名探偵ムー太の事件簿(前編)
日課である旅番組の視聴が終わる。
好奇心が満たされて上機嫌のムー太は、ソファーの上で大きく伸びをした。
リビングには壁一つ挟んでキッチンが併設されている。ムー太の横幅ほどある仕切りの壁には、窓のような四角い空間が切られていて、リビングに居ながらキッチンの様子を窺うことができるようになっている。夕頃になれば、その隙間から料理を作っている七海の顔を覗くことができるのだけれど、平日昼間のこの時間、そこには誰の姿も認めることができない。
広い空間にぽつんと一人いるのは寂しいので、リビングから一番近い位置にある七海の部屋へ、所要を終えたムー太はぴょこぴょこと帰って行く。
移動の際、完全にドアを閉めてはならない。ムー太の力では閉ざされた扉を再び開けることは難しく、非常に骨の折れる作業になってしまうからだ。
暖房の効いた七海の部屋。薄っすらと開いたドアの隙間から、冷え切った廊下へと暖かな風が吹き込んでくる。見えない暖気をたどって七海の部屋へ帰還すれば、そこには雪解けの春風を思わせるポカポカ空間が広がっている――はずだった。
部屋に入るとムー太の額を冷気が打った。
廊下の空気よりも冷たい風が、白毛の隙間を通り抜けていく。
違和感を覚えて、ムー太は体を疑問の形に傾ける。
「むきゅう?」
後ろ手に閉められたドアは、前述の理由から薄っすらと開いている。その隙間から、今度は逆に冷たい空気が入り込んでくるので、背中に冷気を感じるのは当然のことであり、いつものことである。
ムー太が違和感を覚えたのは、後方からではなく、斜め前方から冷気を受けたためだ。七海の部屋はムー太にとって巣みたいなものであり、その内部は知り尽くしている。そちらに冷気を発生させる装置はないはずだ。
必然、興味をそそられて視線を移す。
先には、薄桃色のカーテンがゆらゆらと棚引いていた。
その原因は一目瞭然。ベランダへと通じる大きな窓が半分ほど開いており、その隙間から外気に晒された冷たい風がビュウビュウと入り込んで来ているのだ。
額に受けた冷気の正体は、どうやら外から入ってきた風らしい。
疑問は解消され、しかし、すぐに新たな疑問が浮上する。
ムー太が部屋を出る時、窓は開いていなかった。そして平日昼間の正午を回ろうかという現在、家の中には誰もいないはずだ。
もしかしたら、七海が帰ってきたのだろうか。しかし、彼女が帰宅する時間にはまだ早すぎるし、玄関ドアが開閉する音は聞こえなかった。帰宅した際に発される「ただいまー」の声もなく、またそれを心待ちにしているムー太が聞き逃すはずがない。とすれば、やはり七海は帰宅していないのだろう。
では一体、誰が窓を開けたのだろうか。
「むきゅう???」
ムー太の頭上を無数のクエッションマークが飛び交う。
この窓ガラスに自動で開閉する機能は付いていなかったはずだ。しかも、窓には錠が下ろされ、固く施錠されていた。にも拘わらず、ガラス戸が開いているということは、誰かが錠を上げたうえで戸を開けたと考えるしかない。家人の仕業でないのなら、部外者によるものと考えるのが妥当だろう。
しかし、室内に人の姿はない。
どこかに隠れているのだろうか?
