第17話:モフモフと早朝の一幕
ムー太は夢を見ていた。
視界に映る全てのモノには色がない。ボンボンを伸ばせば届くほどの近さに、号泣する七海の顔があった。
ムー太は慌てて、涙を掬い取ろうとしたけれど、体がまったく動かなかった。ここまでは前回の夢と同じなのだが、決定的に違うことが一つだけあった。それは、夢の中のムー太までもが、体を動かせずに苦しんでいるという事だ。
その無念な気持ちが伝わってきて、悲しくなってしまう。
痛みは一切感じない。それなのに体は不思議と動かなくて、ボンボンを動かすこともできなかった。
空を舞う両翼の動きが、太陽光を阻み地面に投影される。その上下の動きに合わせて、上空から突風が吹き、全身の毛が揺れる。耳に届くのは暴風の音だけれど、その風を感じ取ることができない。
視界の端には切り立つ岸壁が見える。ごつごつした岩肌が露出していて、周囲には草木の一本も見当たらなかった。
嗚咽を飲み込み、ボロボロと涙を流しながら七海が言う。
「ごめんね、ごめん。私の不注意だった……気をつけていれば防げたんだ」
何で謝るの? と夢の中のムー太は思った。けれど、疑問の鳴き声を上げることすら許されない。意識はだんだんと混濁していき、どこか遠くへ旅立とうとしている。
瞼が重い。だから閉じよう。
ボコボコと何かが煮立つ音だけが耳に届く。体の感覚はない。
「絶対に仇は取るから。だから、だから……ゆっくりと……」
言葉尻は涙に沈み、浮上してくることはなかった。鼻水を啜り上げ、七海がムー太をぎゅっと強く抱きしめた。
体の感覚がないので、その喜びを感じることもできない。
夢の中のムー太は、七海のことが大好きだった。
意識が途切れる寸前、大気を燃やし尽くす紅蓮の炎が降り注ぎ、二人を洗い流すように通り過ぎていった。
◇◇◇◇◇
宿屋の一室、早朝ということもあってまだ薄暗い。日の出と供にカーテンの隙間から朝日が差し込み、一筋の光が埃を反射しながら部屋の中央へと伸びている。
瞼に生じた微妙な変化。意識が現実へ浮上していくのを感じながら、七海は寝返りを打った。
「あと五分だけ……」
身を預ける寝台よりもフカフカな抱き枕へ顔を埋め、両手でしっかりと引き寄せてから、その感触を堪能する。シルクのような上質な肌触りと、抵抗なく変形する柔らかな触感。しかも、暖機能まで付いており、埋めた顔と胸元が温かい。
世界一の抱き心地。
まどろんだ夢心地の中、モフモフを堪能できるだなんて天国に違いない。そんな事をぼんやり考えていると、分散していた意識が一つにまとまり始め、そしてとうとう七海は起床した。
むくっと体を起こし、
隣で寝息を立てるムー太に視線を向ける。
心なしか表情が硬く、眉間の黒線が歪んでいる。
無意識のうちに強く抱きしめすぎたのかもしれない。申し訳なく思い、今度は優しくすることを心がけて、寝息で上下する頭を撫でる。
「むきゅう……」
しばらくすると、悲しげなトーンの鳴き声を上げて、ムー太が目を覚ました。
「おはよう」
目と目が合い、愛おしさが込み上げてきて、自然と柔和な表情となる。しかし、七海の姿を認めた途端、ムー太は慌てふためきボンボンを一心不乱に動かし始めた。
その行動の意味するところを、今の七海は知っていたので、胸がきゅっと締付けられて苦しくなる。
昨晩、ムー太は回復魔法の使いすぎで疲弊し、意識を失ってしまった。その姿は、空気の抜けたボールのように萎んでおり、何も知らなかった七海は大いに慌てることとなった。
サチョを家まで送り届ける道中、彼女は何があったのかを嬉しそうに語ってくれた。嬉々として話す少女の姿からは、人間と魔物の垣根を越えた信頼感のようなものを感じ取れた。
そして、そのとき得た情報の断片を合わせて考えることで、七海は一つの結論に辿り着いた。ムー太が使っていたのは回復魔法で、それを必死に使う理由。それは、一つしかない。
「私は五体満足、怪我一つなくピンピンしてるよ」
七海はベッドから降り立つと、くるりと一回転。見事なまでに磨かれたフローリングの上を、踊るように滑って見せて元気なことをアピールする。
