第37話:モフモフと高度魔法文明の力

 眠るようにしてムー太は死んだ。


 しばらくすると、その体は大気に溶けるようにして魔素に分解されて消えた。


 幸せそうに笑っていた。その顔が、七海の悲しみをより大きなものへと変えた。


 自らの不注意が招いた最悪の結果。相手が悪かったなんて言い訳は通用しない。ソニアの時とは違う。守る力がありながら、守る機会がありながら、守る事ができなかったのだから。

 内心で己の失策を責め立てた。すると、その苦悩を見透かしたのかムー太は幸せそうに笑った。弱々しくも儚げなその笑みは、七海を慰めているようだった。今際の際にありながら、ムー太は自分の心配をしてくれた――そんな気がした。


 赤竜を決して許すことはできなかった。逃げるという選択肢はありえなかった。


 だから七海は、己の存在のすべてを懸けて闘った。


 人語を理解し、話すことのできる赤竜はムー太のことを罵った。下等生物に同情して我に挑むとは愚かなことだと。そして、七海のことを嘲笑った。尻尾を巻いて逃げ帰ればいいものを、と。


 その傲慢な鼻先に拳をぶつけて黙らせた。

 竜の象徴とも言える翼を凍らせ、地面に叩き落してやった。

 四肢を氷柱で貫き、罪人のように磔にして強制的に跪かせた。


 そうして怒り狂う赤竜の鱗を一枚ずつ、叩き割り、切り刻み、毟り取った。

 体を覆っていた鉄壁の鎧が剥がされ、無防備な肌が露出する。が、七海はトドメを刺すことなく一心不乱に鱗を剥ぎ取っていった。次第に赤竜の双眸には恐怖の色が宿り始めたが、作業の手を止めることはなかった。


 ムー太の無念を晴らさなければならなかった。

 唯一無二の親友を奪った赤竜に、その体に思い知らせる必要があった。


 いかにムー太が尊い存在だったのか。いかに七海がムー太を愛していたのか。あっさり死ぬことなど許されない。罪の重さを自覚させ、懺悔させなければ気が済まない。想いのすべてを吐き出すかのように、鱗を一枚ずつ掴み引っこ抜く。


 ぴょこぴょこと、小さな体をいっぱいに使って懸命に歩くムー太が好きだった。

 その後姿を見ていると、心がほっこり温かくなるから。


 ぽふぽふと、じゃれ合うように頬を叩いてくるムー太が好きだった。

 甘えるその姿を見ていると、自分が必要とされているのを感じ取れたから。

 

 カリカリと、クッキーを頬張るムー太が好きだった。

 その幸せそうな顔を見ているだけで、元気を貰うことができたから。


 すやすやと、寝息を立てて眠るムー太が好きだった。

 寝ている間だけは治外法権。ぎゅっと抱きしめて、安眠することができたから。


 モフモフと、ムー太を撫でるのが好きだった。

 言わずもがな。森羅万象の中で、モフモフに勝る癒しは存在しないのだから。


 騒ぎ立てる赤竜を「うるさい」の一言で一蹴し、氷縛の出力を上げて捻じ伏せる。許容範囲ぎりぎりの魔力を酷使して、すべての鱗を剥がし終えると、そこには図体だけの大きいトカゲが横たわっていた。


 気位の高い赤竜にとって、これ以上の屈辱は無かっただろう。

 最後に一つ残った逆鱗に手をかけて、七海は言った。


「力あるものが高貴だというのなら、おまえはすでにその資格がない。地を這いずり、泥水を啜って卑しく生き延びたい?」


 勢いよく逆鱗を引き剥がす。

 そして氷雨を一閃させ、赤竜の両翼を根元から斬り飛ばした。

 次いで、両足を切断。残ったのは小さな前足のみ。これから先、赤竜が生きていくには、二度と生えてこない逆鱗に守られていた弱点を常に晒しながら、前足で地を這って活動するしかない。その無様な姿を想像した七海は冷笑を浮かべ、


