第15話:モフモフの冒険
後ろ手にドアが閉められて、部屋に静寂が訪れる。
ムー太は難しい顔で、何度か瞬きをしながら室内を見回す。貰ったクッキーを食べることも忘れて真剣な眼差しだ。
結界の境界線がわずかに歪んでいて、ムー太でも視認が可能だった。その範囲は、部屋を囲むようにぐるりと一周している。それを見ていると、何だか落ち着かない気分になり、どんどん不安になっていく。
思い出されるのは、先日見た悪夢のことだ。
貴族の屋敷と思われる大部屋に、結界を張られて閉じ込められる。そんな内容だったのを、はっきりと覚えている。
夢が現実になってしまったのだろうか。と考えて、すぐに頭を振る。七海が裏切るとは思えない。
「むきゅう……」
けれど、一度でも気になってしまえば、確かめたくなる
この落ち着かない気分を鎮めるには、自分の目で確かめてみるのが手っ取り早い。ムー太はそのように判断して、ベッドの上をぴょこぴょこと移動する。目指すは、少し高い位置にある窓枠だ。
寝台から机の上に飛び移り、もう一段高い窓枠に向けて跳躍する。と、若干の危うさを残しつつ無事到着。少しばかり鼻をぶつけてしまったけれど、痛みはないのでボンボンで撫でておく。
上方が丸まった窓で、両開きのタイプだ。夢で見たものより小さいけれど、両開きという点は共通している。
目を皿のようにして観察すれば、窓には鍵が掛かっていることがわかる。少し苦労したけれど、ボンボンを使って鍵を開けることに成功した。
「むきゅう」
夢の中と同様、ムー太はボンボンを叩き合わせて気合を入れる。そして次の瞬間、窓に向けて体当たりを敢行した。が、呆気ないほどあっさり窓が開き、勢いそのままに丸い体が外へと投げ出された。
驚いたムー太はとっさにボンボンを伸ばし、窓枠に引っ掛けた。果実を持ち上げた時と同じ微弱の引力を発生させて、窓枠とボンボンをぴたっとくっ付ける。そしてどうにか、
ほっと一息。ボンボンで汗を拭うような仕草を作る。
やはり杞憂だったのだ。七海が自分を閉じ込めたりするはずがない。少しでも疑ってしまった罪悪感で、ムー太はしょんぼりする。
ボンボンを使って頭をぽふぽふと叩き、反省。部屋の中に入り、クッキーを食べようと思う。が、
「むきゅう!?」
入れない。
目の前に見えない壁が存在していて、ムー太が入室するのを拒んでいる。
七海はたしかに結界を張っていた。そしてそれは、ムー太を閉じ込めるためのものではなく、守るためのものであったはずだ。つまり、外部の者の侵入を許さない。
「むきゅううう」
ムー太は半べそをかきながら、部屋に入ろうと見えない壁に体を押し付ける。ほっぺをぐりぐりしてみたけれど、前に進んでいる手応えはない。
何度試しても入れないことに業を煮やし、とうとうムー太は強行策に打って出た。庇のぎりぎりまで距離をとってから、助走をつけて体当たりを実行。しかし、その行動を敵意ある所作と判断したのか、結界が少しだけ反発を見せた。
自らが放った体当たりの反作用と、結界の反発を受けて、倍の力で跳ね飛ばされる。空に投げ出されたムー太は、綺麗な放物線を描きながら庇エリアを通過。そのまま地面に落下していく。
「むきゅうううううううう」
地面に激突。
柔らかい体が衝撃を吸収し、ぽよんと大きく跳ね返った。
何度もバウンドした後、地面に転がり目を回してしまうムー太。特に痛みはなく、体に負ったダメージはないようだ。起き上がり、斜めにずれた三日月型の髪飾りを整える。
落下した先は、ルカス大通りから一本奥へと入った路地裏だった。宿屋の二階を見上げ、追い出されてしまった自室の窓を眺める。悲しい気分になってしまい、肩を落とす。
「むきゅう……」
部屋に戻るには、宿屋の建物を迂回してルカス大通りへ戻り、正面玄関から中へ入るしかない。けれど、ムー太は現在地を正確に把握していないし、途中までまどろんでいたので、宿屋への入り方を知らない。
それらの困難を掻い潜り、部屋に戻れたとしても、結局、結界が立ち塞がるのだから絶望的だ。最善の選択は、七海が戻るまで庇の上で待機することだったが、今となってはもう遅い。
と、タイミング悪く、人間の足音と話し声が耳に届く。
ムー太は慌てて、積み上げられた木箱の影に身を潜めた。人間たちが通り過ぎるのを、息を潜めてひたすら待つ。
七海と一緒のときは、何を心配することなく街の中を進んでいけた。しかし、その保護から離れてみると、途端に心細く不安になってしまう。路地に伸びる道の先、漆黒の闇が大口を開けて、待ち構えているような錯覚を受ける。
闇の街に住まう者たちは、決して味方ではありえない。孤立無援の状況で、懸念だけが募っていく。
そんな心情を知らず、能天気な男たちの声が近づいてくる。
「それでさー、その占い師の予言がけっこー当たるらしいんだよ」
「ほとんどの占い師は偽者らしいぜ。未来予知ができるなら、こんな田舎で占いなんてしないだろ」
宿屋から漏れる薄い明かりだけが頼りの中、二人の男が木箱の前を通り過ぎる。
「まー、そう言われればなー。……ん?」
その内の一人が立ち止まり、首をひねる。
「どうした?」
