第35話:モフモフと長い旅路の終着地点
「むきゅううううううううううううううううううううう」
風に巻かれたムー太の体が、ぐわんぐわんと
垂直方向に延々と伸びる空間を風に弄ばれながら舞い上がる中、ムー太にできることはと言えば、悲鳴を上げることぐらいだった。
つぶらな黒目をぐるぐると回し、天へと流れる風の中をムー太は泳ぐ。
舞い上がる無数の本と共に摩天楼を昇っていけば、その終点にはドーム状に窪んだ天井が待ち受けていた。ムー太よりも先を行く本たちは、天井に描かれた複雑な紋様に到達すると、不思議なことにその姿を消していく。
「むきゅう!?」
ムー太は驚き、衝撃に備えてボンボンで目を覆った。
しかし、その柔らかな体に衝撃が走ることはなかった。いつまで待っても襲ってこない衝撃に、ムー太は疑問符を浮かべる。いつの間にか、ぐるぐるするのも収まっていて、背中がひやりと冷たい。
ボンボンをどけて目を開いてみると、石造りの天井が視界に入った。どうやら仰向けに転がっているらしい。ムー太は理解して、ころんと身を起こす。
七海はどこだろうと思い、キョロキョロと周囲を見渡した。しかし、彼女の姿は見当たらない。柔らかくて温かい胸の中とは正反対に、硬く冷たい床の感触がムー太の心細さに拍車をかける。だんだんと不安になってきて、ムー太はオロオロとしながら鳴いた。
「むきゅう? むきゅう?」
そもそも、空高く舞い上がって来たはずなのに、どうして自分は床の上に寝転がっていたのか。ムー太にはわからないことだらけだ。
普段ならば興味を引かれそうな床に描かれた複雑な紋様も、今のムー太にとっては無意味な線の集合体でしかない。今はただ、七海の元へ帰りたい。その気持ちだけが心の中を占めている。
涙目になりながらも視線を巡らせ、現状を把握しようとムー太は努める。
そこは、それほど広くない室内だった。四隅に置かれた燭台が、頼りない火を揺らして明かりを供給している。天井の高さも一般的な建物と同じぐらいで、他に目ぼしいものは見つからない。
そんな殺風景な部屋の一角に、石の扉が設けられていた。他に出入りできそうなところは見当たらず、扉だけが唯一の脱出口のようだ。
それは一筋の希望の光だった。ムー太は笑顔になって歩みを開始。
丸い体を上下に揺らし、跳ねながら扉の前へ移動する。
自分の力で歩くのは、随分と久しぶりな気がする。少し跳ねるのがぎこちないのは、運動不足のせいかもしれない。そういえば、生まれたばかりの頃より、ちょっぴり体が重い気がする。
早く七海の元へ戻って、また抱いてもらおう。ムー太はそう決意して、ボンボンをぽふぽふと叩き合わせて気合を入れると、扉に向かって体当たりを敢行した。
ぽよん、と跳ね返る。
何度か体当たりを試みるも、扉はびくともしなかった。
困ったムー太は額の三本線を歪めて、立ちはだかる扉をじーっと睨みつけた。どうすれば扉を開けることができるのだろうか。と、そこでムー太は閃いた。
遺跡に入るとき、硬く閉ざされた扉を開けたのは、他の誰でもなく自分なのだ。また同じことをやれば良いに違いない。そう考えたムー太は、早速、床を注意深く見回して紋様の描かれたタイルを探し始めた。
しかし、扉の周囲にそれらしきものは見当たらない。
部屋の中央に戻り、床に描かれた大きな紋様に魔力を篭めてみても、扉に変化は訪れない。万策尽きたムー太は、肩をしょんぼりと落としながら扉の前へと戻ってきた。そして、それに気がついた。
「むきゅう!」
扉の脇、壁面に埋め込まれるようにして紋様の刻まれたタイルが埋め込まれている。丁度、七海に抱かれた時の目線と同じぐらいの高さがあるだろうか。試しにボンボンを伸ばしてみたけれど、まったく届く気配がない。
次にムー太は、ぽよんぽよんと跳ねながらタイルに触れようと試みた。けれど、やっぱりボンボンが届くことはなかった。
「むきゅう……」
しかし、ムー太は諦めない。
やると決めたら、とことんやり通す。それがムー太の性格なのだ。
ボンボンを叩き合わせて気合を入れると、再びの跳躍。