「このまま放置するのも復讐としては悪くないね」


 無慈悲にそう告げると、赤竜は「殺してくれ」と懇願した。

 許しを請うように懇願する哀れな姿を見ても、溜飲が下がることはなかった。


 ふと、思う。


 ムー太が生きていれば、もっと早い段階で止めに入っていただろう。そして七海は、そんな優しくて愛おしいムー太のお願いを無碍にはできない。しかし、愚かにも赤竜は、自らの弁護人をその手で殺してしまったのだ。

 けれど、そんな愚か者にさえも、ムー太はきっと温情を施すに違いない。ボンボンを一生懸命に振って、許してあげてと訴えることだろう。その映像が鮮明に再生されてしまい、二度と戻らぬ日々を思い出し、七海の目元に涙が浮かんだ。


「ムー太はきっと、そこまで望んでいない。だから、おまえの願いを叶えてあげる。優しいあの子に感謝することね」


 赤竜の願いを聞き届ける形で、喉元にある唯一の急所に刀を突き立てた。苦悶の咆哮を上げて赤竜は絶命し、その重い体を地に沈めて永遠の眠りについた。


 約束どおり仇討ちを達成したものの、七海の心は満たされなかった。復讐を果たしたところで失ったものは決して戻らない。それはソニアを失った時に学んだことであり、彼女もそれを十分に承知していた。


 そして、一緒に過ごした時間が長かった分、ソニアの時よりも立ち直るまでに悠久の時が必要だった。その間、どこをどう旅して来たのか、彼女自身にもよくわからない程に茫然自失としていた。


 それ程までに大きな存在だったからこそ、魔樹の森でムー太を見かけた時は、奇跡が起きたのだと思った。同じ名前を付けたのも、仕草や反応がムー太にそっくりだったからだ。なにせ、襲われているところを助けるというシチュエーションから、抱き上げた時のリアクションまで同じだったのだから。


 とは言っても、それは同じ種族だからそっくりなんだと思っていた。外見が似ているからそのように感じるのだと、頭では理解していた。けれど、この出会いが偶然であるとはどうしても思えなかった。


 なぜならムー太は、やっぱり何かを探していたからだ。危険だと言っても聞かず、頑なに前進しようとする。強固な意志の元、突き動くその勇士は、彼女の愛した一人目のムー太を彷彿とさせた。


 七海はこう考えた。

 もしかしたら、これは天が与えてくれたチャンスなのかもしれない。一度失敗してしまったムー太の護衛、そしてその先にある悲願成就をもう一度だけ手伝うことができる。その機会を与えられたのだ。

 ただし、チャンスはただの一度だけ。二度目の失敗は絶対に許されない。


 だから七海はムー太を抱いた。もう二度と失わないために、その胸に抱いた。届きそうで届かなかった指先が、いつでも届くように胸元へ置いた。大切な宝物を覆い隠すように両腕でぎゅっと抱きしめて。


 それが最善のはずだったから。




 ◇◇◇◇◇


 ムー太との思い出が脳裏を過ぎったのは一瞬だった。

 時間にすれば一秒にも満たない短い間だが、体感においてのそれは違う。二人の思い出が、まるで映画を見ているようにゆっくりと再生されたのだ。七海は無意識のうちに叫んでいた。


「それなのに……どうして、どうして私からムー太を奪うのよ!」


 冷たいガラスの床を蹴り、一足飛びにエリンとの間合いを詰める。同時に剣閃を横一文字に走らせ、余裕の笑みを浮かべる似非貴公子へと斬りかかる。

 が、その軌道上にいるエリンは微笑を崩さない。彼の背後に聳え立つ本棚の山脈に一筋の線が入り、収納された本と埃を撒き散らしながら崩れ落ちた。しかし、


「それは先程、説明して差し上げたでしょう。ボクらには是が非でも、完全体になった白マフが必要なのです」


 斬撃は確かにエリンの体を両断したかに見えた。が、空気を斬った以上の手応えは感じられない。それはまるで蜃気楼を相手に素振りしているようなそんな感覚だった。実際のところ、エリンは五体満足のままそこに佇んでいる。

 では、実体がないのかというとそれは違う。エリンの間合いに入り、大きく空振りすることになった七海の隙を突いて、半月に見立てた風の刃がエリンの両手から放たれる。そしてそれは実体を伴っており、無防備に晒された小さな背中を狙って飛来する。