不審者の侵入を想像すれば、普通は警戒して然るべきところである。とはいえ、そこは能天気なムー太のこと。かくれんぼの鬼を探すぐらいの気軽さで、室内を探し始めた。七海の鼻歌を真似して「むっきゅむきゅー」と歌うムー太は、好奇心探索モードだ。ちなみに正しくは「モッフモフー」である。
こたつの中を調べてみる。暖を取っている人間はいなかった。
クローゼットの中を調べてみる。少女の衣服を漁っている変態はいなかった。
勉強机の下へ入り込んでみる。ひやりと冷たく人の温もりは感じられなかった。
布団の中を探ってみる。具合の悪い病人は寝ていなかった。
ベッドの下を覗いてみる。斧を持った殺人鬼は潜んでいなかった。
凡そ、人が隠れられそうな場所は以上といったところ。
それでもムー太は、更に探索を続けた。
カーペットを捲ってみる。極薄の人間は潜んでいなかった。
USB冷蔵庫を開けてみる。小人は潜んでいなかった。
天井を見上げてみる。蜘蛛人間は張り付いていなかった。
「むきゅう?」
やはり室内には誰も居ない。
こうなると残っている隠れられそうな場所はひとつしかない。窓の外、つまりはベランダである。
冷風を避けるようにしてこたつの影を進み、窓枠からひょこっと顔を出す。と、風に吹かれたカーテンが体に巻きついてきて視界を奪われた。蛇のように絡み付いてくるカーテン。ムー太は「むきゅううう」と悲鳴を上げながら、がむしゃらに暴れることでその難を逃れた。
ぽふぽふ、とカーテンを叩いて「邪魔をしないでよ」と抗議する。
そして今度こそ、窓枠から顔を出して左右を窺った。右側にはエアコンの排気口が置かれて行き止まりとなっている。左側には何も置かれておらずコンクリートの床面が続いているだけだ。灰色の床が肌寒さを誘うだけで、そこに人影はない。
その結果に、ムー太は困惑顔だ。
部屋を訪ねてきた人物は、もう帰ってしまったのだろうか。
ぴょこぴょこと部屋へ戻る。
そして、こたつによじ登ったところで異変に気がついた。
「むきゅう!?」
ムー太の所有物は二つある。一つは、イゼラから別れる際に貰った三日月型の髪飾り。そしてもう一つは、七海と別れる際に貰った彼女の匂いが染み込んだマフラーである。
そのどちらもムー太にとっては掛け替えのない宝物であり、それらの品を失くしてしまわないように、普段は目の届くこたつの上に保管している。モニターのやや左手後方、定位置であるキーボードの前へ陣取ったムー太から、難なく見える位置にそれらは置いてある。いつもそうしているように、こたつによじ登ったムー太は、真っ先にその安否を確認したのである。
しかし、それは忽然と消えていた。
当たり前に在るはずのものが、無い。
丁寧に折りたたまれたマフラー……それは、変わらずそこにある。しかし、その上に宝玉のように置かれていた髪飾りが、無い。平らなマフラーの中央に僅かに残る窪みこそが、そこに髪飾りが存在していた証左である。
風で飛ばされてしまったのだろうか?
ムー太は慌てて付近を探した。
「むきゅううう? むきゅううう?」
先程とは打って変わって、ムー太は必死だ。その黒目には薄っすらと涙が滲んでいる。大切なものを失くしてしまったかもしれない。その不安が胸を締め付け、早く探せと警鐘を鳴らす。見つからなかったらどうしよう。そんな焦燥が時間と共に膨らんでいくのがわかる。
とはいえ、七海の部屋は整然としている。端から探す場所は限られているのだ。だからそう長い時間を置かず、髪飾りが落ちていそうな場所は探し終えてしまった。だというのに、探し物は見つからない。
「むきゅう……」
意気消沈してムー太は萎んでしまった。
七海に助けてもらいたいけれど、後三時間は帰って来ないだろう。
やっぱり、自分で何とかしなければならない。
ムー太は考えを改めると、頭をぽふぽふと叩いて気合を入れた。
もう一度、こたつに登る。
見晴らしのいい高台から眺めてみても、髪飾りは見当たらない。
もしかしたらと思い、マフラーを持ち上げて上下に振ってみた。
けれども、何かが落ちてくる気配はない。
がっかりしてこたつを降りようとした時、ムー太は気がついた。
マフラーは軽いのだ。
考えてみれば、妙な話だ。
木製の髪飾りはそこそこの重量があり、ちょっとやそっとの風ではビクともしない。あれが吹き飛ばされるとなれば、相当に強い風が吹いたと思われる。が、室内に荒れた形跡はないし、リビングへ行く前と様子は変わっていない。強風が吹いたのなら、もっと他のものにも影響があっていいのではないだろうか。
例えば、ムー太でも軽々と持てる毛糸のマフラーがその典型だ。マフラーと髪飾りは一緒に置かれていた。にも拘わらず、毛糸のマフラーは残り、木製の髪飾りだけが飛ばされる状況というのは、どうにも不自然である。
