第5話:モフモフと濃霧

 木々の隙間から朝日が差し込み、辺りは深碧しんぺきに染まる。


 力強く伸びた木々がまとう葉が、木に巻きつくように張り巡らされた蔦の葉が、風に吹かれて揺れる草たちが、それぞれ異なる緑が宝石のように輝いている。霧さえ出ていなければ、もっと力強い輝きを放っていたことだろう。


 大自然が生み出す神秘的な光景やド迫力の景観は、人が冒険に駆り出される動機の一つでもある。


 好奇心旺盛なムー太もまた、大森林が生み出す美しい景色に魅せられていた。澄み切った空気を吸い込んで、目を輝かせながら楽しんでいる最中だ。七海の腕から落っこちそうになるぐらい身を乗り出して、興味深そうに眺めているのである。


 聞いた話によれば、この先には冒険者のキャンプ場があるらしい。彼女たちは現在、荷物をまとめた上で、三人の冒険者と共にキャンプ場へ向かっている途中だった。


 ムー太が目指す方角へ進むには、キャンプ場周辺を通る必要があり、そうなれば他の冒険者と遭遇するのは避けられない。再び戦闘になるのを避けるため、アヴァンが交渉するという条件付で同行しているのである。


 ムー太は素直に喜んだけれど、七海は簡単に信用しなかった。とはいえ、避けては通れない道なので、戦闘を回避できるのならばありがたい。そんな事情から、最終的に提案を受け入れる形となった。


 前を歩く二人から視線を外さないまま、七海は横を歩くアヴァンに問いかける。


「三人の中じゃ、君が一番強いよね。戦おうとは思わなかったの?」


「俺は年下の女の子に乱暴する気はない。とはいえ、あのままトドメを躊躇ためらわなければ、止めに入っていたと思う」


 七海は曖昧に笑い、肩をすくめて見せた。


 道なき道を歩くうち、七海が背負うリュックサックはだんだんと腰の辺りまで落ちてくる。


 ずれてしまったリュックサックの位置を、肩を揺らすことで整えるのだが、その時の振動で、ムー太はぶるっと震えて何だか楽しい。それを七海に伝えたくて、ボンボンを拍手するように叩いてみせる。


 その想いが通じたのか、七海はにんまり笑うと、何度もリュックサックを上下に揺らしてくれた。あまりに激しいものだから、ムー太は小さな子供のように歓声を上げて喜んだ。


「やはり、ナナミにはそのリュックサックは大きすぎないか? 遠慮するな、俺が持ってやるよ」


 アヴァンが手を伸ばそうとする中、七海は静かに首を振る。


「ううん、大丈夫。それより、何で私に気を配るの? 君の仲間をぶん殴った女だよ」


「剣を向けた以上、命を落としても文句は言えない。そこを見逃してもらったんだから、借りがあると言えるだろ?」


「……何それ、へんなの。借りがあるから、交渉してくれるの?」


「それもあるが、単純に死人を出したくないだけだ。もちろん、ナナミが死ぬのもナシだ」


「私はさっき殺されかけたけどなー」


「いや、あの二人は口こそ悪いが、本当に手を出したりは……」


 音量が尻すぼみになっているあたり、少し自信がないらしい。七海は苦笑すると、ぐいっと身を乗り出してアヴァンの顔を直視した。吐息が届くほどの近さで、下から見上げる形となる。


「ま、一回だけ信用してあげる。だから、次はしっかりと間に入って守ってよね」


 アヴァンは仰け反りながら一歩下がり、気まずそうに視線を泳がせた。少し赤くなった顔を手で隠し、取り繕うように言った。


「わ、わかってる。それより、近すぎるぞ。年頃の女の子が、唇を許すような位置に近づくもんじゃない」


 七海は小悪魔的な笑みを浮かべ、一歩前へ出る。アヴァンはもう一歩下がる。


「へー、女遊びしてそうな顔してるのに、結構まじめなんだね」


「し、失礼なやつだな! 男を舐めてると、そのうち痛い目みるぞ。俺だって例外じゃない」


 言葉とは裏腹に、アヴァンの視線は七海の頭上――何もない空間を凝視していて、ハッタリであることが見え見えである。そんな心情を透かしてみたのか、七海は朗らかに笑った。