 虚を突いた反撃に氷雨による迎撃は間に合わず、七海は体にまとった魔力の出力を上げて防御するしかない。絶氷の魔力に触れた風の刃は、半月状の氷となり砕け散る。彼女はそのまま体を一回転させて、刀を滑らせるようにして次なる斬撃を繰り出したが、やはりその刃は空を切った。


 ムー太と引き離されたことで怒り心頭の七海が、戦闘を開始してからいくばくかの時間が流れた。しかし、戦況は膠着の局面を迎えている。

 絶氷の魔力は、いかなる攻撃をも無効化する絶対の防御力を誇っているし、対するエリンも、得体の知れぬ魔法を使っているらしく、すべての攻撃はのれんに腕押し――彼の体を素通りしてしまう。


 お手上げのポーズを取ってみせ、決定打の無さをエリンが嘆く。


「万物を切断する風の刃なのですが、やはりあなたには通用しませんか。いやぁ、困ったな。ええ、今のはボクの持つ攻撃魔法の中でも最上位に位置する魔法でね。つくづく思いますよ、あなたは規格外なんだってね」


 舌打ちし、七海は後ろへ跳んだ。


 頭が熱い。体が熱い。すべてが熱い。冷静な思考は忘却の彼方へと追いやられて、熱く滾る焦燥だけが彼女を支配していた。早鐘のように心臓の鼓動が脈打ち、ムー太を取り返せと魂の叫びを上げている。


 世界中に存在したマフマフはすべて同一の個体だった。それはつまり、ムー太がムー太であったということだ。再会を喜ぶ暇も与えられず、再び離別した二人。その事実がどうにも辛くて、堪えきれない激情となって身を焦がす。


 ――ムー太に逢いたい。


 客観的な思考を失っていることに気がつき、慌てて七海はかぶりを振った。熱に浮かされ視野が狭くなれば、それだけ敗北が近づくということでもある。クールダウンの意味合いも兼ねてくすぶっていた疑問をぶつけてみることにした。


「私をこの世界へ召喚したのは、君の仕業なんだね」


 問われ、エリンはおどけた仕草を作る。そして、悪びれもせずに言った。


「魔王が邪魔だったので仕方なくね。先程も少し話しましたが、白マフの使命はこの世界で経験を積むこと。何度も酷い目に遭えば、本来の記憶とは別に本能にも刻まれていくわけですね。ええ、そこで問題の発端となるのが人間への警戒心です」


「警戒心?」


「そうです。あなたを召喚した時点で、白マフは人間をかなり警戒していました。とはいえ、最初からそうだったわけではありません。魔王が台等するまでは、白マフと人間は友好的ですらあったのです。しかし魔王が人間に宣戦布告し、戦争を始めてしまったため両者の関係は急激に悪化していきました」


 こめかみに脈打つ血管を左手で押さえつける。未だ頭の熱は引かず、視界に火花が散ってうまく考えることができない。思考をまとめようとすると、フラッシュのような閃光が脳内に焚かれて邪魔をする。


「一体、何が言いたいの」


 その時、ふいに背後から呻き声が聴こえた。振り返ると、苦しみ喘ぎながらアヴァンがなんとか立ち上がったところだった。そして彼は、荒い息を整えながら、七海の疑問へ答えるようにして言った。


「魔族は魔物の進化系だからな……人間の中には、人畜無害な魔物に対してまで、逆恨みするやつが多くいたってことだ。そう、ロッカのようにな。繰り返される転生の中で、人間に襲われることは間々にあったはずだ。そいつの話だと、マフマフは学習を重ねた上で完全体となり、人間と協力しなければならないらしい。それなのに、その過程で人間に警戒心を持つのは都合が悪かったんだろうよ」


 アヴァンは長剣を引き抜くと、ダメージで震えるその足で、七海を庇うようにして前へ進み出た。しかし、すぐにバランスを崩し、地面に片膝を付いてしまった。


「ちょっとアヴァン!? 無理しないでよ。私はもう誰も失いたくないんだから」


 肩で荒い息を繰り返すアヴァンに駆け寄り、その背をさする。

 ふいに、乾いた拍手の音が書庫内に反響した。


「少し補足しますと、警戒心だけならそこまで問題ではありません。本当に問題なのは敵対心の方です。あのままではいずれ、よろしくない感情が芽生えるのも時間の問題かに思われました。そうなってしまっては黒マフの再来というわけです」


