表と裏

佐々木 凛

プロローグ

プロローグ

 松井戸は混乱していた。何も分からない、それが正直な感想だった。

 刑事になってまだ七年程度、それでもそれなりに捜査には慣れてきて、数は少なくても解決に貢献した事件だってあった。それでも今回の事件は、捜査に進展があればあるほど、松井戸には理解できないものとなっていった。

 初めは簡単だった話も、どんどん複雑になっていった。どんどん、どんどん、そうして話が進むうちに、自分でも何が何か、誰を信じたらよいのかがよく分からなくなっていた。

「本部から各局、本部から各局。マル被、天城真白が逃亡した。繰り返す、マル被、天城真白が逃亡した。付近の緊急車両は――」

 一連の事件の首謀者と目される天城真白が、アルバイトを無断欠勤しているようだと松井戸が本部に報告を入れると、無線から慌てふためくお偉いさんの声が聞こえてきた。

 本人としては冷静に、威厳を持って指令を飛ばしているつもりだろうが、明らかに声が震えている。普段は気にも留めないような背景音にも、無視できないほどの大きさで怒号やうわずった刑事たちの声、走り回る音や書類を床にぶちまける音が聞こえてくる。

 普段プライベートで行きつけだったカフェに、この頃何度仕事で訪れただろう。これまでたくさん笑い話をし、愛敬を振りまいてもらった人を疑うことは、創作物の中ではよくあることでも、現実ではそうそうない。

「マスター、いつもの」

 カウンターの一席に座りながら、いつも通りの注文を済ませる。しかし刑事の職業病とも言うべきか、松井戸は暇ができるとつい辺りを観察してしまう。

 店内には、入り口から入ってすぐのスペースにテーブル席が、縦に二つと横に四つ並んでいる。それらは等間隔で並んでいるわけではなく、両端の壁に向かって寄っている。つまり、真ん中の通路だけが少し広めに確保される形で配置されている。それに加え、入り口から最も遠い場所に、今自分が座っている場所も含めて、カウンター席が五席あった。

 客は、自分を除いて三人ほどいる。少し前までは大学生と思しきお客が一人、如何にも仕事をさぼっている様子の営業サラリーマンらしきお客が三人ほどいた。

 でも、自分たちが騒ぎを起こしているうちに居心地が悪くなったのか、はたまた警察が居られると何か不都合があったのか、ともかくそのお客たちは既に店の外に出ていた。

「松井戸さん、そんなのんびりしてていいんですか?」

 視線を戻し、カウンターで注文の品を待っていると、後輩の刑事が話しかけてきた。正義感が鬱陶しいほど強い以外は取り立てた特徴もないため、正直に言うと名前も覚えていない。映画なら、間違いなく役名も与えられない登場人物だろう。

「お前、口には気をつけろよ。まだ真白ちゃんは容疑者の段階だ、犯人と決めつけるな」

 役名の無い登場人物の方へ向いて一喝入れた後、再度注文したアメリカンコーヒーを準備しているマスターの方を見る。コーヒーのつくり方が秘伝なのか、カウンターに座っても、マスターがコーヒーを作るところは見えない。

 いや、正確に言うと、マスターの姿は見えるが手元が全く見えない。そのためここからマスターを眺めても、手際よく作業をしている……以上の感想を抱くことは無かった。

「それに、真白ちゃんが逃亡したのは昨夜の可能性が高い。正確な時間は分からないが、少なくとも半日は経過している。今更この辺りに緊急配備を敷いたところで、それを急いだところで、一体何の意味があるんだ」

 突然正論が付いて出た自分に、松井戸は驚いた。自分で言うのもなんだが、こんな不真面目な刑事はそうそういないと思う。そんな自分が、何かもっともらしいことを言っている。思わず笑みがこぼれそうになったが、先輩の威厳を保つために我慢することにした。

「たしかにそうですね。でも、本部からの命令ですから……」

「なら、お前ひとりで行ってこい。頼んだぞ」

「……! はいっ、任せてください」

 名前も知らない邪魔者は、目を輝かせながら飛び出していった。そいつは何故か不真面目で愛想の悪い自分に格別になついていて、名前を呼ばれないのも、まだ一人前の刑事として認められていないからだと解釈している。本当は名前を憶えていないだけなのだが、わざわざ訂正してやる必要もない。

「はい、いつものです」

 マスターが、淹れたてのアメリカンコーヒーを持ってきてくれた。熱気と、心を落ち着かせてくれる香りが辺りを包んだ。

 それと同時に、彼女の笑顔が思い出される。いつも満面の笑みで接客してくれていた彼女に、しがない独り身の男として恋愛相談などしていた彼女に、刑事として接しなければならなくなった日のことも……。

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