第6話
十月三日。恒例の捜査会議が開かれるも、目新しい報告と言えるものは無かった。青鳥もこうなることが分かっていたのか、ぎりぎりまで情報が来るのを待っていたのかは分からないが、今日だけ捜査会議が午前十一時に始まった。
しかし、依然として被害者の共通点も、容疑者も、何も分からないままだった。
「……他に報告のあるものはいるか」
青鳥が呼びかけるが、誰も手を上げることはなかった。その場にいる誰もが、捜査が手詰まりしていると分かっていたからだ。
「諦めるな! 我々が諦めてどうする。最後まで、粘り強く捜査しろ。いいか、分かったか。分かったらとっとと、情報を足で稼いで来い。解散!」
そんな空気感を吹き飛ばしたかったからか、青鳥がいつもの二倍の声量で叫んだ。そんなに気合を入れれば当然声が裏返り、松井戸の失笑を誘うことになる。今度は、河野からの妨害も間に合わなかった。そして、また捜査前のお説教が始まるのだった。
いつものお説教部屋に呼びだされる松井戸、逸る気持ちを押さえて外で待つ河野。今日も長くこの時間が続くだろうと思われた。
しかし、今回は約一時間と、殊の外早くお説教が済んだ。管轄内のマンションで住民同士がトラブルを起こし、トラブルを起こしたうちの一人が刃物を手にしているという通報が入ったからだ。青鳥はそれを聞いた途端にやりと笑い、松井戸と河野にその現場対応を任せた。私怨も交った、厄介払いというところだろう。
どうにも納得できない松井戸が、河野と住民トラブルの現場に向かう車中で不満を漏らしていた。
「なんで自分たちが住民トラブルの対応なんか」
「それをお前が言うな。こっちは、とばっちりでここにきてんだぞ。誰かさんが、管理官を怒らせたせいでな」
「全く。お偉いさんを怒らせるなんて愚行をしたやつは、一体誰なんでしょうね」
「……素直に謝ることはできないのか。それとも、死にたいの――」
「すいませんでした」
河野の圧倒的な気迫に、松井戸は言葉をかぶせるようにして謝罪した。おかげで、胸筋上部へのパンチ一発で済み、事なきを得た。
現場に到着した。岡濱東署の管轄の西端で、十階建てのマンションだった。外見からはとても立派な建物で富裕層でも住んでいるのかと思うような場所だが、ここは市の公営住宅である。
かつては入居希望者が殺到する人気物件だったが、ある日から突然、住民が次々に亡くなる怪現象が起こったのだ。警察の捜査の結果事件性はなく、偶々自然史のタイミングが重なっただけだという結論が出された。
だが、一度そのような負のイメージが付くと、物件としての価値は地に落ちた。そこから市が買い取り、公営住宅としたのだ。イメージは悪くても、住宅としての質が悪いわけではないし、十階建てで戸数も十分確保できることから、かなり重宝されている。
駅が徒歩十分圏内にあり、部屋も2LDKとそこそこ広く、家賃も破格。そんなこともあって、入居希望者が殺到。今では市内の貧困層を中心に、多くの人が入居している。それでもまだ、入居希望者は後を絶たない。
そのため、入居者間のトラブルだけではなく、入居者と入居希望者のトラブルまで頻発するようになり、警察にも大人気となっている。もちろん、これは不名誉な称号だろうが。
「問題の部屋番号は?」
「四階の四〇七号室ですね。騒音トラブルで隣の四〇六号室の住民と言い争いになって、四〇六号室の住民の方が刃物を持ち出したとのことです」
「早く片付けて、誘拐事件の捜査に合流するぞ」
河野は小さく溜息をついた後、重い足取りでマンションの階段を昇って行った。すると、二階から三階へ上がる階段の中腹辺りで、すでに若い男性の怒鳴り声が聞こえてきた。何と言っているかはっきりとは聞き取れないが、頻りに「殺してやる」や「お前みたいな無能人間が俺に迷惑をかけるな」などと叫んでいるようだ。
四階に上がる階段を昇りきり、松井戸が廊下に顔を覗かせた。後ろでは、河野が気だるそうに、壁に体を預けている。
「河野さん、犯人はかなり興奮しているようです。ここは慎重に――」
松井戸が言いかけたその時、臀部に強い衝撃を受けて、腰が引けた間抜けな姿勢で廊下に飛び出した。後ろを睨みつけると、河野が壁に身を預けた姿勢のまま、したり顔で右手を軽く振っている。左手に、箱から抜かれたばかりのたばこも見える。
松井戸は河野への恨み節を小さく吐き出しながら、刃物片手に四〇七号室のドアを叩いて叫ぶ犯人との距離を詰め始めた。徐々に距離を詰めるにつれ、最初は刃渡りが大きく見えた刃物が、実際は果物ナイフだったことに気付いた。
あの程度の刃物なら、最悪一人でも安全に取り押さえることができる。そう思った松井戸は、思い切って犯人に声をかけてみることにした。
「あのー、すいません。近隣の方のご迷惑になるので、お静かにしていただけますか」
「ん? なんじゃい、われぇ! お前みたいな無能人間が、気安く俺に話しかけとるんちゃうぞこらっ! 死にたいんか」
