表の顔

第1話

 九月三十日。普段なら大した仕事もなく、仕事するふりをしながら暇をつぶす方法を考えているころだが、何故か自分たちは忙しかった。それもそのはず、この署の管轄ではまず起こりえないであろう凶悪事件が発生していたのである。

 それは、連続誘拐事件だった。狙われるのは二十代頃の若い女性ばかりで、被害者家族への身代金などの要求は一切なし。その上、通報者以外の目撃情報もほとんどない。警察の動きに関しても、まるですべて把握しているかの如く、警戒を強化した地域を避けて犯行を行っていた。

 被害者の交友関係などから容疑者の特定を急いでいるが、これといった成果は無し。捜査員たちからすれば、犯人と被害者に接点はないのだろうからこんな捜査は無駄だと思っていたが、上はその判断を下さなかった。

 いや、下せなかった。その判断を下して捜査を中断したら、それ以降何をしてよいか分からなかったからだ。

 犯人は何者で、どうやって捜査の目を掻い潜り犯行に及んでいるのだろうか。犯行場所がこの岡濱東署の狭い管轄内に限定されていることから、土地勘に詳しい地元の人間であることは自明である。だが、それ以上のことは分からない。

「松井戸、今日も忙しいな」

 松井戸が思考の泥沼にはまって抜け出せなくなった頃、松井戸の先輩であり、相棒の河野圭介かわのけいすけが話しかけてきた。この人は、松井戸より何年も早くこの署に配属された人で、刑事としてはこの道十五年という経歴の持ち主だった。だが勤務歴がまだ十年にも満たない松井戸からしたら大ベテランでも、警察組織で考えると全くそんなことは無い。

「ここは管轄が狭すぎて、滅多に働くことは無いって聞いてたんですけどね。あれは嘘だったのかな」

「いや、本当だ。ここは元々一つの警察署で管轄していた市を、無理やり分けて作られたところだからな。その証拠にここ岡濱東警察署はあっても、岡濱西警察署も北警察署も、南警察署もないだろ。管轄が狭すぎて、明日潰れると言われたところで市民には何の影響もないだろうな。影響があるのは、仕事がなくなる俺たちだけだ」

 河野が頭を掻きながら言い、手に持っていたスポーツドリンクを煽るように飲み干した。ペットボトルの八割は入っていたであろう中身を一息で飲み切るあたりを見て、やはり肺活量お化けだと感じていた。

「松井戸さーん、河野さーん。捜査会議を始めるそうです。例の、昨夜あった三件目の誘拐事件についてだそうです」

 松井戸の後輩が、息を切らしながら走ってきた。

 松井戸は人の名前を覚えるのが苦手で、一人の名前を覚えるまでに最低三か月はかかる。だが、この後輩だけはいつまでたっても名前を覚えられる気がしない。いや、正確にはゆっくり考えれば名前を思い出せるのだが、いざ名前を呼ぼうとすると忘れてしまうのである。

 そろそろ名前を憶えて悩むのを止めたいところだが、松井戸にとってその後輩は、これといった特徴が無い。四月に配属されてからいろいろと話した気がするが、その程度の認識しかない。

 松井戸は内心、こいつは一生名前のないエキストラとして過ごすことになるだろうな、と思っていた。


 やがて会議室に集められると、会議室の前を陣取ったお偉いさんたちが話を始める。本職の刑事としては失格だと怒られるかもしれないが、昇進に興味がなく、上の言うことに歯向かうことを厭わない松井戸にとっては、今前で話しているのがどの役職の人なのか、とんと見当が付かない。

 ただ、この人の名前は既に憶えている。青鳥幸あおどりゆきおだ。どう考えても幸せを運ぶ青い鳥からこの名前が付けられているが、今の姿を見ればご両親は名前を考え直すだろう。

「いいか! 我が署の管轄内で五年ぶりに起きた凶悪事件だ。我々の威信にかけて、必ずホシを上げろ。分かったか!」

 会議室内の全員が、声を上げて返事をする。いや、これは正確ではなかった。正確には、会議室にいる松井戸以外の全員が、声を合わせて返事をした。

「それでは、解散」

 気合が入りすぎたのか、青鳥の声が最後の最後で裏返った。絶妙な緊張感の中飛び出したこれでもかというほどの間抜けな声に、松井戸は思わず笑ってしまった。

「松井戸。捜査に出る前に、話がある」

 青鳥にそう言われて、別室に連れられた。当然こっ酷く叱られた。わずか五分ほどの時間ではあったが、拳骨を二十発は喰らっただろう。ハラスメントにうるさい昨今、時代錯誤も甚だしい男である。

「じゃあ、早く捜査に戻れ。この俺様を馬鹿にしたんだ、必ず成果を上げて来いよ」

「あのー……」

「なんだ、まだ叱られ足りないのか。それとも、俺様の説教を長引かせてサボる時間を長くしようとしているのか。そうはいかないぞ。お前の性格は、既に分かっている。仲間と仕事を冷笑する、稀代のサボり魔だ……俺様がそう簡単に説教を長引かせて、お前のサボりに協力すると思うな。ちょっとやそっとのことじゃ、追加の説教は無いぞ」

 何やら部屋の中をうろつきながら格好つけて話していたが、松井戸は“これ以上説教はしない”という部分以外聞いていなかった。

 これ以上説教が無いならと安心し、松井戸は思っていることを正直に話すことにした。

「会議、全く聞いていませんでした。自分は何の捜査を担当するか、もう一度教えてくださ――」

 追加の説教は無かったが、追加の拳骨はあった。松井戸は殴られた腹の痛みから逆算して、一週間ほどは内出血が残るだろうと考えた。その後青鳥は、三歳の子供に話す時の口調で、言葉を二語分程度の長さに区切りながら松井戸に指示した。

 理解しづらいことこの上なかったが、とにかく、松井戸はこれから河野と一緒に現場へと向かうということだった。

 大して敬意のこもっていない礼をして部屋を出ると、壁に並行して置かれたソファの上に河野が寝ていた。松井戸は河野の頭を、渾身の力で叩いて起こした。

「なにサボってるんですか、河野さん。行きますよ」

「殺す」

 まさか警察署内で殺人予告を受けるとは思っておらず驚いた松井戸は、一先ず河野を宥め、なんとか二人で警察署を出て、現場に向かった。車内ではずっと無言で、何とも言えない重苦しい空気が流れていたことは言うまでもない。

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