ムー太は想像を膨らませて考えたのち、髪飾りだけが飛ばされることは無さそうだと思った。風で飛ばされたわけじゃないから、いくら探しても見つからなかったのだ。そう結論付ける。
とすると、残る可能性は……
「むきゅうっ」
半開きになったガラス窓を睨み付ける。
誰かが出入りした形跡。消えた髪飾り。
ムー太の脳裏に、先日見たアニメのシーンが再生された。それは主人公の家に泥棒が入り、金品が盗まれるというものだった。家捜しで荒れた部屋を見た主人公が激怒し、泥棒を捕まえに行くというストーリーである。
泥棒の侵入経路はアニメでも窓からだった。ムー太は窓際へ歩み寄り、目を皿のようにしてじっと観察する。錠はクレセントタイプのもので、三日月型の金属板をぐるりと回転させることで錠の上げ下げができる。
アニメでは割った窓から手を入れて開錠していた。ムー太は名案を思いついたとばかりにボンボンをピコンと立てて、窓の隅々に至るまで割れている箇所がないか注意深く調べた。けれども、ガラスにはヒビ一つ入っていなかった。
ならば、どうやって錠を上げたのだろうか。
魔法の国出身であるムー太にとって、それは簡単な問題だった。扉の施錠を解くことぐらい魔法を使えば一発だと思ったからだ。この世界において、魔法を使える人間が希少だという考えには至らない。なぜなら、七海が当たり前のように魔法を使えるからである。
ムー太の推論はこうだ。
まず泥棒はベランダへと侵入し、何かしらの魔法を使ってクレセント錠を開錠した。難なく障害を排除した泥棒は悠々と室内に踏み込んだことだろう。そして室内を見回したそいつは、ムー太の宝物に目を付けたのだ。
あの髪飾りは世界に一つしかない大切な大切な宝物だ。その金銭的な価値はムー太にはわからないけれど、きっと泥棒の目から見ても魅力的に映ったに違いない。盗む理由としては十分ではなかろうか。
髪飾りを懐へ忍ばせた泥棒は、入ってきた時と同じくベランダから逃走した。その裏づけとして玄関ドアの開閉音がなかったことが挙げられる。本来、唯一の出入り口である玄関ドアが閉ざされていた以上、泥棒の使った侵入と逃走の経路は、ここしか考えられない。
と、論理的な説明をすれば以上のようになる。もっとも、ムー太は直感だけでこれらの内容を映像としてイメージしたに過ぎない。想像の中の泥棒は、意地の悪い笑みを浮かべて窓の外へと逃げていった。
ムー太はぽふぽふと床を叩いて地団駄を踏んだ。
髪飾りを取り返さなければならない。ムー太は泥棒を捕まえようと思った。漠然とではあるが、自分にならそれができると思った。なぜなら、アニメの中の主人公も泥棒を捕まえて、盗まれた持ち物を取り返していたからだ。
きっと泥棒を捕まえて問い詰めれば、アニメと同じように「ごめんなさい」と謝って髪飾りを返してくれるだろう。
問題は、泥棒がどこへ逃げたかである。
追いかける方向がわからなければ話にならない。
アニメでは部屋に残されていた足跡を追跡することで、泥棒の居場所を突き止めていた。そのシーンを思い出したムー太は了解して、室内とベランダの床を注意深く調べてみた。けれども、足跡はおろか土足で踏み込んだ形跡すらも見当たらない。早々に行き詰ったムー太は困ってしまった。
お手上げとばかりにボンボンで目元を覆って縮こまる。
視界を遮ると、同時に雑多な視覚情報までもが遮断された。映像処理に追われていた働き者なムー太の脳みそは、束の間の休息を得る。これは決して、現実逃避しているわけではない。疲れたら休み、元気になったら出発する。ムー太の辞書に諦めるという文字は存在しないのだ。
涙で湿った目元を擦り、負けてはダメだと自分を鼓舞する。
すると、暗闇の中に何かの気配を感じた。
目を開ける。そこには何も無い。
目を凝らす。薄っすらと何かが見えた。
全神経を集中させる。それは紐のように細い魔力の帯だった。
意識を集中させていなければ、すぐに見失ってしまいそうな程に微弱な存在。その弱々しい魔力の帯は、風を漂うようにして窓の外へと続いている。
「むきゅう?」
泥棒が残した痕跡だろうか?
新たに発見した手掛かりを前に、ムー太は希望に目を輝かせた。
窓の外へと続く魔力の帯を追って、ベランダへ駆ける。
先には落下防止用の柵。
魔力の帯を辿るようにして空を見上げれば、日本晴れが広がっていた。帯は、柵の向こう側へと続いているようだ。
少しの逡巡を挟み、ムー太はエアコンの排気口を三角跳びして
「むきゅうっ!」
絶対に泥棒を捕まえて髪飾りを取り返すんだ。
覚悟を決めると、ムー太は勇ましく鳴いた。
そして、何の迷いもなく外の世界へその身を投げ出したのだった。
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