第4話

 松井戸と河野は鈴木少年と別れた後、しばらく事務処理を行っていた。

「中々骨のある少年だったと思わないか。あの力強い目からは、なにかとても強い信念を持って行動しているように感じた」

「確かにそうですね。年齢に見合わず冷静に行動できるし、礼儀正しいし、言葉遣いから育ちの良さが滲み出ていました」

「賢そうだったし……あの子が刑事になったら、お前はお役御免だな」

「殺しますよ」

 松井戸がそう言った瞬間、河野からの力強いラリアットが飛んできた。

「お、どうした。そんなんで、俺が殺せるのか」

 松井戸は河野を、親の仇を見るような目で睨みつけたが、河野は一切動じなかった。それどころか、薄ら笑いを浮かべながら手招きをしている。

 どうしてやろうかと松井戸が考えていると、下の階の受付辺りが騒がしくなった。松井戸たちが気にしていると、あの後輩刑事が走ってきた。

「大変です。あの河原で、今度は誘拐未遂事件が起きました。今被害者が、目撃者に連れられて受付に来ているらしいです」

「そうか。じゃあお前、話を聞いておいてくれ」

「え、僕でいいんですか? 絶対お二人が事情聴取すると思って伝えに来たのに……」

「ん? なんで俺たちが事情聴取すると思ったんだ?」

「だって、被害者は――」

 被害者の名前を聞いた瞬間、松井戸と河野は走り出した。一階の受付に辿り着くと、そこには三件目の事件を通報したあの模範的なランナーと、女性警察官に肩を抱かれて宥められている真白の姿があった。

「真白ちゃん、なにしてるんだ!」

 松井戸が大声で叫ぶと、真白は泣き出した。宥めていた女性警察官が、こちらを鋭く睨みつける。周囲にいた人たちも、全員松井戸の方を睨んでいる。一瞬で空気感がアウェーになった。もう、事情聴取に名乗りをあげられる雰囲気ではなかった。

「あ、はい。帰ります。ごめんなさい。すいませんでした」

 力なく引き下がる松井戸に、河野も続いた。階段を昇って二人きりになったところで、松井戸の背中に強い衝撃が走った。

 五分ほどデスクで過ごした後、松井戸たちは取調室をマジックミラー越しに見れる隣の部屋へ移動した。まずは、通報者の事情聴取を覗き見る。

「それでは、あなたが見たことを詳しくお話しいただけますか」

 取調室で通報者の前に座って偉そうにしゃべっているのは、松井戸の後輩刑事だ。

 通報者の方はかなり年配のように見て取れ、三件目の現場に駆けつけた警察官の証言通り、右肩から左肩にかけて反射板を、頭にライトをつけている。松井戸たちの方から見ている限りは鈴が見えないが、通報者が動くたびに僅かに音が聞こえるので、おそらく左の腰辺りにつけているのだろう。

「あの、茅野さん。私が彼女を助けたのは、あのくらい河原ですよ。私は、何も見ていません。ただいつかと同じように助けを求める声が聞こえたので、その声に応えようとしただけです。被害者の方がどのように襲われていたとか、犯人がどんな人だったとか、そんなことは知らないんです」

「そうですか。では、こちらをご覧ください」

 茅野は机の上にあの河原を平面に図示したものを広げ、そのうちの一か所を指でトントン叩いた。その音につられ、通報者が前のめりにそこを確認する。しかしその意味するところがよく分からなかったのか、首を傾げながら体を起こし、訝しげな目を茅野に向けながら体を背もたれに預けた。

 茅野は少し前のめりになって、机に体を預けるような姿勢を取った。これはいつも、なにか畳みかけようとするときの茅野の癖だった。松井戸たちは、息を呑んだ。

「これは、あの土手を図で書いたものです。こちらのペンを使って、あなたが助けを求められたであろう場所と被害者を発見した場所に、印をつけていただけませんか」

 茅野から赤色のマジックペンを受け取った通報者は、その図に二つバツ印を付けた。付け終わると、再び背もたれに体を預けた。

 茅野は、二つのバツ印を指さしながら質問を続けた。

「……この辺りで、間違いありませんか」

「暗くて不確かではありますが、そのあたりだと思います。ところで茅野さん、先ほどから非常に鋭い目を私に向けているようですが、ひょっとして私は何か疑われているのでしょうか。偶々、二回連続誘拐事件を発見した。それだけですよ。もっとも、今回は東屋を救うことができましたが」

 通報者が不快感を露わにすると、茅野は体を預けるのを机から椅子の背もたれに戻し、大きな笑い声をあげた。通報者が呆気にとられる。

「いや、失礼しました。考え事をすると怖い顔になるのが、私の悪い癖でして。決して、あなたを疑っているわけではありません」

 その様子を見て少し安堵したのか、通報者の表情が和らいだ。

「それでは話を変えて、あなたがヒーローとして彼女を助けた時の様子を教えていただけますか」

「ヒーローだなんて、そんな……」

「いやいや、先ほど仰っていた通り、今回は犯罪を未然に防いだんですよ。これは、警察庁長官辺りから、表彰されるかもしれないな」

 顎を手で撫でながら、茅野が言う。松井戸たちには、場を繕うためにお世辞を言っていることが手に取るように分かったが、通報者の方はすっかり気を良くしたらしい。

「ははは。それなら嬉しいのですが。あ、助けた時の彼女の様子でしたね。自分の体を抱くようにしてしゃがんでいて、強く震えていました。最初は立つのも難しかったようで、ここに来るまでにかなりの時間を要しました。警察署の明かりが見えた時には、とても嬉しそうにしていましたよ。まあ、あの空気の読めない刑事のせいで、また取り乱しましたけどね」

