第7話
ここ最近、滅多に仕事のない岡濱東署を騒がせた誘拐犯が捕まった。岡濱市を沸かせるには十分なニュースだったが、まずは容疑を固めるための捜査を優先し、発表は控えることとなった。
「それではまず、氏名と住所をお願いします」
「
被疑者の取り調べは、河野が担当することになった。松井戸は記録係として、パソコンに向かう。容疑者の話したことや質問された時の反応、様々なことを記録する必要がある。正直マルチタスクが苦手な松井戸にとって、この仕事はかなり苦手な部類に入るものだった。記録係になるくらいなら、当てもなく聞き込みをしている方がましだった。
「事件のことについて、お伺いします」
河野はそれぞれの名前を言いながら、部屋で発見された四人の被害者の顔写真を並べる。一枚ずつ、ゆっくり、白鯨の反応を伺いなら並べていく。
だが、白鯨の顔色に特に変化はなかった。常に薄ら笑いを浮かべ、不気味な雰囲気を漂わせていた。松井戸は、初めて会ったときは顔つきの整った好青年だという印象を抱いたが、今の白鯨にはその印象はない。頭のねじが何本か抜けた、イカれた犯罪者にしか見えなかった。
「彼女たちを誘拐したのは、あなたで間違いありませんか」
「ええ。間違いありません。私が彼女たち四人を誘拐して、“飼育”していました。躾はしっかり行っていたのですが、あのマンションはペット禁止でしたね。以後、気を付けます。それにしても、マンションのルールを破っただけで警察が出てくるなんて……暇なんですか?」
一瞬の静寂。
河野と松井戸は顔を見合わせた。開いた口が塞がらなかった。目の前にいる人間は確かに自分たちを同じ日本語を話しているはずのに、その内容はまるで理解できなかった。思考が追い付かず、まるで時間が止まったかのような感覚に襲われた。
今自分たちは、異世界に居るのだろうか。自分たちの感性の方が、ここでは間違っているのだろうか。そんなバカげた考えすら、頭をよぎった。
だがこれは、明らかに今目の前で起きている現実の出来事である。異世界に来たわけではない。むしろ目の前にいる、限りなく人間の男に見えるこの生物こそが、どこか別の世界から来たのだ。
「――白鯨さん、でしたよね」
「はい、そうですよ。もう名前忘れたんですか?」
「いや、失敬。その……あなたが今何故ここにいるか、分かっていますか?」
「ええ。ペット禁止のマンションでペットを飼ったからでしょう。あ、ひょっとしてこういうのは契約義務違反みたいなことになるんですか? 警察も動いていることだし、私が知らないだけで、なにか刑法に触れたということですよね」
「ふざけるな!」
河野は机を叩きながら立ち上がり、白鯨の胸倉を掴んだ。引き寄せられた白鯨の顔を睨みつける。その表情は、般若などという言葉でも形容できないほどのものだった。慌てて松井戸が止めに入るも、河野はその手を離そうとしない。
そんな状況だったが、白鯨は変わらず薄ら笑いを浮かべて河野の方を見ていた。この状況に、一切動じていなかった。その態度が、更に河野を煽った。
「何を笑っている。何がおかしい! 貴様が彼女たちを誘拐したことで、その家族がどれだけの心配をしたか考えたことがあるか。無いなら、今考えろ。その足りない頭で、足りない心で、被害者とその家族の気持ちを考えてみろ!」
大声で叫ぶ河野とそれを制止しようとする松井戸。釣られて、松井戸の制止する声も大きくなる。だが、それより大きな声を上げたのは白鯨だった。この中の誰よりも、一番大きな声で、笑って見せた。
白鯨の胸倉を掴む河野の手に更なる力が籠められ、いよいよ手が出ようとした時だった。
「なんだ、元の持ち主たちからクレームが来たのか。それを早く行ってよ。言われたら皆、請求書を付けて返してあげたのにさ」
白鯨のその言葉を聞いて、河野の全身から力が抜けた。この男には言葉が通じない。そう感じたのだろう。俯くばかりで、何も話さなくなった。
