駒と鯉

高村 芳

駒と鯉

 駒音がカン、と高らかに響いた。目の前でこれでもかと丸められている背中から、ふーっと静かにおおきく息が吐き出される。私はさされた駒に彫られた文字を目でなぞったあと、障子の向こうに目をやった。止めていた息を吐き、昼過ぎの光に満ちた眩しい庭を見やった。


 朝九時に相手の封じ手の開封で始まった対局は、中盤から終盤に様相を変えようとしていた。棋士としてはいちばん辛い時間帯だ。この局面までくれば、この先のおおよその展開が脳裏にちらつきはじめる。無数に存在する引き出しを片っ端から開けていくのだが、中身が空っぽの引き出しや、そもそも開くことのできない引き出しが増えてくる。さてどうするか、という文字が頭に浮かんだとき、相手が扇子を片手でもてあそぶ音が耳にさわるようになる。こうなれば、焦りの沼に引き摺り込まれそうになるのを必死で堪えるしかなくなる。記録係も体を揺り動かし、凝り固まった体をほぐしながら盤面の行く末を見守る。私は着物の裾をさばき、座布団から立ち上がって和室を静かに出た。背後から、対局相手の大きな吐息が聞こえた。


 いよいよ、タイトルの防衛が怪しくなってきたな、と他人事のように思った。新進気鋭の若手棋士は勢いがあるから怖い。若手の棋士は階段を二段、三段と飛ばして駆けのぼってくる。こちとら、何年もかかってようやく獲った遅咲きのタイトルホルダー。思わず溜息が漏れた。


 対局中に対局室を出て歩き回るのが、最近癖になっていた。若い頃は、いくらでも盤面にかじりついて思索の海に深く深く潜ることができた。今となっては、たまに息継ぎをしないと二度と潜れなくなってしまう。こうやって体力は衰えていくのかと思った。


 草履を履き、ホテルのロビーに出る。ちらほらと人が行き交っているが、誰一人自分に声はかけてこない。もちろん、私が対局中だと知っているからだろう。まるで自分がここにいないかのような感覚に襲われる。私はロビーの出入り口から、ホテルの中庭に出た。


 中庭は日本庭園の造りで、かなり立派なものだった。池にはずんぐりとした鯉が泳ぎ、私が池のほとりに近づくとわれ先にとこちらに近寄って口をパクパクと開けた。風は着物の袂に吹き込んでくる。山々のふもとにあるからか、ピーッ、ピーッヒョロローと鳥の鳴き声が聞こえる。


 池のほとりにしゃがみこみ、水底を覗き込んだ。自分の情けない顔が映し出される。無表情のつもりなのに眉間にしわが寄ったままになっていた。


「もう無理か……」


 膝の上に頬杖をついて独りごちる。あの盤面から盛り返すイメージをどう持てばいいのか、霞を掴むような気分だった。わざとらしく溜息をついてみた。


 最初は見間違いかと思った。池の水面に波がゆうらり、ゆうらりと起こり、次第に激しくなったのだ。着物を濡らしてはいけないとあわてて立ち上がると、水面から何かがにゅっと突き出た。それはヒトの腕だった。


「わあっ」


 叫んだ途端、足袋を履いている足首を掴まれ、一気に池の中に引き摺り込まれた。ごぼごぼ、と自分の息の音がする。なんだこれ、やばいぞ、と思いながら目を瞑って必死にもがいていると、途端に呼吸が楽になった。その代わり、体が熱い。ゆっくり目を開くと、そこは庭ではなかった。


「……え?」


 そこは強い日差しがふりそそぐ建物の屋上だった。陽炎がたつ地面に、小さな遊具がいくつか据えられている。どうやらデパートの屋上のようだった。なんでこんなところに? とりあえず出口に向かおうと歩き始めた。が、何かがおかしい。全然進まない。そこで、私は自分の体が縮んでいることに気づいた。


「えっ」


 屋上の出入口のガラス戸に、小学生の姿が映った。メガネもかけていないし、うっすらと記憶にある懐かしい服を着ている。頬に手をやると、ガラス戸のなかの子どもは同じ仕草をする。これは私なのか? そもそもなんで私はデパートの屋上なんかにいるんだ? タイトル防衛戦でホテルの中庭にいたはずなのに。疑問がわきあがってはそこらじゅうに散らかっていく。汗がだらだらと流れていくのがわかる。今は真夏なのか? 太陽の陽射しが真上から落ちてきていた。


「よお」


 突然、背後から声がした。後ろを振り返ると、屋上の中央には机と椅子が二脚、向かい合わせに置かれている。机のそばには、誰かが立っていた。私は手を顔の前に掲げ、影を作って目を凝らす。


「こっちへこいよ。将棋やろうぜ」


 おそるおそる近づいてみると、彼はヒトではなかった。いや、体はヒトだ。小学生くらいの背丈の。ただひとつおかしいのは、頭が鯉だった。丸首のシャツからのぞいている鯉の頭は赤や白や黒の錦模様で、ついさっきまだ池で泳いでいたんじゃないかと思うくらいにみずみずしい。仄暗い瞳で、私を手招きしている。机の上には将棋盤があった。


「将棋?」

「そう。おまえ、得意なんだろう? 俺が先手番だ」


 鯉は椅子に座るやいなや、振り駒もせずに歩を進めてしまった。私は混乱していたが、不思議と鯉のことを恐れてはいなかった。仕方なく私は鯉の向かいに座り、後手番で歩を進めた。


