第36話:モフモフととある日々の思い出

 それが何度目の転生だったのかは定かではない。


 生まれたのは、山の谷間に位置する草原だった。

 風の唯一の通り道である狭い谷は、一定の周期で強い風が吹き荒れる。その度にムー太の丸い体は強制的に持ち上げられて、波打つ丘陵の坂道を、荒野に転がる枯れ草のようにコロコロと転がった。


 柔らかな丸い体は軽快にスピードを上げて、時折大きなバウンドを挟みながら野を駆けた。そんな姿が美味しそうに映ったのかは不明だけれど、恐ろしい魔物に目を付けられてしまった。


 胴体だけを見れば獅子のようである。しかし、その筋肉質な背中には大きな羽が生えていて、咆哮に合わせて両翼を動かし風を生む。尻尾の先端には鋭い針を持ち、それをサソリのように反り返らせて威嚇をされれば、無力なムー太は震え上がることしかできない。

 そして何よりも恐ろしかったのは、首から先――つまりは、その魔物の顔が人間にそっくりであったことだ。それはマンティコアという凶暴な魔物だった。


 その頃のムー太は、ボンボンで目を覆う特技を持っていなかったので、涙目になりながら震えることしかできなかった。心底恐ろしくて身を小さくして縮こまり、嵐が過ぎ去るのを祈るようにして待っていた。

 そこで命を落とすのが、定められた運命であるかに思われた。戦うことは論外であるし、仮に逃げ出したとしても、障害物のない草原で鈍足のムー太が逃げられるわけがない。今までの転生においても、このパターンで命を散らすことが大半だったのだから。


 しかし、何万回も試行を重ねれば、奇跡は起こりうるのである。

 そしてそれは、幾万分の一の出会いでもあった。


 長いマフラーの裾を翻し、両者の間に颯爽と割って入る者がいた。小柄でありながら凛と伸びたその背中には、セミショートの黒髪が僅かに掛かっている。お洒落よりも実用性を重視した服に身を包み、華奢な体は女性特有の優美な曲線を描く。


 左腰には刀を一本帯刀しているが、引き抜く素振りは見せていない。大きなリュックサックを地面に転がし、その人物――七海は呆れたようにマンティコアを一瞥して言った。


「魔物同士の喧嘩にしては随分と体格差があるね。弱い者イジメは止めときなよ」


 突如現れた闖入者を前に、マンティコアは一瞬だけ人間味の溢れる怪訝そうな顔を見せ、そしてすぐにその牙を剥いた。愚かにもターゲットをムー太から七海へ変更し、無謀な戦いを仕掛けたのである。

 彼女の鋭い回し蹴りがマンティコアの顔面を穿ち、その巨体は易々と宙へと舞った。そのまま無造作に地面を転がり、停止してからはピクリとも動かない。


 七海はへし折れた牙を拾い上げ、目をパチクリさせるムー太の元へと歩み寄ってきた。窮地を脱した安堵からムー太が動けずにいると、その丸い体を彼女は両手でホールドし、自らの胸に押し込むようにして抱きしめた。


「わぁ、モフモフしてて気持ち良い! それにすごーく可愛い!!」


 けれど、ムー太の本能は人間を危険だと認識していた。だから、


「むきゅううううう」


「え? 何? わわっ……」


「むきゅうううううううううううううううう」


 すぽん、と七海の腕の中から飛び出して、ムー太は慌てて地面を転がった。


 振り返ってみると、彼女は悲しそうに肩を落としていた。追いかけてくる素振りはないし、敵意のようなものは感じられない。寂しげな黒い瞳がムー太を名残惜しそうに見つめていた。

 その姿を見ていると、だんだんと気の毒になってきて、そのまま立ち去ることができなくなった。よく考えてみれば、自分を助けてくれたのではないか、という事に思い至り、踵を返してぴょこぴょこと歩み寄った。


 七海はパッと顔を綻ばせ、ムー太を刺激しないようにゆっくりと緩慢な動作でしゃがみ込み、人差し指と中指をくいくいっと動かしながら言った。


「私の名前は七海っていうの。君の名前は?」


「むきゅう?」


 おいでおいで、と動く指先に吸い寄せられるようにしてムー太は七海に近寄った。そして、彼女は名前を付けてくれたのだ。


 ムー太、と。


 どうして同じ名前を付けたのかムー太にはわからない。けれども、どちらのムー太も同じぐらい愛されていたことは間違いない。二人の間で交わされる親愛の証は、今も昔も変わらないからだ。


 ただ一点。今とは明確に異なる点があった。

 最初に抱かれることを嫌がったせいか、七海はムー太を抱こうとしなかった。その代わりに、ぴょこぴょこと移動する後姿を見守るようにしてついてきた。


 好奇心旺盛なムー太は、道端に咲く花を見つけては駆け寄ってみたり、空に浮かぶ虹を見つけて興味深そうにじーっと凝視したり、とマイペースに進む。その後ろに寄り添うように歩幅を小さく刻み、なかなか前に進まない現状さえも楽しんでいるのか、彼女はニコニコと笑みを絶やさなかった。