 話を聞いていた松井戸が、顔をしかめながら胸のあたりを押さえた。慰めてもらおうと河野がいた方を振り返ると、既にそこに河野の姿は無かった。


「天城真白さん。お話しされるのは、落ち着いてからで結構ですよ。まずは、心を落ち着けましょう。あなたが無事だということが、なにより大事なことなんですから。あの空気の読めないクソ馬鹿刑事のことは、一旦忘れましょう」

 真白の事情聴取を担当する女性警官が、優しく声をかけている。河野は、その様子をマジックミラー越しに冷静に見ている。松井戸はまた胸のあたりを押さえて、苦しそうに膝をついて呻いていた。

「いえ、大丈夫です。私が警察にお話しすることが、これ以上被害者を生まないことにつながるかもしれませんから」

 真白は、涙に腫れた目を女性警察官に向けた。女性警察官は一度溜息をつき、ゆっくりとした口調で話し始めた。

「真白さん、犯人のことを見ましたか」

 松井戸はいきなり直球な質問だと思ったが、これも事情聴取を早く終わらせてあげたいという、女性警察官の優しさだったのだろう。

「いえ、暗くてよく分かりませんでした。いきなり後ろから口を手で塞がれて、しずかにしろ、って言われたんです」

「これは、どんな声でしたか」

「男性の声だったと思います。低くてよく響きそうな声だったけど、年齢は若そうな気がしました。多分、いっても三十代くらいまでだと」

「若い男性の声がしたんですね。他に、なにか覚えていることはありますか?」

「……あのランナーの方が助けに来てくれようとした時に、どこかに引っ張って行かれそうになったんです。でもなんとか姿勢を低くして耐えていると、最後に胸や……胸のあたりを触って逃げていきました」


 事情聴取は終わったが夜遅い時間となってしまったため、通報者と真白を家まで送り届けることになった。

 真白の送迎に松井戸が名乗りを上げると、周囲の人間からの反対があった。が、松井戸が懸命に自分の力強さをアピールしたことと、真白から松井戸を指名したことで、送迎を担当することができた。

「真白ちゃん、なんで河原に行ったんだ。あそこに行ってほしくないから、僕たちは捜査中の事件について君に話したんだ」

「ごめんなさい。話を聞いたら、どうしても気になっちゃって。見に行くだけなら大丈夫かな……って」

「……二度とこんなことはしないでくれ。約束してくれるか」

「……はい。もう絶対しません」

 松井戸がバックミラーで真白のことを確認すると、真白は俯いて肩を震わせていた。家に到着するまで、真白が鼻を啜る音だけが車内に響いた。

「戻りました」

 松井戸がそう言って署に戻ると、広いロビーで言ったので誰にも聞こえなかったからか、誰からも労いの声が帰ってこなかった。

「戻りましたー」

 後ろから、通報者を送り届けた茅野が入ってきた。今度は所内の各所から、「おかえり」という労いの声が帰ってきた。新人に対して優しいというよりは、被害女性を泣かせた松井戸に厳しい雰囲気があった。

 松井戸は肩を落としながら、階段を上がっていった。後ろ手に、茅野が女性職員からちやほやされ、差し入れという名のプレゼントを受け取っているのが分かった。

「名もなきエキストラの癖に」

 松井戸が小さく呟きながら自分のデスクに戻ろうとしたところ、なにやら河野がデスクで背中を丸めているのが見えた。心なしか、困っているように見える。松井戸はその様子が気にかかったので、後ろからそっと近づいて肩を叩いた。

「河野さん、そんなに気を落とさないでくだ――」

「うわっ! びっくりした。なんだお前、いつ帰ってきた。なんか言ってから部屋に入って来いよ! あー、びっくりした」

 胸を撫で下ろして少し口角を上げた河野だったが、すぐにハッとして、手に持っていた紙を両手でくしゃくしゃと丸めた。そしてそれを、カバンの中に仕舞いこんだ。

「なんですか、河野さん。ラブレターですか?」

「ちげえよ」目を合わせようとしない河野。

「じゃあ、脅迫状とか」

「うるさい! お前はもう喋るな!」

 河野は突然立ち上がり、松井戸の頬を引っ叩いた。甲高い音が響き渡る。松井戸が喰らった張り手の中で、人生で一番痛い一発だった。当然、床に倒れこんだ。

「何の騒ぎだ」

 部屋の入り口から、青鳥が顔を覗かせた。河野は冷静になり、謝罪しながら松井戸に手を差し伸べた。松井戸はその手を取り、ゆっくりと立ち上がる。

「騒がしくしてしまい、申し訳ありません。疲れからか少し感情的になってしまい、松井戸に強くビンタしてしまいました」

「青鳥さん、私が悪いんです。私が余計なことを言ったから。だから、河野さんは悪くありません。処罰なら――」

「処罰は、二人で仲良く受けてもらうよ」

 青鳥さんが笑顔で言ったその一言に、二人は思わず固まってしまった。あまりに決断が速すぎると考えたからだ。

「あの、処罰というのはどのような……」松井戸が申し訳なさそうに言う。

「半年減給。軽いでしょ」

「暴力騒ぎを起こしただけにしては、少し重すぎるような……」今度は河野が遠慮がちに言う。

「暴力騒ぎだけじゃないだろう! 行きつけのカフェの看板娘だか何だか知らねえけど、外部の人間に捜査情報話してんじゃねえよ! そ・の・う・え! それが原因で彼女は事件に巻き込まれたんだ。普通なら、辞職もんだよ」

 その後も松井戸たちは、青鳥からお灸を据えられた。お説教が終わったと思ったときには、既に日が昇っていた。また徹夜である。松井戸は、肩を落とした。

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