ムー太が回復魔法を使ったのは、七海が怪我を負ったと判断したからに違いない。しかし、見ての通り七海に怪我はなくピンピンしている。
にも関わらず、なぜ勘違いしてしまったのか。それは、ムー太の視点に立って考えてみれば、自ずと答えが見えてくる。
夜闇の中、出会った少女は足を怪我して泣いていた。それを見て、優しいムー太は放って置けずに、回復魔法を使ったのだろう。その後、七海が駆けつけて、感極まって涙を流した。
構図は至ってシンプルだ。ムー太は単純だから、これらの出来事を素直に関連付けたに違いない。つまり、答えは簡単だ。
「人間はね、感情が昂ると涙を流すものなんだよ。辛い時、悲しい時、嬉しい時……理由は様々あって、怪我をしているとは限らないの」
一連の流れからムー太の頭の中では『怪我=泣く=涙』という図式ができた。七海が零した『涙』を見て、ムー太が連想するのは『怪我』だったに違いない。
七海が怪我を負ったと思ったからこそ、あれほど必死に回復魔法を使い続けたのだ。魔力が枯れるまで酷使して、気を失うほどに心配だった。その気持ちが伝わってきて、それがすごく嬉しくて、目頭が熱くなってくる。
このまま涙を零せば、またもや回復魔法を使い出しかねない。目元を軽く拭い、平静を装いながら微笑みかける。
いまいちピンと来ていないのか、ムー太は体を傾けている。今にも疑問系で鳴きだしそうな格好だ。
寝台に体を沈めながら佇むムー太を持ち上げて、顔の前へと持っていく。そのつぶらな瞳を覗き込み、顔を近づけて額をコチンとぶつける。
「私が泣いていたのは、怪我をしたからじゃないんだよ。だから、もう無理をしないで。ムー太が倒れたら、それこそ私も倒れちゃうんだから」
「むきゅう」
ようやく安心したのか、ムー太はコクリと頷く。叱られたと思ったのだろうか、
再度額を近づけて、今度はチュッとキスをする。
「むきゅう」
それが親愛を示す行為だということを理解しているのだろう。ムー太は笑顔になって、元気を取り戻した。しばらくじゃれ合った後、ムー太を床に置いてから、
「着替えるからちょっとだけ待っててね」
そう言うと、ぞんざいに上着を脱ぎ捨てて着替えを開始。下着姿となり、リュックサックから着替えを取り出していく。その間にも横目でムー太の監視を怠らない。同じ轍はもう踏めないのだ。
すると、横目に収めたムー太の体が、だんだんと斜めに傾いていくのが見えた。ピカピカに磨かれた床の上、モフモフの毛並みは摩擦が生じにくく滑りやすい。だから、真っ直ぐ立っていられないのだ。
イメージはスケートリンクの上。
本人は必死に体勢を立て直そうと、悪戦苦闘している。それが何だか可笑しくて、込み上げてくる笑いを七海は必死に我慢した。
そこで何を思いついたのか、丸い体を縮めることでさらに丸めて、スプリングの要領でジャンプした。が、すべすべの床に対して踏ん張りが利かなかったのか、真っ直ぐ飛べずに斜めへ跳ねた。
床の上を滑っていき、近くにあったソファーに激突。盛大にずっこけた状態で目を回す。ボンボンをソファーに密着させて支えとし、苦労の末に何とか立ち上がったムー太の表情は晴れない。
ムラムラと抱きしめたい衝動に駆られる七海だったが、そこをぐっと堪えて着替えに集中する。と、禁欲を誓った矢先、
「むきゅう!」
ムー太が勇ましく鳴いて、今度はその場でもじもじと足踏みを始めた。どうやら、床に面した筋肉を動かして、這い回るように動こうとしているようだ。が、健闘も虚しく少しずつしか前進できていない。
思い描いたように進めなかったからか、ムー太は不満げに鳴いた。
柔らかな白毛をモコモコさせながら、悩ましげに足踏みする毛玉。モフモフメーターが振り切れて、七海の我慢が限界を超えた。
「くうう! 何て意地らしい動き。何て悩ましいモフモフっぷり。我慢できるわけなーいっ!」
堪らないといった仕草で身震いした後、そんな絶叫を上げながら、七海が床を滑るようにして頭からダイブ。ムー太を後ろからキャッチして、そのまま一緒に床を滑る。
不意を突かれた形のムー太は、驚きで目を見開いた。けれど、滑るのが楽しかったのか、キャッキャと歓声を上げて笑顔となった。頬っぺたが擦り切れるほど頬ずりし、ムー太を抱えて立ち上がり、今度はソファーの上へと置いた。
