城真白が通っている大学で話を聞いてきてくれ。確かここからは、電車で三時間くらいの距離だったな」

 松井戸が会議室中に響き渡る大きな声で返事をすると、後ろから茅野が申し訳なさそうに話に入ってきた。どうやら大学での聞き込みに同伴したいようだ。

 青鳥は少し渋ったが、松井戸が真白への聞き込みを譲ってくれた恩返しだと思って頼み込んだことで、ようやく許可が下りた。茅野は松井戸と熱い握手を交わし、感謝の言葉を述べた。

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