松井戸も発言の内容が理解できなかったが、河野が話さなくなったので、とりあえず自分が質問することにした。
「請求書って、何の請求書ですか」
「当然、あのバカ丸出しのペットたちを躾けた代金ですよ。調教師がお金を請求することは、当然の権利でしょう。それとも、これも違法だとか言いたいんですか」
「調教? 何を言っているのかよく分からないのですが」
「なんだ。警察はもう少しましだと思ってたのに、ここにもバカしかいないのか」
白鯨はそう言うと、椅子に深く座り直して全体重を背もたれに預けた。完全に松井戸を格下に見ている態度だった。松井戸は腹に据えかねるものがあったが、そこはグッと堪え、質問を続けることにした。
「それで、調教とはどういう意味でしょうか」
「調教。馬や犬、猛獣などの言葉の通じない動物を、餌や罰を与えることで躾すること。そんなことも知らないの?」
「言葉の意味が聞きたいわけじゃありません。今あなた仰いましたよね。調教とは、動物を躾けることだと。彼女たちは、動物ではありません。人間です。血の通った、この世に生を受けて、愛情注ぎ込まれて育った、一人の人間なんです」
「人間だって、動物だろう」
「学問的な話をしたいわけではありません」
松井戸の言葉にも、徐々に熱が入っていた。白鯨の話し方や態度は腸が煮えくり返るほどのものだったが、それだけでは説明のつかない嫌悪感に支配されていた。自分とは、相容れない存在。そう表すことしかできないほどだった。
松井戸が拳を握り締めて言葉を詰まらせると、白鯨が俯いて大きな溜息をついた。再び顔を上げた白鯨の目は、哀れみの目だった。
「同情するよ。あんたはこの国の価値観に洗脳されてしまったんだな。男は容姿を整えて、勉強して経済力を持ち、女を家庭に迎えて幸せにしなければならない。家庭を築いてからは何事も家庭優先、自分なんて二の次。ただ身を粉にして働いて金を稼ぎ、女房や子どもがその金を使う。自分に使うことのできるものは、ほんの少額。でも、勤勉になって誰かに尽くす、それこそが幸せだ。そう思ってるんだろ?」
急に話すスピードを上げた白鯨に驚いたが、松井戸は何とか反論しようとした。しかし、皆まで言うなと言わんばかりに白鯨が首を横に振ったので、思わず言葉がつっかえてしまった。全て見透かされているような、奇妙な感覚に襲われた。
「だから俺たち男は、必死になって受験戦争や就職戦争に勝ちに行く。それが、幸せになれる道だと信じて。だが、女たちはそんなこと考えていない。あいつらに理屈はない。ただ欲求に忠実に従い、欲求を満たすためだけに行動する。女が結婚相手に選ぶのは、高身長イケメンで性欲を満たし、自分のことをお姫様扱いしてくれて承認欲求を満たし、自分に一切文句を言わずに必要なだけ金を与えて物欲を満たしてくれる。そんな都合のいい存在なんだよ。さっきの男が幸せになる条件の裏返しだな。つまり男が幸せになるためには、女の欲求を全て叶える、都合のいい存在になるしかない。俺たちは必死こいて、女にたくさん貢物を捧げられるように訓練したんだよ。自分のことをな」
松井戸は、白鯨の言葉を何一つ理解できなかった。むしろ理屈が通じないのはあなたの方ではないか、そう言いたかった。よくよく考えるとその発言は矛盾と嘘、飛躍に溢れていたが、立て板に水の如く捲くし立てられ続けると、まるでその考えが正しいかのように感じてしまう。松井戸の頭は、考えることを放棄しそうになっていた。
「そうやって、自分の思想に人を染める。随分原始的な洗脳手法だな」
さっきまで俯いていた河野が顔を上げ、口を開いた。その口調は少し前とは違い、とても冷静で落ち着き払ったものだった。
「お前、職業は? なにしてるんだ」
「今は自動車工場で期間工として働いているが、あそこは俺が輝くには少々狭すぎる世界だ……俺は画家だ。画家になるんだ。ゴッホやダヴィンチにも負けない、著名な画家になるんだ」
「なんだ、ただの現実逃避やろうか」