ぽよん、と跳ねた体が落下して地面に着地する。その瞬間、跳ね返る力に合わせてもう一度ジャンプする。トランポリンの要領でジャンプ力が増大し、一度目よりも二度目、二度目より三度目の方がより高く跳ぶことが可能となる。
そのジャンプ力に比例して、体にかかる負担も大きくなるけれど、ムー太は一生懸命に跳ね続けた。
そうして五度目のジャンプにて、ようやくボンボンが壁面に設置されたタイルに届いた。無我夢中で魔力を篭めると、僅かな魔力に反応して扉がすっと左右に開いた。達成感を得てどや顔になるも、その功績を褒めてくれる友はいない。それが少し寂しい。
扉がゆっくりと開いていく。
その隙間から眩い光が飛び込んできて、ムー太は目をしょぼしょぼさせた。
仕方がないので、ボンボンでごしごしと擦っておくことにする。
扉の先は、開けた空間に繋がっていた。その中央にはピラミッド状の祭壇のようなものが置かれ、その頂の台座には眩い光の発生源――正八面体のクリスタルが置かれている。
本の背表紙を見たときもそうだった。
挿絵を見たときもそうだった。
正八面体のクリスタルを見ると、不思議とワクワクする気持ちが湧いてくる。
その実物を前に、ムー太の胸は今までにないぐらい高鳴った。
レーダーの役目を果たす二本のボンボンが、目標を感知してピコピコと揺れる。
自然と体が動いた。
それは偶然などではなく、必然的な出会いであるような予感がある。
吸い寄せられるようにして頂へと続く階段を一段ずつ登り、クリスタルとの距離が縮まるに連れてムー太の黒目は輝きを増していく。そこに辿り着くことこそが、己の使命であったのだと今になってようやく理解することができた。
階段を登り終えると、平面の床に置かれた台座の上、すぐ間近にクリスタルがあった。遠目には小さかったクリスタルだけれど、近寄ってみると意外に大きい。ムー太の身長の倍以上はあるだろうか。
そして、これも遠目にはわからなかったことだけれど、クリスタルは台座に置かれているのではなく、僅かな隙間を残して台座の上に浮遊していた。
「むきゅう?」
風もないのにプカプカと浮かぶクリスタルが不思議で、ムー太は体を斜めに倒した。もしかしたら、自分よりも軽いのかもしれない。強風で舞い上がり、不本意なフライトを遂げたムー太は、そんな風に考える。
と、その時。クリスタルの裏側から、透き通るような美しい声が聴こえた。
「長旅、ご苦労様でした。この時をずっと待っていたのですよ」
その声はエリンの声によく似ていた。
七海と引き剥がした張本人であるエリンをムー太は好きではない。びっくりして、反射的に後ろへ飛び跳ねる。警戒に体を縮めて身構えていると、
「怯えなくても大丈夫ですよ。ワタシはあなたの味方です」
クリスタルの裏側、死角となっていた場所から色白の少女が姿を現した。整った顔立ちの女の子で、世間一般の感性からすれば美少女に該当するだろう。ウェーブがかった美しい白銀の髪を後ろで束ね、エリンと同じ形の瞳は銀色だ。
純白のドレスに身を包み、新雪のように汚れなき白の腕がすらりと伸びる。全身のカラーは白で統一されており、しかし、その中に紅一点。薄桃色の唇は親愛の形に弧を描き、合わせて目元も優しく三日月を形作っている。
自分と同じ真っ白の少女に、ムー太は親近感を覚えた。敵意は感じられず、その優しい微笑みからは好意すら感じられる。けれど、顔立ちや雰囲気がエリンと似ていて、ムー太は警戒を解くことなく後退る。
そんなムー太の姿を見た少女は、悲しそうに眉を寄せ、
「ワタシのことを覚えていないのも当然ですよね。そのように設定したのは、他でもないワタシたちなのだから……」
目元に涙を浮かべて少女は弱々しく俯いた。
「むきゅう?」
ムー太にはよく意味がわからない。けれど、自分が泣かせてしまったのだということは理解できた。少女の足元に歩み寄り、膝の辺りをぽふぽふと叩いてみる。これでも一応、慰めているつもりのムー太である。
そしてその行動のもたらした効果は絶大で、少女はパッと顔を輝かせ笑顔を取り戻した。彼女は膝を折って前屈みになり、ムー太に触れようと指を伸ばした。が、その指は柔らかな毛先に触れることなく迷いの末に戻された。