 そして、自分の力では解決できない問題に直面すると、ムー太は困ったように七海を振り返り、助けて欲しくて鳴いた。すると、必ず彼女はその意図を汲み取って、手を差し伸べてくれた。


 そうして問題が解決された暁には、決まってこう言うのだ。


「世の中はね、ギブアンドテイクなんだよ。それでは、対価を頂こうと思います」


 彼女の言うところの対価とは、要するにモフモフすることだった。普段抱けない鬱憤を晴らすかのように、ここぞとばかりに強く激しく抱きしめるのである。そのスキンシップは少し行き過ぎなところがあったけれど、日々を一緒に過ごし慣れるに従って、心地よいものへと変わっていった。

 外敵になる魔物にしても、彼らは七海を恐れてか近寄って来ない。稀に、好戦的な魔物が襲ってくることはあっても、彼女の敵にはなり得なかった。


 七海の完全なバッグアップの元、ムー太は難所を次々と突破して行った。順調なその歩みが止まるのは、ムー太が腹ペコになった時ぐらいのものだった。ぐきゅるう、とお腹が鳴れば休憩の合図である。

 食事の時だけは彼女の膝に乗せてもらって、ご飯を食べさせてもらう。飢える心配をすることなく、ムー太は幸せのうちに満腹になることができた。


 貴重な栄養を体内に吸収するために、ムー太はお腹が膨れると眠くなってしまう。それは食料をうまく調達できなかった頃にできた習慣だった。

 どこでもお構いなしに眠ってしまうマイペースなムー太。その無防備な寝顔は、七海という守護者ガーディアンによって守られ、決して傷つくことはない。


 ムー太は七海の助けを借りて、七海はムー太のモフモフを借りて――お互い持ちつ持たれつの関係のまま、二人は旅を続けた。


 澄み切った青空の下、二人で一緒にお昼寝したことがあった。清涼な風の冷たさと、七海の温もりが丁度いい塩梅でブレンドされて、眠気を誘われたムー太はいつも以上に惰眠を貪った。


 雨に降られて体が濡れてしまったこともあった。その時は、即席で氷の傘を七海が作り上げ、タオルで体を拭きながら慰めてくれた。


 森の奥地にあると言われる幻の果実を発見したこともあった。二人揃って果実にかぶりつくと、その余りの美味しさに驚いて一緒に飛び跳ねて喜んだ。


 巣から落ちてしまった魔物のヒナを拾ったことがあった。ボンボンにくっ付けて頭の上に乗せてみると、自分の巣と勘違いしたのか「ピー」とヒナは嬉しそうに鳴いた。それを見たムー太も嬉しくなって、自分を抱く七海の気持ちが少しだけわかった気がした。親鳥を探し出し、ヒナを返した時は寂しかった。


 夜空に浮かぶ満天の星空を一緒に見上げたことがあった。漆黒の中に浮かぶ煌びやかな星。それを掴み取ろうと、ムー太は一生懸命になってボンボンを伸ばした。それを見た七海がくすくすと笑っていた。笑われた理由がわからず、ムー太は体を傾けるばかりだった。


 二人はずっと一緒だった。

 歳月と共にその絆は深まっていった。


 そんな二人が死の山脈に辿り着いたのは、宿命だったと言える。

 ムー太が目指す地は、浮遊都市・アルデバランの眠る地底深くにある。それゆえ、旅の経路が異なっていても、最終的に死の山脈に到達することは必然であり、必定だったのだ。


 死の山脈は噴火によって形を変えたのか、現在とは地形が異なっていた。草木の一本すら生えない大地は殺風景で、他の魔物は生息していなかった。生命の痕跡のない不気味な土地は、死を冠するに相応しかったと言えるだろう。


 妨害を入れる者は存在せず、二人は順調に歩を進めた。そして、とうとう浮遊都市の真上に当たる火口の広場へと辿り着いたのだ。


「疲れたでしょ、ムー太。休憩しよっか」


「むきゅう」


 いそいそと七海がリュックサックを漁り、お茶の葉とコップを取り出す。今日のお茶請けのお菓子はなんだろな、とムー太は期待に体を膨らませていた。

 しかし、その時だった。不運にも、ムー太は気づいてしまった。本能が探し求めるコアの感覚、その方角が真下を指し示していることに。そしてもう一つ、不運が重なった。お茶の用意をしていた七海は、ムー太の初動に気づくことができなかったのだ。


「むきゅう!?」


 驚き跳ねたムー太は、興味を引かれるままに火口の縁へ歩み寄って下を覗き込んだ。ボコボコとマグマが煮立っていて、熱気が顔を叩く。堪らずに身を引っ込ませると、不意に頭上に影が差した。同時に風が吹き、ムー太の白毛を横薙ぎに倒す。