 そこからは淡々と将棋が進んでいった。私が駒をさすたびに、「ふーん、なるほどな」とか、「ああ、そうきたか」とか、鯉は独り言をいいながら指していた。私の顎から汗がぽたぽたと流れていく。一手一手、間違わないように慎重にさしていく。


 鯉は強かった。私の攻めを的確にいなし、私の弱いところを徹底的についてきた。私は必死に攻めを躱し、守りの穴をついた。駒音と鯉の声だけがあたりに響いた。


「やるじゃないか」


 鯉に表情はなく、声だけで笑っていた。


「お褒めいただきありがとう」


 私が飛車を進めると、鯉は「ははっ」と笑った。


 その時間はとても不思議だった。何もかもから解き放たれて将棋をさしていた。重圧も焦りも嫉妬も驕りもなかった。ただただ、盤面という凪いだ海に静かに、深く深く潜ることができた。


 しかしそのうちに、視界が濁り始めた。いちど濁り始めると、水の中で土埃が舞い上がってなかなか元の綺麗な水には戻れない。慌てるな、慌てるな。潜れ、潜れ。自分にそう言い聞かせるけれど、視界が完全に濁ってしまって自分の位置すら掴めない。これ以上潜ると危険だ。私はあわてて将棋の海から浮上し、息継ぎをしようと水面から顔を出した。


「王手」


 カン、と音を鳴らしながら金を進めた鯉は、両拳を膝に置いて盤面を見つめていた。仄暗い、でも真剣な目だ。私は肩で息をしながら、盤面のどこかに逃げ道がないか探した。でも、どこにもなかった。喉につかえた言葉を無理やり吐き出した。


「負けました」


 鯉はパカっと開いた口からフーと細く息を吐いたと思いきや、


「おまえ、鯉みたいだな」


と言った。私は思わず「はい?」と口にしてしまった。鯉に鯉みたいだと言われるのは生まれてはじめてだし、きっとこれが最後だろう。鯉は駒をどんどん並べ替えていく。もしかして感想戦までやるのか?


「ほらここ、この盤面。おまえはここまで深く潜っていた。なのに、ここで息継ぎをしようとしたろ? ここは潜ったまま歩をさすべきだった」


 まるでリプレイしているかのような手つきで鯉は駒を正確に動かしていった。確かにこの盤面は鯉の攻めが苦しくて、いったん思考時間を稼ごうとさした手だった。完全に見透かされていたことに驚くと同時に、顔がカッと熱くなる。


 いつからだろう、自分が逃げの一手をさすようになったのは。いちど立て直そうなどと言い訳をしながら、攻め手を緩めるのが癖になってしまっていた。鯉はそのぽっかりと開いた穴のように暗い目で、私の癖を見抜いていたのだ。


「もう一局」


 私は自然とその言葉を口にしていた。腹の奥底でグラグラと湯が煮えたぎったいるような気がした。鯉になんて負けてたまるか。鯉のようになってたまるか。私は駒を急ぎ並べて、鯉に頭を下げた。


「よろしくお願いします」


 鯉は私から一拍遅れて頭を下げた。今度は私が先手番をやる。鯉に確認もとらず、私は自分の歩を動かした。今度は息継ぎをしない。餌にも気をとられない。もっと深く、もっと広く。どこまでも、どこまでも潜って泳ぎきってやる。


 小学生の頃、デパートの屋上で将棋大会に参加したことがあった。必死に活路を見出しながら将棋をさし続けたあの日。がむしゃらだった頃の自分の一手一手が、まるで昨日のことのように鮮明に思い出される。私はあの日、負けた。負けたから、将棋が強くなりたいと心から思ったのだ。


 次に息継ぎをしたときには、鯉が私に頭を下げていた。「負けました」という小さな声が、デパートの屋上にぽつりと溢れた。私は玉のような汗をかき、肩で息をしていた。勝った。乾いた地面に水が染み込んでいくように、勝ったことへの喜びが胸にひろがっていった。


「次は負けねえよ」


 鯉はニヤリと笑った。

 途端、椅子の下から水が洪水のように勢いよく湧き出てきた。それは波のようにうねりはじめ、ここはデパートの屋上のはずなのに、どんどん水位があがっていく。瞬く間に頭まで水に浸かり、私は溺れた。がぼ、がぼ、と呼吸が乱れ、どこかに落ちていってしまうような感覚だ。手を伸ばし、なにかを必死に掴む。閉じた瞼の奥に光を感じた。


 はっ、と意識が戻ると、そこはホテルの中庭だった。体や着物は濡れていない。足元に広がる池を覗き込むと、和装の自分の姿が見えた。その私が映った水面を、一匹の鯉がすいーっと横切っていった。


 あの鯉の錦模様は、もしかして。そう思ったが、鯉はこちらに興味を示すこともなく、池の中央へと泳いでいってしまった。


 私は彼の姿を見送ってから、ホテルのロビーへと戻る。ロビーの中央に据えられた古時計を確認すると、対局室を離れた時刻から五分ほどしか経過していなかった。まだだ、まだ私の持ち時間はある。デパートの屋上で手に入れた将棋の駒を握りしめながら、私は対局室へと急ぎ歩きはじめた。




   了

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駒と鯉 高村 芳 @yo4_taka6ra

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