少女は桃色の唇をきゅっと噛むと、再び立ち上がり言った。
「さぁ、目的を果たしましょう。マー……いえ、あなたは幾千幾万という転生を繰り返してきました。そうして蓄積された経験を元に、どのような魔法を習得するのが最適か、すでに結論は出ているはずです」
さぁ、と少女がクリスタルを振り仰ぐ。
ムー太は迷った。本能は早く前へ進めと訴えてくるけれど、同時に何か嫌な予感がする。後戻りができなくなる、そんな得体の知れない不安が過ぎるのだ。そんな迷いを浮かべるムー太を導くかのように、少女は語りかけるように優しく諭す。
「コアに触れるだけで良いのですよ。そうすれば、次のコアを探すための最適解となる魔法を習得できましょう。もう非力に悩むことはなくなるのです。そしてそれが、あなたの使命なのですよ」
使命、という言葉にムー太の本能は敏感に反応した。
自然と体が動き、前へ。白色に輝く正八面体の結晶が目の前に迫る。
ボンボンを伸ばし、その側面に触れ――
「むきゅう!?」
ぽふっとボンボンがクリスタルに触れた瞬間、頭の中で大爆発が起きた。
それは今までに何百何千、果てには何万と繰り返された転生の記憶だった。
生まれてすぐに命を落とすことが多かった。
凶暴な魔物に襲われ、呆気なく命を落とすこともあった。
食事を取れずに腹ペコになり、動く元気がなくなって落とした命もあった。
自然災害に巻き込まれ、散らした命も数多い。
人間からは敵視され、追い掛け回されるのが日常だった。
捕まって、ペットとして飼われたこともあった。その時はとっても辛かった。
高速で頭の中を駆け巡る記憶の中には、目の前にいる少女の姿もあった。
彼女の名前はエリカ。
エリンの双子の妹で、ムー太を創造した大魔導師の子供たちだ。
一番最初にムー太を可愛がってくれたのは、他の誰でもないエリカだった。しかし、彼女たちは故郷に帰還するという一族の悲願を叶えるため、ムー太に試練を与えることを決意したのだ。
その時の会話が鮮明に再生される。
舞台は浮遊都市・アルデバランの中枢。その動力のすべてを供給するコアが安置された聖殿。つまりは、今、ムー太が立っているこの場所だ。
『なぜ、マーコと離れなければならないのですか。お答えください、兄様!!』
『暴走してしまった黒マフに対抗するためだよ。それぐらいわかるだろう?』
『いいえ、わかりません! 五つの浮遊都市が保有するコア。それをすべて吸収すれば、マーコは完全体になれます。そうすれば、黒マフと力は互角のはず。なぜ、それでは足りないのですか!』
『それは白マフが優しすぎるからさ。黒マフで失敗した父さんは、二度と同じ失敗を繰り返さないように白マフを優しい性格に設定した。人間に同情し、供に戦ってくれるように、とね』
『なぜ優しくてはいけないのですか!? 兄様は何が不満だというのでしょう』
『想像してごらん。闘争心の塊で破壊を好む黒マフと、平和主義で闘争を好まない白マフが戦う姿を、だ。例え、力が同じであったとしても、肉食動物と草食動物が戦ったらどうなるのか。ええ、しかもだよ。黒マフはすでに戦闘の経験を多く積んでしまっている。勝算は極めて低いだろうね』
『だからって無力な状態で放り出して、一体何が変わるというのです!?』
『マフマフの学習能力が高いことは知っているだろう。無力だからこそ、非力だからこそ、困難にぶつかった時にどうしたら生き残れるのか、一生懸命に考えることだろう。そうしてこの地に辿り着く頃には、あらゆる困難に対応できる最適解を導き出せているはずなんだよ』
『最適解とは、コアを一つ吸収するごとに手に入る魔法のことですか?』
『その通りだよ、エリカ。ボクはすでに白マフの目標を設定している。コアを手に入れた時に習得する魔法には、次のコアを探すために最も適切だと思われるものを選択するようにね。そうやって五つの魔法を厳選していけば、きっと黒マフを超える存在に成長することだろう』
『そんな……』
エリンの決意は固かった。
