第3話 俺の好きな人



 あれは今年の春──入学式の事だった。

 あの日はとてもよく晴れていて、校庭の桜も満開とは言わずとも六分咲きくらいだった気がする。

 その時、俺と真夏は一緒に登校(真夏が朝弱い方なので、入学式に遅れないよう俺が起こしに行ってやったのだ)していて、体育館に向かっていた。

 体育館にはすでにけっこうな数の人が集まっていて、賑やかな声が外まで響き渡っていた。新入生はみんな先に教室に向かっていたので、胸に花飾りを付けている奴なんて俺と真夏くらいしかいなかったが。

 だったらなぜ体育館に来たのかと言うと、真夏が先輩方がどんな感じか見てみたいというので、入学式の準備をしている上級生の様子を覗きに来たのだ。

 それで実際に体育館をこっそり覗いてみると、上級生達がせっせと椅子を並べているところだった。

 数で言うと百人くらいだろうか。これで在校生全員だとは思えないから、おそらく二年生か三年生のどちらかが総出で準備しているのだろう。俺も中学二年生になった時、同じように同学年だけで入学式の準備をさせられた思い出があるので、どことなく懐かしい。

 そうして三分ほど過ぎた頃だろうか、「もう飽きた」と相変わらずの自由人を発揮して一足先に帰ろうとした真夏を、内心辟易しながらも後を追おうとして、ふと靴紐が解けているのに気が付いた。

 もう時間も時間だったし、先に真夏を行かせて靴紐を直していたその時、俺は運命と出会った。



 目の前に、一人の女の子がそばの桜の木を仰ぎ見ながら悠然と立っていた。



 背中まで届くゆるふわロングの黒髪。真夏よりも女性的な体付きをしていて、豊かな胸が窮屈そうに制服を押し上げていた。

 胸に花飾りを付けていたので、俺と同じ新入生であるのは間違いなかったが、真夏や他の同年代の女子よりも成熟しているというか、とても大人っぽい雰囲気を醸し出していたので、少女というよりも女性と呼称した方が似つかわしいほど、立ち姿が色っぽかった。

 本当は女子大生だと言われたら、そのまま信じてしまいそうなほどに。

 そんな風にしばらく見惚れていると、女の子が俺の視線に気が付いたようで、桜の木からこっちへと体の向きを変えた。

「何かご用ですかー?」

 見た目に反して可愛いらしい声と、舌足らずな口調だった。

 などと意外に思って呆けていたせいか、女の子は不思議そうに小首を傾げて、

「どうかされましたー?」

「あ、いえ……」

 慌てて応える。いけない、ボーッとし過ぎた。早く真夏を追いかけないと、後がうるさい。

 そう思い、靴紐を結び直して女の子の横を通り過ぎようとした時、一陣の強い風が吹いた。

 思わず腕で顔を守って風が止むのを待とうとした途端、そばにいた女の子が不意に「あらー?」と気の抜けたような声を出しながら、背中から地面に倒れようとしていた。

 いや違う。どうやら強風で体のバランスを崩したらしい。見ると本人も呆気あっけに取られたように両目を見開いていた。

 なんにせよ、このまま怪我をしかねない。何とかして助けないと。

 なんて考えたのは一瞬で、気付いた時には彼女の肩を抱き止めた後だった。

 頭で考える前に、とっさに体が動いてしまったようだ。

 別段スポーツをやっているわけでないが、この時ばかりは自分の運動神経の良さに感謝した。

 一息吐いて、改めて彼女の顔を見る。

 するとその子は、倒れた時よりもいっそう驚いたようにまなこを見開いたあと、少し恥ずかしそうにはにかみながら、こう口にした。



「あ、ありがとうございますー。おかげで助かりましたー」



 その時の胸のトキメキを、なんと表現したらいいのか。

 胸が嬉しくなるような、切なくなるような、両手で覆いたくなるようなこの気持ち。

 口にはできない、このもどかしい感情。

 今まで一度も恋なんてした事がなかった俺が、あの瞬間、初めて恋をしたと自覚した。



 ☆ ☆ ☆



「ふーん。それでその子が好きになったのか〜」

 俺の話を聞いて、ベッドに寝転びながら頬杖を付いて言葉を返す真夏。

 まったくもって人の初恋話を聞く態度ではないが、まあ真夏だしな。正座して真面目に聞くような奴じゃないし、これでもちゃんと耳を傾けていたと思っておく事にしよう。

「で、その後はどうしたんだ?」

「実はその子、自分の下駄箱がどこかわからなくて途方に暮れていたらしくて、それで一緒に探してあげてやったんだ。まあその子が探していたのは三年生の下駄箱で、全然逆の方向だったってオチだったが」

「なんだその萌え系アニメに出てきそうなポワポワ女子は。きらら系主人公か」

「きらら作品の主人公がみんな天然みたく言うなよ」

 中にはツッコミキャラだってちゃんといるんだぞ。シャミ子とかあおっちとか。

「あーでも、言われてもみればあの時、妙に来るのが遅かったよなあ。なるへそ、人助けをしていたのか」

 相変わらずのお人好しだなあ、と俺の背中をバシバシ叩く真夏。

 別に俺は当たり前の事をしただけなんだがな。

「それよか、その子の名前は? まさか聞き忘れたって事はないよな?」

「……実は、お互い名前を言わずにそのまま別れてしまって……」

「はあ? なにやってんだよお前は。バカだなあ」

 呆れたように嘆息を吐く真夏に「いや待て」と片手を突き出して静止をかける。

「名前こそ聞きそびれたが、あとでちゃんと調べたんだ」

「なんだ。それを早く言えっつーの」

 起き上がりかけた上半身を再びベッドに沈めて、真夏は語を継ぐ。

「んで、結局名前はなんてーの?」

野中のなか羽春ははるさん。クラスは俺達より二つ離れた一組」

「羽春、ねえ。変な名前だなあ」

 お前の「真夏」も、名前としては珍しい方だと思うぞ?

「しかし、一組かあ。どうりで聞き覚えがないわけだわ。一組と三組とじゃあ、共同でやる授業がないもんな」

「そもそも野中さん自体、目立った行動を取る人でもないからな」

 かなり美人ではあるが、俺と真夏のように今のところ部活に入ってはいないらしく、他に注目を浴びるような特技もないらしい。

 だから交友関係の広い真夏でも、覚えがなかったのだろう。

「しかし、惜しかったな。同じクラスだったら、話すきっかけもあったかもしれないのに」

「まあな。俺とお前は小学校にいた頃からずっと同じクラスだったのにな」

 個人的には親友とずっと一緒にいられるので、なんの文句はないし、逆にありがたい限りではあるが。 



「──ま、あたしも似たようなもんだけどさ」



 何気なく呟かれた一言。

 ともすればうっかり聞き逃しそうになったその呟きに、俺は「ん?」と眉をひそめた。

「どういう意味だ? 『似たようなもん』って」

 俺の問いに、真夏は「やばっ」と慌てたように口を両手で塞いだ。

 このあからさまな反応。

 こいつ、もしや──?



「真夏、お前もしかして、俺みたいに好きな人が出来たのか?」

「ぐけっ!」



 まるで首を締められたニワトリのような声を漏らす真夏。

 一応女子なのだから、もうちょっと可愛い反応を見せたらどうなんだと苦言を入れたくなったが、まあいい。

 とりあえず隅に置いておく。

 それよりも重要なのは──

「なんだ。お前にも初恋の相手が出来たのか。それならそうと言ってくれたらよかったのに」

「……そ、そんな簡単に話せるわけだろ? 初恋なんだぞ?」

 枕で半分顔を隠しながら、ぼそぼそと恥ずかしそうに真夏が言う。

「それを言うなら、俺だってけっこう恥ずかしかったんだぞ? それなのに俺だけに言わせるってのは、親友としてどうなんだ?」

「だ、だって、他の人の初恋がどんな感じか知りたかったんだもん」

 悪いかよ? と紅潮した顔で睨み付けてくる真夏。

「悪くはない。むしろなんでもっと早く言ってくれなかったんだっていう気持ちの方が強いな。そんなに悩んでたのなら、いつでも相談に乗ったのに」

「ほんとか!?」

 ビュン! と風でも発生しそうなほどすごい勢いで起き上がった真夏が、俺に詰め寄ってきた。

「ほんとにほんとか? あたしの相談に乗ってくれるのか?」

「ああ。ほんとだ。でも適切なアドバイスを送れるかどうかは別問題だぞ? なんせ俺だって初めて経験なんだからな」

「お、おう。それでいい。ていうか、男側の意見も聞いてみたいと思っていたところだ」

 そう言って、一度深呼吸して気持ちを落ち着かせたあと、真夏は追想するように瞑目して、ゆっくり話し始めた。


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