その河野の言葉を聞き、初めて白鯨が怒りを露わにした。声を荒げ、椅子を持ち上げ、地団太を踏んだ。子どもがお菓子を買ってほしいと言ってスーパーの床に寝転がって暴れる、白鯨の姿が松井戸にはそう映った。
「お前は女性から相手にされなかった。その斜に構えた万物を馬鹿にする態度に加え、定職に就かない体たらくさ。好いてくれという方が無理がある」
「黙れ! 俺は国内最高学府を首席で卒業した男だ。エリートだ。そこらにいる有象無象とは価値観が違う。考え方が違う。頭の良さが違う。だから理解されない。息苦しい。俺は悪くない。俺はこの国で一番頭がいいんだ。なのになぜ、誰でも入れる私立文系卒の奴らが家庭を築き、幸せな日常を送っているんだ。俺より成績が低くて、価値のないゴミどもに女が群がるんだ! それはあいつらが――」
「御託はもうたくさんだ!」
河野が、強い力で机を叩く。その大きな音は、今の取り乱した白鯨を威嚇するには十分過ぎるものだった。急におとなしなった白鯨を見て、松井戸は正気に戻り、定位置についた。
大急ぎで今までのことを記録に書く。書いていく中で、自分はどうしてこんな意味不明な言動に惑わされたのだろうと不思議に思った。
「お前は、素の自分では異性に相手にされない。だが、どうしても異性関係が欲しかった。だからお前は、暴力に訴え出ることにした。情けない話だ。お前の方が、よっぽど欲求に突き動かされてるじゃねえか」
河野のその言葉に、白鯨はもう言い返すことができなくなっていた。河野を見つめるその瞳には、もう光が無かった。
それ以降白鯨は、淡々と質問に答えるロボットと化した。黙秘したほうが得だと思える質問にも、すべて答えた。事実を淡々と、ありのままに……。
「それでは四件目の事件、橋本安奈さんの事件です。この人だけ女子高生ですね」
橋本安奈。今回の連続誘拐事件の中で唯一、通報がなかった事件。あの部屋にいた被害者の中で、唯一松井戸が顔を知らなかった被害者だ。調べたところ行方不明届は出ていたが、家出として扱われていたようだ。
「……似ていたんです。僕が高校生の頃にいじめられた女の子に」
「この人だけ暴行の痕跡があったのは、逆恨みですか。では、事件の詳細について教えてください」
「はい。誘拐した場所は、マンションの前です。他の人たちはSNSを使って情報収集しましたが、彼女は近くにあった学習塾の生徒でしたから、大体の生活パターンは分かっていました。だから午後十時ごろに待ち伏せして、すぐに部屋へ連れ込みました。目撃者はいなかったはずです」
淡々とその時の状況を答える白鯨。それを落ち着いて聞く河野と松井戸。だが、河野が確認のために日付を確認したことで、状況は一変することとなった。
「十月一日? 間違いないのか」
「はい。覚えやすい日付だったので、覚えています。十月一日の午後十時です」
河野と松井戸は、耳を疑った。その日、その時間は、真白の誘拐未遂事件があった時だ。優先順位が低いと思ってまだ聞いていなかったので、河野は真白の顔写真を白鯨に示した。
「誰ですか? その美人な方は」
真白の誘拐未遂以外はすべての罪を認めたため、残りの取り調べは茅野に新米たちに任せることにした。時刻は午後五時。白鯨が早く落ちたため、思いのほか早く事が済んだ。
念のため白鯨のした四件目の証言と橋本安奈が話した内容を照合し、整合性が取れることを確認した。どうやら真白の件に、白鯨は関与していないようだ。
「悪い、松井戸。今日はあがるな」
松井戸が自分のテスクで缶コーヒーを片手に話を整理して考えていると、私服に着替えた河野が声をかけてきた。松井戸は「デートでもあるんですか」と茶化そうとしたが、河野の表情があまりにも暗かったので止めた。同様の理由で、早く帰る理由も聞かなかった。既に帰り支度をしているということは、上の許可を得ているということだと考えたからだ。
後に松井戸は、この考えを後悔することになる。
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