「アハハ、私の唇を奪えるなら、奪ってくれて構わないよ。私のガードを破って奪えた男は一人もいないけどね……試してみる?」


 アヴァンはごくりと喉を鳴らし、視線は湿った唇へ吸い込まれた。けれど、すぐに首を振って、


「いや、やめておく。命がいくつあっても足りなさそうだ」


「アハハ、懸命な判断ね」


 と、楽しそうに七海が笑う。


 二人が仲良く会話しているのを見て、仲間はずれにされた気分になってしまい、ムー太は寂しくなった。構ってもらいたくて、ぽふぽふと頬を叩いてみる。


「むきゅう」


「どうしたの、ムー太?」


 七海は小首を傾げ、悲しげなムー太の顔を見下ろす。そこで何かに気づき、ムー太を顔の高さまで掲げると、そのまま額にチュッとキスをした。いつもと違うスキンシップに、ムー太は戸惑ったけれど、悪い気はしなかった。


「むきゅう?」


「あれ、違ったかな? でも――もう一回!」


 そう言うと、今度は頭の上に顔を押し付けてきた。モフモフの毛並みを押しのけて、七海の鼻先が純白の体毛に埋まる。そこで彼女は、深呼吸するように鼻から息を吸い込んだ。肌がスッとする感覚がこそばゆくて、ムー太は身をよじる。


「モフモフしてて気持ちよくて、それに良い匂い!」


「むきゅうううう」


 尚も、ぐりぐりと顔を押し付けられて、ムー太はくすぐったい。のがれようと暴れてみるも、やはり、七海は決して離してくれない。


「後でクッキーあげるから、もう少しこのままで、ね?」


「むきゅう」


 クッキーという単語を聞いた途端、ムー太は大人しくなった。サクサクしてて甘くて口の中に入るとしっとり湿る、あの味を忘れていなかったからだ。


 二人のやり取りを見て、アヴァンは少し羨ましそうな顔となる。


「仲がいいんだな。まるで本当に会話してるみたいだ」


「何、知らなかったの? ムー太は人間の言葉を理解してるよ」


「むきゅう!」


「そんな馬鹿なと言いたいところだが――」


 一人と一匹を交互に見比べて、アヴァンは「うーん」と唸った。


 彼が信じられないのも当然だろう。一般的に、魔力の素から生まれる者を総称して魔物と呼び、それが進化して人型となった者を魔族と呼ぶ。


 魔物は家畜と同等の知能だと考えられており、人語を理解できないというのが通説だ。その勘違いは、魔物とのコミュニケーションを人間が拒否し続けたため、生まれたのであった。


「おっと、足を止めてる場合じゃないな。ロッカたちと、はぐれてしまいそうだ」


 前を歩く二人の冒険者とは、随分と距離が離れてしまった。いくらか明るくなったとはいえ、霧が視界を塞いでいてぼんやりとしか見えない。


 慌てて二人は足早に歩き出す。


 見失わないように前方を注視しながら七海が訊いた。


「ねえ、ムー太のことで知ってることを教えてよ。報奨金とかの話じゃなくて、この子に関する知識をさ」


「俺も詳しいことは知らないぞ。なんせ、マフマフの捕獲例はほとんどないんだ」


「でも、赤髪のやつは、ムー太を閉じ込めたらストレスで死ぬって言った!」


 突然の大声にアヴァンは小さく驚いて、むっとした表情の七海を横目に見た。すぐに得心したように頷く。


「ああ、その事か。昔、貴族の令嬢が大枚叩いてマフマフを買ったんだが、逃げ出そうとするから部屋に閉じ込めたらしい。そうしたら、日に日に衰弱していって、数年で死んでしまったんだ。柔らかい毛並みが、最後にはごわごわに硬くなっていたことから、ストレスだなんて噂された」