説得の末、エリカは泣く泣くムー太を手放すことに同意させられる。
そうだ。あの時も、ムー太を可愛がってくれた女の子と引き剥がされたのだ。
その後、ムー太は転移魔法を掛けられて、見知らぬ地へ放り出された。捨てられた子犬のように不安で寂しかったのを今でもよく覚えている。そしてそれが、長い長い旅路の始まりだったのだ。
命を散らしても、安らかに眠ることは許されない。転生システムによって魔素が豊富な土地に送られ、他の魔物と同じように魔素を使って再生成されるからだ。
生まれてくる土地は様々だった。
灼熱の砂漠。亜熱帯気候の密林。殺風景な荒野。極寒の雪国。
どこに生れ落ちても、長生きは望めなかった。
餌の確保もままならず、それでいて目標に向かって邁進することしかできないムー太は、どう考えても早死にする運命だったのだ。それでも生まれ変わるたびに記憶はリセットされて、臆することなく突き進むことを強いられた。
何度も同じ失敗を繰り返せば、それは本能に危険なこととして記憶される。それだけが唯一の進歩であり、小さすぎる成長だった。
自らの不遇を嘆くこともできないまま、短い一生をムー太は懸命に生きた。いついかなる時点においても、頭にビビッとくる何かを希望に据えて、一心不乱に駆けて来た。苦しいことはあっても、辛いと感じることはほとんどなかった。
けれど、それらすべてを思い出した今だからこそ、辛い日々だったのだと理解できる。目を覆い、逃げ出したくなるほどに辛かったとわかるのだ。
次から次へと記憶の波が流れ込んでくる。それはまるで洪水のように激しい濁流となって、ムー太の頭の中を洗い流していく。
「むきゅううう」
情報の多さにムー太は混乱した。
余りにも過酷な運命にムー太は混乱した。
ボンボンで頭をぽふぽふと叩き、混乱の元となった記憶を追い出そうと試みる。けれども、それは徒労に終わり、目を開いていても瞑っていても、頭の中の映像が高速で切り替わることに変わりはない。
「大丈夫……ですか? 記憶の補完までしばらく掛かるけれど、我慢して下さいね。長く苦しい旅はもう終わったのです。だから怖がらないで」
エリカは床にぺたんと座り、苦しむムー太の頭を優しく撫でる。
幾千幾万という記憶の波が通過する。それらはムー太が獲得した経験値として、しっかりと記憶されていく。永遠とも思える日々が圧縮されて、短時間で詰め込まれていくのである。
そんな途方もない記憶の最後、幾万回目になる終点の間際。今までにない、それでいて比較にならないほど大きな衝撃がムー太を叩いた。
その思い出だけは特別だった。前世の記憶の中でも別格だった。
スローモーションのようにゆっくりと脳裏に刻まれていくのがわかる。
それは辛い記憶の中にあって、例外的な優しい記憶だった。
心が温かくなるのを実感できる。
「むきゅう? むきゅううう?」
生まれてすぐに訪れた命の危機を救ってくれた人がいた。
餌を満足に取れないムー太に、食べ物を分けてくれる人がいた。
非力なムー太の代わりに、外敵を排除してくれる人がいた。
ムー太が困っていると、その人は必ず手を差し伸べて助けてくれた。
そしてその人は、ムー太をとても可愛がり愛してくれた。
万を超える試行の中で、最もムー太が長生きできたのは、その人と一緒に旅をした時だった。その思い出を取り戻したムー太は、胸が苦しくなってうわごとのように鳴き続ける。
「むむきゅ? むむきゅ?」
彼女はとても強かった。
ムー太の
もしも彼女と出会わなかったら、すぐに命を落としていたことだろう。だから前世のムー太は、感謝の気持ちでいっぱいだった。そしてその気持ちは、今でも変わることなく感じている。
後ろを歩く彼女がちゃんと付いてきているか不安になり、ムー太はよく振り向いた。そしてその姿を認めるたびに、嬉しそうに鳴いた。すると彼女もにっこりと微笑み返してくれた。
そんな彼女のことがムー太は大好きだった。
そして、今この瞬間も大好きなままだった。
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