これ以上、あんな姿を見せつけられたら堪らない。それが本音だった。
「むきゅう」
七海が着替えに戻ろうとしたところ、後ろから呼び止められた。振り向けば、頭をぽふぽふと叩き、わたわたと落ち着かない様子。そこで七海は気がついて、寝台横のテーブルから三日月を象った髪飾りを持ってきて、ムー太の頭に挿してやる。
すると、ムー太は安心したのか大人しくなった。
「ごめんごめん、寝返りで踏みつけたら怪我しそうだったから、寝る前に外しておいたんだ。これでいいんだよね?」
「むきゅう!」
ボンボンを使って髪飾りの向きを整えるムー太。その嬉しそうな顔を横目に見れば、イゼラに負けた気分になってしまい軽い嫉妬を覚える。
己の未熟さに思わず苦笑。
手早く着替えを済ませ、最後に愛刀を手に取り脇へ差す。普段の冒険者風の格好を整えると、ムー太をその胸に部屋を出る。
春先とはいえ、早朝はまだまだ冷え込みが厳しい。一歩部屋から出れば、冷たい空気が衣服の中に侵入してくる。マフラーを少しキツメに締め直し、ひんやりとした廊下を進んでいく。
階段を下りた先のロビーに人の姿は少なく、従業員メイドを除いては、ソファーに腰掛ける中年の冒険者が一人だけだ。暖炉の火があるので、廊下のように寒くはない。
「おはようございます。お客様」
丁寧に一礼するメイド従業員に一礼を返し、二言三言会話を交わす。アヴァンがまだ到着していないことを確認し、新しい伝言をメイドに伝え出口へと向かう。
扉を押して外へ出れば、より一層冷たい外気が肌を打つ。それと同時、強い朝日が横合いから目に飛び込んできて、眩しさに七海は目を細めた。
「あ、むーちゃん!」
目の焦点が結ばれる前に、弾むような幼い声が耳に届く。次いで、駆け寄ってくる足音。淡いピンクの髪を靡かせて、背の低い少女が駆けてくる。
手の平で
「おはよう、サチョ」
「おはよう! ナナちゃん」
「むきゅう」
二人が当たり前のように挨拶を交わすと、ムー太も慌てて鳴いた。すると、サチョは笑顔になって、雪でかまくらを作るようにぺたぺたと、ムー太を撫でる。
「むーちゃん、昨日はありがとう!」
もう一度、お礼を言いたい。昨夜、サチョはそう言った。その言葉通り、彼女は満面の笑みで感謝を伝えた。
ムー太に心を開いてくれる人間は貴重だった。七海としても出来るだけ応えてあげたかったので、朝飯がてら待ち合わせをしていたのだ。
けれど、待ち合わせ時間にはまだ少しある。サチョはずっと待っていたのだろうか。気懸かりなのは、
「ねえ、サチョ。体が震えているけど、大丈夫?」
「うん、大丈夫ー」と元気よく返事が返ってきたが、つぎはぎだらけの服は風通しも良さそうだ。何よりも、小さな体が小刻みに震えていて大丈夫そうには見えない。
「宿屋の中で待っててもよかったんだよ? 寒かったでしょう」
「んーん、サチョが入ったら迷惑になるから」
あっけらかんとした調子でサチョは言った。その意味を瞬時に理解し、七海は唇を噛んだ。
移ろいの宿は高級に位置する宿屋である。ボロをまとったサチョが入れば、早々に追い出されるのも不思議ではない。それに思い至らなかった自分の迂闊さが許せなくて、力任せに奥歯を噛んだ。
何より、その差別とも言える大人の事情を、幼いサチョが当たり前のように認識していることが、すごく悲しくてやるせない。
奥歯の接合に巻き込まれた唇が切れ、血の味が口の中に広がる。それを悟られないよう笑顔を作り、
「ごめんね、サチョ。温かい朝ごはんをご馳走するから、一緒に行こう」
「えー? いいのー? やったー!」
屈託なく笑い無邪気に喜ぶ。素直なところはムー太にそっくりで、どこか通じる部分がある。だからこそ、仲良くなれたのかもしれない。
サチョの手を引いて出発しようとした時、起床の時間を告げる朝鐘が轟いた。低音で厳かな鐘の音が、遠方より空気を震わせ伝わる。鼓膜を通して体の芯まで震えるような、力強い響きを含んでいた。
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