第8話

 同日十月三日、午後八時。岡濱東署に通報が入った。例のあの河原で、人が倒れているという通報だった。通報者は岡濱市で清掃ボランティアを行っている団体の責任者で、明日この河原で行う予定だった清掃活動の下見に来た際に発見したということだった。

 松井戸は証拠品保管庫から出たところで茅野からその報告を聞き、そのままの足で現場に赴いた。現場には既に、見慣れた岡濱東署の面々が雁首を揃えている。そして、そこにいる誰もが目を疑った。その倒れている人を、階段に頭を打ち付けて血を流している人を見て、信じたくない気持ちでいっぱいだった。

「……河野さん」

 そこに横たわっていたのは、河野だった。河野は土手から河原に降りるための階段の最下段に頭を打ち付け、頭から血を流した状態で死亡していた。一見すると、事故か事件か分からなかった。そのため岡濱東署に捜査本部が置かれ、事故と事件の両面を見据えた捜査が開始されることとなった。

 しかし捜査本部といっても、実際はお飾りである。ドラマなどのイメージにもある通り、通常捜査本部が立つと別の署などから応援が来ることが多いが、ここではそんなことはない。署外の人間が徴収されることなど、まず無いのだ。

 理由は簡単で、この署の管轄が狭すぎるからである。管轄が狭いのに職員の数は多いので、常に人手の供給過多状態なのだ。そのため捜査本部が設置されると言っても、普段の捜査より多くの署内の人間が会議室に集まる以外の特段の変化はない。

 考えられ得る理由はもう一つある。だがそれは署内の誰もが薄々感づきながらも誰も口にしない、いわば禁句なので、捜査員たちは、全員できるだけ考えないようにしていた。

 身内が被害者ということもあって、捜査は急ピッチで進んだ。誘拐事件の方で、あんなに手をこまねいたのと同じ人間たちが捜査を行っているとは思えなかった。

 午後十時の時点で、鑑識から現場検証の途中報告がなされた。現場には河野のものの他に、三人分の足跡が認められたという。一人は通報者のものと確認が取れたが、残りの二人分の足跡の持ち主はまだ不明だった。

「その足跡がこの事件に関係しているのか、確証はないですよね。現場は河原ですし、無関係の人間が通ることも十分考えられる話です」

 静まり返った会議室内に居残った茅野が、同じく居残り組の松井戸に話しかけた。誘拐事件から引き続いて捜査を指揮することになった青鳥に、河野との距離が近すぎて私情を挟みやすいと言われ、二人は情報集約係となっていた。

 松井戸は内心、管理官のくせに現場を駆けずり回っている青鳥の方が私情を挟んでいると感じていたが、そんなことは口が裂けても言えなかった。

「真白ちゃんの誘拐未遂があって以来、その噂が広まったみたいだ。あの河原には、昼間でも人が寄り付かなかったんだとよ」

「ならその足跡は、犯人のものですね。複数犯ということでしょうか」

「あるいは、瀕死の河野さんを見捨てた人間がいる。そういうことかもしれない」

「ところで……」そう言いながら、茅野は松井戸の方を見つめた。松井戸はその意図を図りかねて、目を逸らした。

「真白ちゃんの誘拐未遂の件、どう考えますか」

「誘拐未遂? お前はそっちの方が気になるのか。河野さんが死んだってのに……」

「つまり、無関係だと考えているんですね」

 茅野のその言葉が、松井戸には妙に引っかかった。

「何が言いたい」

「まだどちらかは分かりませんが、仮に河野さんが何者かに殺害されたとしましょう。そうなると、監視カメラの心配のないあの場所で犯人が最も警戒するのは、目撃者でしょう。証拠は自分の目で確認することができますが、あの暗い場所では目撃者の存在に気付くことができない。人通りが少なくて犯行にうってつけの場所ではありますが、それは諸刃の剣です。目撃されれば、ほとんどの言い訳が通用しないでしょう」

「目撃者を確実にいないようにするために、あの事件があったと言いたいのか」

「そう考えるのが、自然だと思います」

 茅野の考えに、筋は通っているように感じた。しかし松井戸は、考えすぎだと言って一蹴した。河野は人に恨まれる職業に就きながらも、ほとんどの人間から恨まれることのない、聖人というにふさわしい人間だった。

 顔は強面だし口も悪いし、人に意地悪もする。それでも、その後ろには誰にも負けない優しさがあった。何にも負けない、強さがあった。だから河野に逮捕された被疑者の多くは、刑務所の外に出てから河野に会いに来るほどだった。それも全員、感謝の言葉を述べていく。あなたのおかげで、真っ当な人生に戻ることができたと。

 そんな人間に、殺される原因となるようなものは思い至らなかった。――いや、本当は思い至りたくなかっただけだった。

「まあ。半年前には全国紙に顔写真が掲載されて、まさに警察の顔として売られた人ですもんね。殺される道理はないか」

「……ここに来てからは、な」

「……随分意味深な言い方をしますね、松井戸さん。まるで河野さんがここに来る前になにかあったのか、知っている口ぶりですよ」

「具体的なことは知らないよ。でも、ここにあんな優秀な人がいるって時点で、察しはつくだろう。ここは新任刑事の練習場兼――」

「人材の墓場……ですもんね」

 そう。ここ岡濱東署は、元々岡濱署一つで担当していた管轄を無理やり割譲して作られた警察署。本来は、必要がない場所と言って差し支えない場所なのだ。

 それでもここが必要とされる理由は、問題を起こした刑事が、熱が冷めるまでにやり過ごす、“避暑地”としての役割があるからだ。ここに人事異動を命じられる時点で、何の汚点もない人間だということはあり得なかった。

 どれだけこの署で見た河野の姿が聖人君主だったとしても、ここに赴任する前には何か問題を起こしている。そのことは自明だったし、問題の内容次第では殺害の動機にもなり得る。この捜査でそのことを知る可能性は、極めて高かった。

「話は戻るけど、真白ちゃんの誘拐未遂が河野さんを殺した犯人によるものなら、犯人は意外に身近な人間かもしれないな」

「あるいは、狂言という可能性も――」

 そこまで言いかけたところで、松井戸は茅野の頭を叩いた。自分が河野にやられてきたように、信念を込めた平手打ちを行った。

 茅野は少し目を潤ませながら、「こうして悪しき文化は継承されていくんですね」と恨み節を言った。今度の一撃は、私怨の平手打ちだった。

 そんな時二人のもとに、臨場した検視官からの情報が入ってきた。河野の死亡推定時刻は午後六時から午後十時の間、といっても午後十時には発見されているため、正確には午後六時から午後十時の間と考えられるとのことだった。

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