 七海はキッと顔を上げ、色白の少年を睨み付けた。


「つまり、魔王を排除すれば戦争が終わると考えたのね。そうすれば両者の関係は少しずつ修復されていくと。事実、魔王を討伐したことで戦争は終結した」


「そうです。そこで白羽の矢を立てたのが、比類なき才能を秘めていたあなたなのです。ええ、これでも十分に感謝はしているのですよ。あなたのおかげで魔王を排除できた上、白マフの人間に対するヘイトを下げることに成功したのですから」


 間に挟まれる大仰な動作が、いちいち癇に障る。身勝手な言い分に苛立ちを覚えつつ、七海は冷静を心がけながら問う。


「それで用済みになったから、強制送還を掛けたと?」


 エリンは「ええ」と首肯し、


「しかし驚きましたよ。この世界の魔法技術であれを跳ね除けたというのですから。なにをやったか存じませんが、あなたは元の世界へ帰るべきだったのです。なぜなら、あなたの存在はこの世界と紐付いていないからです」


「いちいち言い方が迂遠なのよ。だったら何で、私はここにいるの」


 棘のある言葉を無視してエリンは淡々と語る。


「異世界転移には大きくわけて二つのパターンがあります。因果を断ち切った上で転移する場合と、そうでない場合です。前者の場合は、異世界に転移した瞬間、自動的に異世界との因果関係が結ばれます。そうして異世界との紐付けがなされることで、転移者は晴れてその世界の住民になれるというわけです」


 ふふっ、と不快な笑い声が漏れ聞こえた。エリンは意味深な微笑を浮かべて、


「しかし、後者の場合は違います。元の世界との因果を繋いだ状態で、肉体だけが異世界に転移するわけですからね。例えば、肉体の老化は元の世界を基準にして進行します。それゆえに、元の世界で時間が経過しなければ、永遠に歳を取ることはありません。心当たりがあるのではありませんか?」


「なっ、それは……」


 言葉に詰まる。

 心当たりはあった。七海は異世界に転移してから歳を取っていない。永遠の十六歳だなんてサバを読んだ上で嘯いていたのは、そういう事情があったからだ。

 と、そこまで思考し、ある可能性に気がつく。


「私の世界は……地球は時が止まっているというの!?」


「いいえ、厳密に言うと時が止まることはありません。しかし、時の流れるスピードが二つの世界間で異なれば、それに近い状況は生まれるのです。あなたを召喚するに際して、ボクは地球での時の流れが相対的に遅くなるように調整しました。ええ、目的を果たした時に元の生活に戻れるよう、これでも配慮していたのですよ。つまり、あなたが失踪してから、地球では半日と経っていないはずです。だからあなたの体も半日分しか成長していない、というわけです」


 驚きで体がよろめいた。


「帰っても居場所がないと思ってた……だから、私は……」


「ああ、そうだったのですか。紐付けがされていない以上、この世界にとってあなたは異物に等しい。その上、本来あるべき時の流れから地球は逸脱してしまっている。余り長く留まられては、二つの世界の調和が乱れてしまいます。お望みならば、今すぐにでもボクが帰して差し上げますよ」


 さぁ、と手が差し伸べられる。

 それを見たアヴァンが、不安げな視線をこちらに寄越す。


 今の会話ではっきりしたことがある。地球の経過時間は僅か半日のみ。だとすれば、仮に帰還することになったとしても、元の生活に戻ることは可能だということだ。三十年後の地球に帰還するという笑えない状態は回避できるのである。

 それはリスク管理という面で、大きな意味を持っていた。帰る手段はすでに手中にあり、任意のタイミングで発動することができる。だからあえて今、エリンの手を取る必要はない。そんなことよりも、


「色々と合点がいったよ。それに頭の方も大分冷ますことができた。そしてはっきりわかったのは、やっぱり君にムー太は任せられないってこと。目的のためには手段を選ばず、人のことを使い捨ての道具ぐらいに思ってる。そんな奴だから、次はきっとムー太を不幸にするに違いない。だから、私が守らなきゃ」