「いや、何かが動いたような気がして」
男たちは首を巡らせ、辺りを見回す。ムー太の胸の鼓動が早まり、冷や汗が吹き出てくる。が、今は毛並みが湿るのを、気にしている場合ではない。
「何にもないじゃねーか。飲みすぎで幻覚でも見たか?」
「いやー、気のせいだったか。すまんすまん、ハッハハ」
千鳥足でふらつきながら、男は再び歩き出す。二つのシルエットが遠ざかって行くのを確認して、ようやくムー太は一息つけた。
ボンボンで額を拭い、おそるおそる木箱の影から通路へ戻る。
この時点での最善策は、じっと木箱の影に隠れたまま動かず、七海が探しに来てくれるのを待つことだ。けれど、元来じっとしていることが苦手なムー太に、それを望めるはずもなく。
「むきゅう」
ボンボンを叩き合わせて気合を入れると、宿屋の角に向かってぴょんぴょんと歩き出す。深い考えなどは特に、ない。
十字路に差し掛かると、今度はルカス大通りの反対方向から、女のすすり泣く声が聴こえてきた。悲しげな響きで、時折鼻をすする音も混じっている。
時刻は深夜。暗闇の中から聞こえる女のすすり泣き。肝っ玉が小さい人間ならば、幽霊だと震え上がってしまうところだろう。けれど、ムー太はその悲しみの音に興味を引かれた。今の自分と同じ心境かもしれないと思ったからだ。
一度でも気になってしまえば、確かめたくなる
先刻の恐怖はどこへやら、泣き声に吸い込まれるように歩き出す。その原動力となるのは貪欲な好奇心だった。一度興味を引かれれば、確かめたくなるのだから仕方がない。
民家から漏れる明かりだけが頼りとなる中、大逆走は続く。大通りに比べて荒い石畳の上、跳ね飛び回るのは少し大変だ。
泣き声の音量が次第に大きくなる。
ルカス大通りから離れるにつれて、寂れた雰囲気へ変わっていき、だんだんと明かりを灯す民家も減っていく。巧妙に曲がりくねった路地を聴力を頼りに進み、周囲が本物の闇に染まり始めた頃、唐突にすすり泣きの聴こえる方角が変わった。
正面から右へ。
ムー太は右を振り返る。人一人分がぎりぎり通れるぐらい狭い通路が奥へと伸びている。本来ならば闇に同化しているはずの一本道は、しかし今、ランプの灯りに照らされてその全貌を見渡すことができた。
地面は舗装されておらず、土が剥き出しとなっている。大きな石も混じっている土の上、転がるように倒されたランプが灯りの発生源だ。
少し距離を置いて、ランプの明かりで照らされているのは、まだ幼い少女だった。可愛らしく整った顔立ちだが、全体的に幼さが残っている。歳の頃は十に満たないぐらいだろうか。
両手で目元を覆うようにして、泣いている様子が
少女の目から零れ落ちる『涙』というものをムー太は知らない。けれど、彼女が悲しくて泣いているのだということは理解できる。だからって、何をしてやれる訳ではないのだけれど、放っておくことはできなかった。
ムー太は単純だから、人間が怖いことも忘れて、
「むきゅう」
少女に歩み寄り、『どうしたの?』と語りかけるように一声だけ鳴いた。
ムー太に気づいた少女は「ひっ」と短く悲鳴を上げ、手とお尻の力だけで座ったまま後退り。自分が警戒されていることを感じ取り、少しだけ悲しい。
彼女からすれば、街中でとつぜん魔物が現れたのだから驚くのは当然だ。ムー太が非力で平和主義だと知らないのだから、自分より小さな魔物であっても危険な存在にしか映らないだろう。
その証拠に、恐怖からか泣くことも忘れて両肩を震わせている。これでは励ますどころか逆効果である。
自分が怖がられるなんて人生で初の体験だ。どうしたら良いのかわからず、おろおろしてしまう。
敵意はないんだよ、とボンボンをふりふり。あたふたとその場で謎の踊りを始めたムー太を見て、少女の警戒が少しだけ緩む。その愛くるしい風貌と相俟って、敵意がないことが伝わったのだろう。
それを素早く感じ取り、再び接近しようと一歩を踏み出す。けれど、後退りこそしなかったものの、まだ警戒の色が消えたわけではなかった。彼女の肩がびくっと反応したのを見て、接近を断念。
今一度、立ち止まって考える。
難しいことを考えるのは苦手だけれど、それでも考える。
少女の警戒を解くにはどうすればいいのか。敵意がないことを知らせるにはどうすればいいのか。もっと根本的に、仲良くなるにはどうすればいいのか。
そして、ムー太は閃いた。
触角に引っかかっていた布袋を取り出して、器用に結び目を開くと、その中へボンボンを突っ込む。取り出したのは、ムー太の大好きな甘いクッキー。部屋で大人しくお留守番する代わりに、七海が与えてくれた宝物だ。
それを惜しげもなく差し出して、
「むきゅう」
と、嬉しそうに鳴いた。
少女は「え?」と呟き、戸惑い、しばしの逡巡。サクラ色の横髪を傾けて、彼女は小さな声で訊いた。
「くれるの?」
「むきゅう!」
ムー太は知っていた。人間には、『友達』になった者へクッキーを送る習慣があることを。そして『友達』とは、仲良くしたい者と交わす契約だということを。
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