第3話

 十月一日。昨晩、突如として降り始めた豪雨はどこ吹く風か、朝には太陽が燦燦としていて暑苦しかった。

 捜査は継続して行われたが、全くと言っていいほどめぼしい成果は上げられなかった。唯一分かったことは、現場に残された下足痕の靴が特定されたことだ。管轄内の靴屋さんで市販されたもので、五十足は売り上げているとのことだった。

 数自体はしらみつぶしに調べることも出来そうだが、特に限定品だったわけでもなく、購入者の情報は年齢と性別程度しか分からない。誰がどう考えても、そこから犯人を特定することは難しいと分かるだろう。

 また現場周辺で聞き込みを行う地取り捜査も継続されたが、既に捜査陣が把握している情報しか出てこなかった。被害者に関係がある人に聞き込みを行う鑑取り捜査でも、相変わらず容疑者の特定には至らなかった。

「この事件の犯人は、相当計画しているんでしょうね。どちらの事件も、通報者が居なければそもそも明るみに出ていないかもしれない。そう思えるほどに、目撃者が少ない。物的証拠も、全く残っていないわけではないけど、自分につながるものは何一つ残していない。相当頭の切れる犯人ですよ。これは、逮捕は難しいかもしれません」

 松井戸がそう言って犯人を認める発言をすると、河野に頭を叩かれた。それはいつものおふざけの強さではなく、限りなく本気に近い強さだった。松井戸は、首が取れたかと思うほどの衝撃に襲われた。

「俺たちが、犯人逮捕を諦めてどうする。被害者の無事も、俺たちが諦めてどうする。俺たちは、最後まで信じ続けなきゃいけないんだ。被害者の無事を。犯人が確保できることを。だから、犯人を認めたり、許したりしてはいけない。たとえどんな事情があろうと、絶対に、だ」

 松井戸が、ここまで熱く語る河野を見るのは初めてだった。いつもはなんやかんやと松井戸のペースに巻き込まれていたが、これだけは譲れないポイントのようだ。

 松井戸が河野に謝罪すると、さっきまで険しかった河野の表情が一瞬で柔らかくなった。安心してよいのか、その二面性に不安になったほうが良いのか、よく分からなかった。

「さて、今日は月曜だな」

 河野が、突然そんなことを言い出した。松井戸は最初何のことだか分からなかったが、すぐにその意味するところに気付いた。


 二人には、行きつけのカフェがある。岡濱東署の隣にある『レストルーム』という場所である。気楽に寄ってもらえるようにという経営方針と、おしゃれに横文字の店名をつけたいという考えから来た名前だろうが、英語でレストルームはお手洗いのことである。

 確かにお手洗いにいる間は落ち着きを感じるという人もいるが、そこに長居しようと思う人間はどれだけいるのだろうか。

 そんな残念な店名の店だが、二人が通うのには理由があった。看板娘である。天城真白あまぎましろという大学生で、松井戸がこれまでに出会った中で一番かわいいと、胸を張って言える人物だった。彼女がレストルームでアルバイトをしているのは、月曜日から木曜日だけだった。だから、二人が店内に長居するのもその時だけだった。

「いらっしゃいませ。あ、河野刑事、松井戸さん」

 店内に入ってすぐ、松井戸は天国へといざなわれた。あのかわいらしい声がしたこともさることながら、名前を呼ばれるというサプライズまであったからだ。

 もちろん名前を呼ばれることは初めてではないが、それでもいつも必ず呼ばれるわけではない。この感覚は少し例えが悪いが、パチンコで確率の低い演出を引き当てたようなものだと言えるだろう。

 松井戸と河野はいつもの席、カウンター席の左から二番目と三番目に座り、いつもの注文を済ませる。真白の出勤日には必ず来店するので、真白の中では常連客として毎日足しげく通う人という認識になっているようだ。

 ただ、マスターの中では真白に下心を持つ、猥褻警官という認識になっている可能性がある。いつもいつも、真白と松井戸たちが話している時には、後ろでマスターの鋭い眼光が光りまくっている。

 真白と話す時は、大抵松井戸の恋愛相談(ほとんど捏造)か事件の話をする。見かけによらず、大のミステリーオタクのようだ。レストルームで働き始めた理由も、警察関係者から事件の話を聞けるかもしれないと考えたからだそうだ。

 だから松井戸はいつも、解決した事件の話をする。その話が一番、真白が目を輝かせて聞いてくれるからだ。

 ただ、部外秘の情報までしゃべってしまうので、大体河野からきつい一発をもらう羽目になる。それでも松井戸にとっては、真白の笑顔が何にも代えることのできないものだったので、話すのを止めるつもりは無かった。

 しかし今日は、どちらの話もする気になれなかった。今の事件は解決の目処が立っていないどころか、手がかりすらもほとんどない。

 それに、被害者は真白と同年代の女性である。話せば、不安にさせかねない。そしてこの状況で、いつものようなお茶らけた雰囲気で話すことも出来なかった。

 松井戸も河野も、ただ俯くことしかできなかった。

 真白もそんな雰囲気を察知したのか、いつにも増した機敏な動きでテーブル席の方へオーダーを取りに行っていた。

 真白はカウンター内に戻ると、こちらをちらりと一瞥した。話しかけてよいか、迷っているのだろう。

「真白さん。ここから一キロほど離れたところに、結構幅の広い川があるだろう。通勤に、あの河原を通るかい?」

 そんな真白の雰囲気を察知したのか、いつもは自分の横で聞き役に徹している河野が話し始めた。あの河原のことを話したことから考えて、今追っているあの事件の話をするのだと、松井戸にはすぐに分かった。