「まあまあ、そんなに興奮しないでください。この通り、私は警察です。どうかこの場は、平和に治めてくれませんか」
松井戸が低姿勢のまま警察手帳を取り出し、男に示した。すると男の顔がみるみる青くなり、血の気が引いていった。さっきまでの勢いも消え、声も小さくか細いものとなった。
「あ、警察の方だったんですね。すいません。つい感情的になってしまって、こんな騒ぎを……もう冷静になりましたので、大丈夫です。お騒がせしました」
そう言うと男は、そそくさと自分の住む四〇六号室の部屋へ入って、ドアを閉めようとした。松井戸は慌てて外側の取手を掴んで強く引き、ドアが閉まるのを阻止した。
「な、なんですか。私はまだ、警察のお世話になるようなことはしていませんよ」
「そうはいきません。刃物まで持ち出してるんですから、少なくとも事情をお話しいただく必要があります」
「ただ横の人が僕のかけている音楽がうるさいと言ったことに苛立っただけで、それ以上はなにもありませんから。だから、もう大丈夫です」
男がドアを引く力が、一層強くなった。松井戸は負けじと、ドアの隙間に足を挟み込んだ。当然強く足は挟まれ、激痛が走った。苦悶の表情を浮かべて、悲痛な声を上げる松井戸。その後ろから、甲高い悲鳴とは全く違う低音ボイスが聞こえてきた。
「あらあら、こんなことまでしちゃって。私たちはまだ、あなたのお名前も伺ってないんですよ。帰れるわけがありません。それにこれ以上抵抗を続けるなら、あなたを公務執行妨害で捕まえないといけないかもしれませんね」
河野が脅し気味にそう言うと、男の力が弱まり、ゆっくりとドアが開いた。河野がドアを手で力強く抑えると、松井戸はすぐに足を離し、靴の上からでは特に意味もないのに息を吹きかけ始めた。
しかし、この署に配属される前に組んでいた相棒から譲り受けたその年季の入ったボロボロの靴からは、ただ白い埃が舞うだけだった。痛みは変わらない。それでも松井戸は、息を吹きかけ続けた。論理的に考えれば何の意味もない行為だが、それでも精神的には幾分かの安らぎを得ることができた。
そんな松井戸の姿を見届けた後、河野は男の方を向き直した。男は、河野の圧力にたじろぐそぶりを見せる。
「見てください、あれ。意味もないのに、フーフーと息を吹きかけてますよ。あんなにまでして、どうして私たちと話すのを嫌がったんですか」
「いや、話すのを嫌がったわけではありませんよ。ただ気が動転して、捕まりたくないと思っただけです」
「あなたには、捕まる理由があるんですか?」
「あ、あ、ありませんよ! なにもやましいことなんてしていません! 私はあの日本一の大学を卒業していて、海外留学も経験していて、一流の自動車工場で勤務しているんです。そんな私が、わざわざ自分の品位を落とすようなことをするわけがありません」
「そうですか。では、失礼します」
そう言うと河野は、男を跳ね除けて部屋の奥へ入っていった。それも、土足のままだ。男は跳ね除けられた時に頭をぶつけたのか、右手で頭を押さえながらも懸命に河野を呼び止めようとしていた。
しかし河野は、その歩みを止めることが無かった。ずんずんと、部屋の奥に入っていく。足の痛みと唐突すぎる出来事に頭の処理が追い付かなかった松井戸も、河野の後に続くことにした。但し、靴は丁寧に揃えて脱いだ後で。
靴を揃えて前を向き直した松井戸は、男に先の果物ナイフで襲われている河野の姿を目撃した。
「なにしてる! 離せ」
体勢を立て直した松井戸が、右足の痛みを我慢して強烈なタックルを男に喰らわせた。男は床に倒れこみ、果物ナイフを手放した。河野がそれに気づき、果物ナイフを遠くに蹴飛ばした。もう男の手には届かないだろう。
はるか遠くに滑っていった果物ナイフを見て、男の体から力が抜けた。抵抗しても無駄であることを悟ったのだろう。
「松井戸、その男を緊急逮捕しろ。絶対に逃がすな」
「ざ、罪状は?」
「これを見ても、まだ分からないか?」
河野は、目の前にあった半開きの引き戸を全開にした。大きな音を立ててその戸が開くと、けたたましいクラシック音楽の音色と共に、松井戸は予想外の光景を目の当たりにした。
なんと、四人の女性が拘束された状態でベッドの周りに寝かせられていたのだ。口に咥えさせられている猿轡と瘦せこけた頬も相まって一瞬誰だか分らなかったが、内三人は件の連続誘拐事件の被害者として松井戸も知る顔だった。
「これは……いったい……」
「ボーっとしてる暇はねえぞ。忙しくなるのは、これからだ。応援も呼んで、この大事件の幕を引かないといけねえ。その前に、まずは……」
河野は、松井戸の方に顎をしゃくった。松井戸はハッとして、思い出したように手錠を取り出した。
「十月三日、午後十二時四十五分。誘拐の容疑で逮捕する」
力の抜けた男の手上に、黒い鉄の輪がはめられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます