モフモフ観察日記2
十二月。冷え込みは一段と厳しさを増し、季節は立ち止まることなく駆け足で冬へと入って行った。
十月の中旬までは残暑が粘り強く居残り、ようやく涼しくなったのは下旬に入ってからだった。そして過ごしやすい快適な気温に安堵したのも束の間、十一月に入ると今度は急激に寒くなった。季節という盤面上、夏と冬に挟まれた秋という駒は、オセロのように一瞬でひっくり返されてしまったようだ。
一年を通して暖房も冷房もいらない季節。私の好きな秋はその真価を発揮する前に終わったのである。
外に出れば肌を刺すような風が吹き付ける。室内も例外ではなく、特に明け方は冷え込みが厳しい。だけれども、フカフカの白毛に身を包んだムー太は、モフモフバリアを展開しているからか寒さに動じた様子はない。
その日も、私が帰宅すると、暖房の入っていない冷たい廊下を一直線に跳ねてきた。身を屈めて両手を広げると、目測を誤ることなく最短距離で私の胸へと飛び込んでくる。取り落とすことなくキャッチ。ムー太はボンボンを揺らし、
「むきゅう」
と、嬉しそうに鳴いた。
おかえりなさい、ということなのだろう。胸の内側が温かくなるのを感じる。もやもやと巣食っていた心の中の霧が、その濃度を一瞬だけ薄めた。
「うん、そうだよね。誰が何と言おうとムー太はそうでなくっちゃ」
「むきゅう?」
体を捻って疑問を表したムー太の頭を優しく撫でる。
私はムー太のことを愛している。きっと、それはムー太も同じだろう。私の愛情表現は数多くあれど、ムー太の愛情表現は基本的に一つしかない。対象となる人物の頬をぽふぽふすることである。
だというのに、あろうことか友人の京子は私にこう言った。
「やっぱ、愛情表現の最上級は顔を舐めることっしょー」
ペットの話題だった。京子は自分が飼っている犬について言及したのだと思う。しかし、その時に私が感じたニュアンスは、『動物が人間に対して行う愛情表現、その最上級は舐めることである』というものだった。
その発言は、今もこうしてぽふぽふしてくれているムー太の愛情表現が、最高のものではないと言っているように聞こえた。二人の関係を否定されたような気がした私は、ムキになって反論し、口論にまで発展したのだった。
京子は「人間だって愛する人にはキスするっしょ。最上級の愛情表現は、最もデリケートな部分の接触なんだってば」と主張する。対する私は「人間だって愛の形は千差万別でしょ。キスだけとは限らない。それをこれだって決め付けるのはナンセンスだよ。それは動物も同じ」と返す。
ペットを飼っていないはずの私が、ここまで反論してくることに京子は不満そうだった。終いには、いかにサンダース(京子の飼っている犬)を愛しているか、互いに通じ合っているかを彼女は語り始めた。
論点がずれていることに私は気づいていた。しかし、愛犬との絆について論じるのならば、尚更に負けるわけにはいかない。私とムー太だって、強い絆で結ばれているのだ。
議論は白熱した。
しかし結論を言えば、それらは不毛な議論だった。
元より、答えが出る類の命題ではないし、互いに譲る気がないのだから当然だ。愛をテーマにした哲学的な議論など、人生経験の乏しい女子中学生二人には荷が重かったのである。
だから結論には至らず、引き分けという形になったのだけれど、一連の議論は私の心の中に得体の知れぬ影を残した。それは喉に引っかかった小骨のような不愉快な何か。飲み込もうとしても飲み込めない、忘れようとしても忘れられない。触れようとするとチクリと痛い。心に棘が刺さる。
なぜだろう。理由はわからない。言い負かされたわけでもないのに、思い出すたびに心がざわつく。京子と口論になったのは、これが初めてというわけでもないのに、何がそんなに引っかかるのだろうか。
「うー寒い。悩むのは保留!」
気がつけばモフモフバリアを展開している胸元以外、特に足元が冷えてしまっている。私は身震いすると、邪を払う聖騎士のようにムー太を天へと掲げ、高い高いをした。頭を振って邪念を振り落とし、きゃっきゃと喜ぶムー太を胸に押し込んで、部屋へと戻る。
室内は、すでに弱暖房が入っている。お留守番をするムー太への配慮だけれど、本人は寒さを気にしていないようで、暖房の効いていないリビングとここを行ったり来たりしているようだ。リモコンの操作方法も教えたから、その辺りのことは心配していない。
暖房のリモコンを手に取り、温度設定を少しばかり上げる。
上着をぞんざいに脱ぎ捨てて、疲れた私はうつ伏せの状態でベッドへ倒れ込み、枕の上にムー太をトライ。そのままごろんと仰向けに天井を見上げた。
冷えていた体が徐々に温まり始め、うつらうつらと眠気を誘う。今、目を瞑ったら最後、確実に寝てしまいだろう。それもまた良いかもしれないと思った時、
「むきゅう」
構ってもらえなくて寂しかったのか、ムー太がお腹の上によじ登ってきた。遊んでよとでも言いたげに丸い体を揺らし始める。まるで小さな子供が駄々をこねているみたいだ。ムー太が動くたびに柔らかな毛並みがお腹に擦れて気持ちが良い。
そこで私は閃いた。ムー太を脇へどけてから、もう一度うつ伏せに寝転がる。
「ねえ、ムー太。今度は背中に乗ってみて」
「むきゅう」
新しい遊びとでも思ったのか、ムー太は嬉しそうに鳴いて私の背中に飛び乗った。お腹よりも背中の方が、移動できる範囲が広い。そうだ、ゲームという
「背中から落ちたらムー太の負けね。はい、行くよ」
「むきゅう?」
おそらく、背中越しに伝わってくる重心の移り具合から考えて、疑問符を浮かべたムー太は左側に体を傾けている。すぐにゲームが終わっては面白くない……というより、それでは私が気持ち良くならない。
だから私は、背中を右へ傾けることにした。
「むきゅう!?」
地面が斜めに傾き、ムー太が慌ててバランスを取っているのが伝わってくる。その様子は見えないけれど、慌てる姿を想像するだけで笑いがこみ上げてくる。
右へ左へ。交互に背中の傾きを変える。揺れ動く床面に翻弄されながらも、ムー太は懸命に頑張っているようだ。おっとっと、と小さくバウンド。そのたびに柔らかな感触が背中のツボを刺激して、マッサージを受けているみたいに気持ちが良い。だんだんと眠気が増してきて体を動かすのが億劫になり始める。
「うーん、ムー太のコロコロは気持ちが良いね~」
「むきゅう?」
「その調子でお願いします。マッサージ師さん」
「むきゅう!」
持ちつ持たれつの関係だったはずが、いつの間にか私はムー太に甘えていた。それでもムー太は文句一つ言うことなく、ノリノリで丸い体を動かしてくれる。
どう表現したらいいだろう。大きなローラーでマッサージを受けている気分というのが一番近い気はする。しかもそのローラーは、プラスチック製の硬いものではなく、適度に重みのあるゴムボールのようであり、私のボディラインに沿って変形しながらぐりぐりと動く。しかも擦りつけられるはモフモフボディなものだから、必然的に柔らかく繊細なタッチが紡がれる。
ここは天国か、はたまた極楽か。
これだけ気持ちが良いのなら、モフモフマッサージと銘打って商売ができそうだ。プロのマッサージ師に勝るとも劣らないこの腕前があるのなら、きっとお店は繁盛することだろう。
昇天しかけている私は、そんなくだらないことを考えながら深い眠りに……
「って、ここで眠ったらいくらなんでもムー太が可哀想でしょ!」
ただでさえ、義務教育途上にある私は、ムー太に不自由させてしまっている。それでも毎日笑顔を振りまいて、不満な様子を見せることもなく、良い子でお留守番をしてくれるムー太。
寂しい思いをさせてしまっているかもしれない。だから私は、家にいる間はうんと構ってあげるんだと決めている。にも拘わらず、マッサージをさせた挙句に、気持ち良くなったからといって自分だけ寝るなんて暴挙が、許されるはずがない。
浮上したそれらの自己嫌悪を振り払うようにして、私はがばっと起き上がった。が、
「むきゅううう?」
背から伝わってくる感触と馴染みのある独特な悲鳴。
二つの情報から、何が起きたのかはすぐに察することができた。とつぜん体を起き上がらせたので、マッサージに勤しんでくれていたムー太が、急勾配をつけた背中から転がり落ちてしまったのだ。
「ごめんね、ムー太。びっくりしたでしょう」
ぐるぐると目を回すムー太を拾い上げる。
幸い、転がり落ちた先はベッドの上なので怪我はないようだ。
抗議されるものかと思ったけれど、ぐるぐるから復活したムー太は何やら楽しそう。弾むような鳴き声を上げて、大きな円を描くようにしてボンボンを動かしている。何かを伝えたいのだろうな、と私は思った。
少し考え、すぐに思い至る。
上半身を起き上がらせた私の背中は、言うなれば、即席の滑り台のようなものだ。遊具を前にした子供がそうであるように、おそらくムー太もまた、傾斜を滑り下りる楽しみを見出したのかもしれない。
私はすべてを承知しているかのような微笑を浮かべ、首をかしげて問う。
「面白かった?」
「むきゅう!」
即答が返る。
まず、間違いない。ムー太は質問に対して肯定を返したのだ。
声のトーン。頷く仕草。少しでもムー太と触れ合った経験があって、意思疎通ができると知っていれば、イエスとノーの判別ぐらいは誰にでもできるだろう。けれど、付き合いの長い私だからこそ、わかることがある。
ムー太が伝えたいことはそれだけではない。まだ、先があるはずだ。これは直感によるものだけれど、まったく根拠がないわけでもない。
視線を落とす。
嬉しそうに口を半開きにして、キラキラと輝くつぶらな黒目でもって、こちらを見上げているムー太。そこから感じ取れる色は、希望……いや、この場合は、期待と呼ぶのが適切だろう。
では、ムー太が期待するものとは何か。
重要なことは、ムー太の視点に立って考える必要があるということだ。
私はいつも、五歳児ぐらいの男の子をイメージすることにしている。目につくものすべてに興味を示し、周りが見えていない無鉄砲な男の子。対して、好奇心旺盛でいかなる危険も顧みずに直進するムー太。危なっかしくて目が離せないという意味でも、両者は非常によく似ている。
さて、幼稚園児ぐらいの男の子が、初めて公園に連れて行ってもらった場合を考えて欲しい。様々な遊具を前に、きっと彼は目を輝かせて、どれで遊ぼうか迷うことだろう。そして、ようやく選んだ遊具は滑り台だった。
たどたどしい足取りで梯子のような階段を登り、その頂に到達する。そこに至るまでの道のりが険しければ険しいほど、目的を遂げた後の娯楽はより一層に楽しげなものとなる。人生初の滑り台を体験した男の子は、滑り終えたあとに何を思うだろうか。それは、きっとこうだ。
もう一回、滑りたいな。
ここが公園ならば、無我夢中でもう一度登ればいい話だ。存分に遊具を堪能できることだろう。しかし、この場に滑り台は存在しない。より正確に言うならば、滑り台だったものはその役目を終えて、今ではベッドの淵に腰掛けて、ムー太を抱く揺り籠に変わってしまっている。つまり、
「もう一度、横になって欲しいのね」
「むきゅう」
満面の笑みが返ってきた。どうやら正解のようだ。
私はアンコールに応える形で、うつ伏せに横たわる。柔らかな感触が背中に乗ったことを確認し、上半身を起き上がらせて傾斜を作る。ムー太はコロコロと転がっていき、しばらくするとまた背中に戻ってくる。黄色い歓声が聞こえてきそうなほどに、ムー太は楽しんでいるようだ。
マッサージのお礼も兼ねて、私は積極的に背筋を鍛えることにした。が、
「うー、腰が痛い」
繰り返すこと数十分。年寄りじみたことを言いながら私は力尽きた。
背の上のムー太が体を傾け、疑問系で鳴く。
「ごめんね、ムー太。ちょっと休憩」
きっと、残念そうにしているに違いない。そう思っていると、もぞもぞとムー太が動きを見せた。そして、なんということだろう。私がさすっている腰の辺りにまで移動して来ると、今度はその上でモフモフマッサージを始めてくれたのだ。
くう、さすが私の可愛いムー太である。感動すら覚える献身ぶり。なんと気が利いていて、優しいのだろうか。
「ちょっと待っててね。すぐ戻るから」
十分すぎるほどマッサージを堪能したのち、私は一言断りを入れて部屋を出た。足早にキッチンへと向かい、冷蔵庫を開ける。そろそろ夕飯の準備をしなければならない。しかし、目的は食材にあらず。
冷蔵室に置かれた包装された白い箱を取り出す。赤と緑のリボンでラッピングされたクリスマス仕様。中には数種類のケーキが入っている。
「まだ、クリスマスには少し早いけどいいよね」
ショートケーキを二つ、白い丸皿に載せる。普通のショートケーキと違い、クリスマス限定仕様なんだという話を店員から聞いた。なんでも、生クリームを聖夜に降る雪に見立てて、その上にロッジを模したウエハースを載せている。更にその周りに、氷の結晶をイメージした砂糖菓子が配置され、雪原の道を透明なシロップで表現したんだとか。
少し豪華でありながら値段は普通のショートケーキと同じでお得な気分。数量限定品なのでもう同じものは買えないかもしれない。
「ま、クリスマスには別のケーキを用意すればいっか」
ムー太は私の喜ぶことをしてくれる。ならば私は、ムー太が喜ぶことをしてあげたい。滑り台を続けるには腰が痛んで辛いし、ただ撫でてあげるだけというのも芸がない。ならば手っ取り早いのが、美味しいものを食べさせてあげることだろう。
部屋へ戻る。
盆に乗せた皿をこたつの上へ置くと、そそり立つケーキを前にムー太が興味深そうに鳴いた。ベッドからぴょんと飛び降り、ぴょこぴょこと近寄ってくる。
腰を下ろした私の膝元まで来ると、すんすんと鼻を鳴らし、もう一度鳴いた。
「むきゅう?」
しきりに私の顔とこたつを交互に見上げている。甘い香りがするものの、ムー太の目線ではケーキの姿は見えないはずだから、気になって仕方がないのだろう。
背伸びをしてケーキを覗き見ようしているその後ろ姿を見ていると、少しだけ意地悪してみたくもなってくる。例えば、ケーキの載せられたお皿を空中に掲げ、
「よく来たな、勇者よ。褒美にケーキをやろう。ただし、わしを倒せたらの話じゃがな。くっくっく」
などと言ったら、一体ムー太はどのような反応を示すだろうか。
非常に興味深いところではある。
あるいは、背伸びするムー太の背中をつんと押し、前方に転がしてみたらどうだろうか。ムー太の丸い体はモフモフしてて摩擦が少ないので、本人の意思に反して簡単に転がってしまう。だから、その悪戯を実行に移すことは難しくない。
では、実行に移した場合どうなるのか。不意打ちで回転させられたムー太は、口を尖らせて不満そうに鳴くだろう。そして、ボンボンをパタパタと動かして抗議してくるに違いない。その時に見せる膨れた顔が可愛くて可愛くて、私はしばしばこの悪戯を実行してしまうのだ。
もしかしたらそれは、好きな女の子に悪戯して興味を引こうとする小学生男子に近い心理状態なのかもしれない。私はムー太のことが大好きだから、ちょっと困った顔を見てみたいとも思ってしまうのだ。
とはいえ、マッサージのお礼にケーキを持ってきて、それをお預けした挙句に悪戯するというのは、さすがに如何なものかと思う。
余計な煩悩を拭い去り、私はにこやかに言った。
「ふふふ。良い子にしてたムー太のために、サンタさんがプレゼントを用意してくれましたー!」
「むきゅう!」
サンタさんの説明をしようと思っていた私は、ムー太が疑問系で鳴かなかったことに首を捻る。もしかすると、アニメの中でサンタさんが出てきたのかもしれない。とすれば、私の知らないところでムー太はどんどん賢くなっているということだ。その成長を嬉しく思う一方で、私の話に驚いてもらえないことに一抹の寂しさを感じた。
と、そんなことは億尾にも出さずに笑みを浮かべる。
「じゃーん! なんと甘い甘ーい、ケーキでーす」
白い丸皿をカーペットの上へ置くと、その上に直立する三角形のお菓子へとムー太の視線が吸い込まれる。ムー太はボンボンをピンッと驚きに立たせ、
「むきゅう!?」
期待通りの反応が返ってきた。
私が満足げに頷くと、ムー太がひざの上へ登って来る。食べさせてもらえることを知っているからだ。私はフォークを使ってショートケーキを垂直に両断し、スポンジと生クリームからなる階層を更に半分に分ける。三叉の先端をスポンジに通して持ち上げ、
「はい、あーん」
ばくん、と小さな口でかぶりつく。頬をパンパンに膨らませて、もぐもぐと味わうようにして噛んでいる。しばらくすると咀嚼が終わり、ムー太は拍手するようにボンボンを叩き始めた。
「どう? おいしい?」
「むきゅう!」
そうかそうかと頷きを返し、次から次へとケーキを運ぶ。
小さなショートケーキはあっという間になくなってしまい、最後の一切れを飲み込むとムー太は名残惜しそうに口の周りをペロリと舐めた。
刹那、私の体を衝撃が突き抜けた。
ああ、そういうことだったのか。私はようやくすべてを理解した。
京子と交わした議論の後、ずっと拭えずにいた不快感。燻り続けていた消えそうで消えない炎の正体がようやくわかった。
心のどこかで認めていたのだろう。京子の意見が正しいことを。
ただしそれは、動物が見せる愛情表現の最上級についてではない。今でも私は、ムー太の愛情表現の最上級はぽふぽふであると信じているし、そこを譲るつもりは毛ほどもない。だけれども、もしもムー太がペロペロと頬を舐めてくれたならどうだろう。想像しただけで、とても素敵なことのように思えるのだから、実際にして貰えたらきっと心躍るに違いない。
そのような欲求が心の奥底にはあった。にも拘わらず、否、叶わぬ欲求だからこそ、ムキになって反論してしまったのかもしれない。羨ましいという気持ちが、もしかしたらあったのかもしれない。そうした負い目が無意識下にあったからこそ、チクリと痛い小骨のようなものが心に引っかかっていたのだ。
元来、私は欲張りな性分だ。
そうとわかれば、当然ペロペロしてもらいたくなる。
しかし残念ながら、ムー太にそのような習性はない。
お願いすれば、舐めてくれるかもしれない。しかしそれは何かが違う気がする。
愛情表現として舐めてもらうのは無理だとしても、どうにかして自発的にムー太の意志で舐めてはもらえないものだろうか。
私は視線を下ろし、ケーキの余韻に浸りながら口元をしきりに舐めるムー太を見つめ、そして名案を閃いた。早速実行に移すことにする。
「さてと……私も自分の分を食べちゃおっかな」
若干、棒読み気味になるのは仕方がない。私は演劇部ではないのだ。
乱暴にケーキを切り分け、明らかに大きな塊を口へと運ぶ。一口かじり、余った分をお皿に戻す。この時、不自然にならないように生クリーム部分を唇から数センチ離れたほっぺへ付着させれば、ミッションは完了だ。
今、私の頬には生クリームとシロップが混ざり合ったものが付着している。後はムー太を高い高いするという口実で持ち上げ、顔の前まで持っていくだけだ。すると、ほぉら。
「むきゅう」
ボンボンをちょいちょいと動かして、ムー太が注意喚起をしてくれた。明らかに頬っぺたにくっ付いた生クリームを指しているのだけれど、ここはあえて気がつかないフリをする。
「どうしたの、ムー太」
「むきゅう」
ムー太が身を伸ばした。
計画通りの行動に、私はほくそ笑む。
ボンボンのジェスチャーが伝わらないことに気がつくと、次にムー太は舌をペロッペロッと動かし始めた。
ふふふ、その調子よムー太。
さぁ、ペロッと一思いにやって!
ゆっくりとムー太の小さな口が眼前へ迫る。
期待が広がり、胸がドキドキと高鳴り始めた。
緩慢な動きに焦らされ、思わず私は目を瞑ってしまった。
そして――
ぽふっ。
……ん? ぽふ?
期待していた温かい舌の感触ではなく、馴染みのある柔らかな感触が私の頬に当てられている。その意味するところを瞬時に理解し、私は後悔と共に目を開けた。
やはりそこには、予想通りというべきか、事前に予測できて然るべきというべきか、当然のことのようにボンボンが当てられていた。
心の優しいムー太が、頬っぺたにくっ付いた生クリームに気がつけば、そのまま放っておくはずがないとわかっていた。その優しさを利用して、頬を舐めてもらおうと浅慮にも画策したわけだけれど、見事失敗に終わってしまった。
しかし、少し考えればわかることなのだ。ムー太がボンボンを使って、汚れを拭き取ろうとしてくれる、と。
だとすれば、さきほど舌をペロッペロッとしていたのは、生クリームが付いているから舐めて、とジェスチャーで伝えたかったということか。それを私は、舐めてもらえるものと勘違いして……はぁ、自己嫌悪である。
しかも都合が悪いことに、この生クリームにはシロップが混ざっていて、粘着力が増している。つまり、
「むきゅううう?」
ボンボンが私の頬に接着されてしまっていることに気づいたムー太は、無理矢理に剥がそうし始めた。私は慌てた。
「落ち着いて、ムー太。おけけが抜けちゃう」
ムー太を抱いて、駆け足で洗面台へ向う。
廊下を駈けながら、私は思う。
策士策に溺れる。
小細工を弄するものではない。
次からは気をつけよう。
ごめんね、ムー太。
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