「あの真っ暗で、人もまともに通らない河原ですか? あんなに危ないところ、通勤に使うわけがありません。一人で歩くには、怖すぎますよ」

 真白が否定してくれたので、松井戸は胸を撫で下ろした。横にいた河野も、同じ様子だった。危機感がしっかりとした子でよかった、そう感じているようだった。

「あの、どうしてそんなこと訊くんですか?」

 真白が尋ねてきた。事件の匂いを嗅ぎつけたのだろう。ただその目はいつものきらきら輝いた目とは違い、心配を帯びた目だった。好奇心よりも、一市民としての不安感の方が勝ったのだろう。

 それを聞いた河野は、松井戸に向かって顎をしゃくった。まるで、きっかけは作ってやったから、この先は自分で何とかしろ、と言っているようだった。松井戸は、意を決して続きを話し始めた。

「実はあのあたりで、昨夜一人の女性が行方不明になった可能性があるんだ。年齢は二十代前半のOLで、社内でも評判の美貌を持った人だったらしい。毎晩十時にあそこを走ることが日課の人が通報したけど、その人が居なかったら、事件は明るみに出ていなかったかもしれない」

「無事……なんでしょうか? その人」

「分からない。知ってると思うけど、あの辺りは街灯も監視カメラも、夜になれば人の目すらなくなる。それに、夜に降ったゲリラ豪雨の影響で、現場に残った証拠は流されたものが多い。正直言って、まだ何も分からないんだ」

 松井戸は、少し嘘をついてしまった。本当は事件が起こったのは二日の前の夜だし、現場検証は終わっている。だから、昨夜降ったゲリラ豪雨は現在の捜査状況に、ほとんど影響を及ばさなかった。

 だが、警察が無能だから犯人を捕まえられないでいる、とは口が裂けても言えなかった。真白に失望されたくないという考えもあったが、なによりも不安にさせたくないというおもいからだった。

 その後ろめたさからか、話し終わった時に松井戸は無意識に顔を伏せていた。これ以上、言葉を続けられる気がしなかった。

「そうですか……でも、犯人は捕まりますよね」

 さっきまで神妙な顔をしていた真白が、とても眩しい笑顔を松井戸に向けてそう言った。きっと沈み切った松井戸たちに対しての、エールのつもりだったのだろう。

 松井戸はその笑顔を見ていると、沈んだまま話すことがとても申し訳なく感じた。だから多少無理をして、いつものお茶らけたキャラクターに戻って話した。

「あら、真白ちゃん。いつにもまして眩しい笑顔。あんな怖い話聞いたのに……もしかして、君が犯人で、自分の犯行がバレないことへの安堵感で笑っているとか……そういう感じ? え、めっちゃサイコパスじゃん」

「これは本部に、重要参考人として報告するしかないな。ひとまず真白ちゃん、任意同行への協力を――」

 予想外に、河野も加勢してきた。きっと、松井戸以上に緊張感を持って行動していたから、その反動が出たのだろう。

「知らない人が聞いたら本当に誤解されるので、止めてください」

 真白の冷静なツッコミで、その場は収束した。

 その後松井戸は一度トイレに立った。そして席に戻ると、そこに河野の姿が無いことに気付いた。かばんは席に置いたままだから、帰ったわけではなさそうだ。

 真白に河野の居場所を尋ねると、窓際のテーブル席を指さした。見るとそこには、高校生ほどの青年と話し込んでいる河野の姿があった。

「河野さん、何してるんですか」

「お、戻ったか松井戸。鈴木君、こいつも刑事なんだ。君とはこいつの方が年が近いだろうから、参考になると思うよ」

 河野に鈴木君と呼ばれたその少年は、立ち上がって松井戸に挨拶をした。話を聞いてみたところ、将来警察官になることを夢見ているから、本職の人に話を聞いてみたいとのことだった。

 松井戸は経験を基に、数々のアドバイスをした。特に重要なのは、警察官になる前に生涯の伴侶を見つけることである。そうアドバイスすると、首に大きな衝撃が走った。また河野に頭を叩かれたのだ。いつもの百倍、目が怖かった。

 そうして楽しく話すと、時間は一瞬で過ぎるものである。時刻が夜の九時を回ったので、鈴木君と共に店を出た。その後少し貴重な体験もしてもらおうと河野が提案し、パトカーで鈴木君を家まで送ろうかという話になった。

「嬉しいお話ですが、息子がパトカーに乗せられてきたら妙な噂が出てしまいそうなので」

 この鈴木少年、年齢に不釣り合いなくらい冷静である。きっと人生において、とんでもない苦労をしているに違いない。気を付けて帰るよう伝え、二人は署の前で鈴木君と別れた。

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