 何だろうと見上げようとしたその背中を、七海の放った悲鳴のような叫びが引き止めた。


「ムー太!?」


 ムー太は「なあに?」と言いたげに振り返った。そこにはいつもの優しい笑みがあると思っていた。けれど、ムー太の目に入ってきたのは、必死の形相で素早く抜刀する七海の姿だった。


 そこから先は一瞬の出来事。刹那の刻。ムー太の認識の範囲外。


 頭上から紅蓮の炎が降り注ぐ。

 七海が刀を一閃し、氷の斬撃を炎に向けて飛ばす。

 炎と氷。熱気と冷気の衝突が起きる。


 もしもそれが、並の魔物の放った炎だったなら、跡形もなく消え去っていたことだろう。しかしそれは、"天空に舞う災厄"と呼ばれる最強の魔物――赤竜が放った、一息で村を焼き払うとされる地獄の吐息だった。


 二つの大きな力は互いにせめぎ合い、そして爆発した。

 炎自体は相殺できたものの、爆発と同時に高温の蒸気が周囲に四散して、ムー太の全身に直撃した。熱さや痛みは感じなかった。代わりに全身の感覚が一瞬にしてなくなり、麻痺して動かなくなった。


 何が起こったのか、ムー太にはわからなかった。

 自由を失った体が、ゆっくりと後ろへ倒れていく。

 すべての時がゆっくり動いているようだった。


「ムー太!? しっかりして」


 転がった体が抱き上げられ、揺り動かされる。

 泣き出しそうな七海の顔が、すぐ目の前にあった。その頬をぽふぽふ、と叩きたかったのだけれど、思うように体が動かない。意識が朦朧として、夢を見ているようだった。


 命の灯が消えようとしていた。何となくムー太はそれを悟ることができた。

 青ざめていた七海の顔が、くしゃりと歪む。


 そんな顔しないで、とムー太は思った。笑顔の七海が好きだった。一緒に笑っている時間が何よりも好きだった。だからムー太は、残りの力を振り絞ってニコリと笑ってみせた。


 それを見た七海の目元から大粒の涙が零れた。一度堰を切って流された涙は止まることなく、無限に湧き出してくるようだった。彼女は言葉の合間に挟まれる嗚咽を飲み込みながら、それでも言葉を搾り出すようにして言った。


「もっと距離が近ければ……私が傍に居さえすれば、守る手段はいくらでもあったのに。それなのに私は、私は……ごめんね、ごめん。私の不注意だった……気をつけていれば防げたんだ」


 どうして謝るの? と、ムー太は思った。

 七海の元を勝手に離れて、火口を覗きに行ったのは自分なのだ。安全な彼女の元を離れ、好奇心のままに軽率な行動を取ったのは自分なのだ。それなのに、どうして彼女は申し訳なさそうに謝るのだろう。どうして辛そうにしているのだろう。


 そのことを伝えたかった。けれど、体を動かすことはできなかった。代わりに声を出すこともできなかった。ゆっくり瞬きすることしかできなかった。気持ちを伝える術はなかった。それがとっても無念で悔しかった。


 涙に濡れる頬を叩いてあげたかった。

 自慢のボンボンで、その美しい雫を拭き取ってあげたかった。


「お願い、死なないでよムー太。私を一人にしないで。こんなところでお別れなんて嫌だよ。またクッキーを焼いてあげるからさ、ね?」


 その呼びかけに答えることはできない。

 また、七海のクッキーを食べたいと言いたかった。


 なんだかとっても眠くなってきた。

 意識はだんだんと混濁していき、どこか遠くへ旅立とうとしている。


 瞼が重い。だから閉じよう。


 ゆっくりと閉じられていく瞼。視界の端に入ったのは、切り立った岸壁と灰色の大地だった。ボコボコとマグマが不気味な音を立てている。次に生まれてくることがあれば、マグマには気をつけようと思った。

 空を舞う両翼の動きが、太陽光を阻み地面に投影されている。その上下の動きに合わせて、上空から突風が吹き、全身の毛が揺れる。耳に届くのは暴風の音だけれど、その風を感じ取ることができない。


 別れの時が近づいていることを悟ったのか、七海はぎゅっと唇を噛んだ。


「絶対に仇は取るから。だから、だから……ゆっくりと……」


 言葉尻は涙に沈み、浮上してくることはなかった。鼻水を啜り上げ、七海がムー太をぎゅっと強く抱きしめた。


 体の感覚がないので、その喜びを感じることもできない。


 ムー太は、七海のことが大好きだった。彼女と一緒に旅ができて幸せだった。もっとずっと一緒に居たかった。お別れするのは寂しいけれど、悔いのない人生だったと思う。


 意識が途切れる寸前、大気を燃やし尽くす紅蓮の炎が降り注ぎ、二人を洗い流すように通り過ぎていった。


 最後にムー太は、七海の無事を祈った。

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