 気まずい沈黙が降りた。ガサガサと草を踏み倒す音だけが周囲に響く。


 七海は俯き、ぽつりと一言だけ。


「……ひどい」


 重くなってしまった空気に耐えられなかったのか、アヴァンは大袈裟に「ああ、それと」と前置きをしてから、こう言った。


「これも噂の域を出ないが、マフマフは進化の魔石を探してるってのが俗説だ」


 いくらか関心を示したようで、七海は顔を上げるとオウム返しに訊いた。


「進化の魔石?」


「ああ、そうだ。一説には、手に入れれば強力な力を得るとか、究極の魔法を習得するとか、魔族に進化できるとも言われている」


「ムー太が何か大切なものを探しているのは知ってるんだ。その話、ただの作り話じゃないかも」


「ナナミ、一つだけ忠告しておきたいんだが、いいか?」


 木の枝から垂れ下がった蔦を払いのけながら、七海は少しだけ緊張した面持ちで応じた。


「……何?」


「マフマフが超希少種に分類されるのは、単純な話、生まれてすぐ死んでしまうからなんだ」


「そうだね、ムー太は好奇心旺盛な上、目標に向かって一直線。どんな危険も省みない性格なのは知ってるよ」


「だから、もし、マフマフを生涯に渡って面倒見る覚悟がないなら……売るのも一つの手だぞ。少なくとも、王宮なら数年は生きられるんだからな」


「……なるほどね。でも、考えてみてよ、アヴァン。冒険に出て短い人生を送るのか、村や街に篭って長い人生を過ごすのか、どっちがいいってね」


「それは……」


「ムー太の生き方は冒険者に近いと思う。自由に生きて、心の赴くままに旅をするの。それがどれだけ素敵なことか、アヴァンならわかるでしょう?」


 まるで自分の夢を語るように生き生きと話し、七海は微笑んで見せる。それをアヴァンは盗み見て、少しだけ赤面するとすぐに視線を外した。


「ああ、確かに……な」


 ぶっきらぼうに答えて、そっぽを向いたアヴァンは気づかない。七海の顔から一転して笑みが消え、口が引き結ばれたことに。


 そして、次に紡がれた言葉は、決意に満ちたものだった。


「時が許す限り、私はそれを助けたいと思ってる。だって――」


 と、その時、ふいに濃霧が周囲の木々を飲み込み始めた。急速に視界が悪化し、見通しが利かなくなる。ようやく追いつきつつある冒険者二人の背中も、濃霧に飲まれて消えてしまった。


 大人しくしていたムー太も、これには驚いた。何せ、自分を抱く七海の姿までもが見えなくなったからだ。


「むきゅう……」


「大丈夫、私はここにいるよ」


 頭上から七海の声が降ってくる。それは、ムー太を安心させるために掛けられた、七海の優しさである。


 けれど、ムー太は強烈な違和感を覚えた。


 現在、自分は七海に抱かれている。密着している彼女の体温が伝わってくることから考えて、それは間違いない。


 それなのにどうしてだろう、七海の声がすごく遠くに感じたのだ。


 まるで木の天辺まで登り、そこから発した声のように遠かった。ムー太は何が起こっているのか非常に気になったけれど、彼女とはぐれては困るので、じっと身を縮めて耐えることにした。


 真っ白な霧の中から、アヴァンの声だけが届く。

 これもまた、遠くから聴こえる。


「ナナミ、迂闊に動くなよ。はぐれたら面倒だ」


「わかってる」


 七海は魔力を高め、いつ何時なんどき襲われても対応できるよう臨戦態勢を取っている。魔力濃度は極めて高く、ムー太からすれば、ただ大きいとしかわからなかった。


「ナナミ、戦う前から魔力を消費していたら、いざという時に息切れするぞ」


「それだと、ムー太を守れない! 不意打ちがムー太に当たったらお終いなんだよ!!」


 七海の叫びが濃霧に飲まれた後、周囲に響いて跳ね返ってくる。その様子から苛立っていることが伝わってきて、ムー太はちょっぴり不安になった。


 永遠とも思える時間をじっと耐えるうち、湿気がふわふわの毛にくっついて次第に体が重くなっていく。


 体が濡れるのを本能的に嫌うムー太が、半べそをかきはじめた頃、ようやく霧が晴れ始めた。とはいえ、それは雲と雲の間に一瞬だけ覗く青空のようなもので、風に乗って次の霧が近づいてくるのが見える。


 今のうちに移動するべきなのだが、七海とアヴァンは動こうとしなかった。


「さっきまで少し前に居たよね……?」


「ああ、どこへ行ったっていうんだ……」


 二人の視界の先、ロッカとミスティの姿が忽然と消えていたのだった。

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