 原点回帰。とはいえ、その結論は今も昔も変わらない。ただ、激情に駆られて怒りを燃やしている時よりも、穏やかな気持ちで守りたいものを明確に意識している時の方が、心に余裕が生まれ思考も冴え渡る。

 赤竜の時と違い、ムー太の命が危険に晒されているわけではない。一分一秒を争うような状況ではない。そんな当たり前のことに今更ながらに気がついた。


 顔色の戻った七海の横顔をちらりと覗き、アヴァンが訊いた。


「勝算はあるのか」


 このままでは埒が明かないことは明白だ。

 ムー太を救出するためには一か八かの賭けに出るしかないだろう。


 そんなことはおくびにも出さず、七海は頷いてみせる。


「うん、あるよ」


 肩を貸して、アヴァンを立ち上がらせる。その耳元に顔を近づけて、七海は囁くように言った。


「だからアヴァンは外で待ってて。でないと、私が全力で戦えないから」


 一瞬だけ寂しそうな顔を見せ、けれどアヴァンは抗議の声は上げずにこう言った。


「護衛任務はまだ終わっちゃいない。途中で投げ出したりするなよ」


 書庫の入り口へと向けて遠ざかる背を見送り、正面へ向き直ると七海は氷雨を正眼に構え直した。透き通るような刀身がエリンへ向けられる。


「アヴァンに危害を加えるつもりなら、最初の一撃で殺していただろうしね。避難の邪魔はしないだろうと思ったよ。一応は紳士ってことにしといてあげる」


「白マフが親しくしている相手を殺すわけにはいきません。そんなことをしたら、ボクにヘイトが向いてしまいますからね。……ああ、それと。先ほどの要求は、どちらも却下します。白マフの次の相棒は妹のエリカと決まっているんでね。世界調和のためにも、あなたにはここで退場して頂きますよ」


 双方は互いに不敵の笑みを浮かべる。


 静寂が場を支配する。


 先に動いたのは七海の方だった。


 全力で放出した魔力を氷雨に篭めて、大上段から力いっぱいに振り下ろす。赤竜の放つ地獄の吐息と同等のエネルギーが氷の津波に姿を変えて、エリンと書庫を洗い流すようにして突き進む。

 直撃を受けた本棚は跡形もなく粉砕され、難を逃れた周囲の本棚は分厚い氷に包まれて沈黙。大きな衝撃が走り、建物全体が激しく揺れる。それだけでは収まらず、とうとう書庫内の壁にぴしぴしと亀裂が走った。


 けれど、直撃を受けたはずのエリンは、斬撃の形に抉れた床の上に立っていた。その頬に走った一本の紅線から、つーっと一筋の血が滴り落ちる以外は、特にダメージを負った気配がない。

 しかしそれは、エリンにとって予想外だったらしく、目を大きく見開き驚きに硬直している。隙が生まれればいい。その一念だけで放った一撃による、期待以上の収穫。この機を逃す手はなく、七海は地を蹴り――


 瞬間。


 ぐらり、と世界が傾いた。山と積まれた本棚の森が、純白のタキシードに身を包んだエリンの姿が、斜めに倒れていく。冷たいガラスの床に頬と肩がぶつかり、鈍い痛みが走る。朦朧とする意識の中、突如前方に現れた壁に七海は困惑。そしてすぐにそれが床であり、自分がうつ伏せに倒れたのだと知る。


 速やかに立ち上がろうとしたが、体が鉛のように重く思うように動かない。


 頭上からエリンの声が降ってきた。


「あなたには驚かされてばかりだ。まさかボクに傷を付けることができるとはね」


「何が……一体、何を……」


 地面に横たわることで、ようやくその異変に気がつくことができた。放出した魔力だけでなく、己の内包する魔力までもが体から抜け落ちていく。その向かう先は、冷たい床の下。


「正攻法では勝てなさそうだったので、少しばかり小細工を弄しました。あなたの魔力が尽きるのも時間の問題です。ええ、その暁には今度こそ故郷に帰して差し上げましょう」


 淡々と抑揚のない声で、エリンはそう告げた。

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