雪獅子と女楽師

鹿紙 路

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 錦秋――

 金糸。紅と深緑の色糸。それらを織り上げ、さらに刺繍を施した、絢爛な織物が、無数の襞をつけて、幾重にも重なり、地に広げられている。

 そこは、一斉に輝く、色づいた山々の続く土地。

 青天のもと、澄んだ水のような、さらさらとした風を裂いて、甲高い音が響く。

 長く、長く。

 単純な旋律を繰り返すその音は、遠くの同胞に呼びかける鳥の声に似ていた。

 ――愛するひとよ。

 ――わたしは、ここにいる。

 ――いでませ。

 それは、尾根から響き渡る、一本の縦笛の音。



 さあ、行くか。

 手早く荷をまとめて驢馬に載せ、女は再び歩き始めた。

 背には布をぐるぐると巻いたものを背負っている。月琴げっきんという、丸い胴の撥弦楽器だ。さきほどまで吹いていた縦笛は、懐のなかにある。とぼとぼとした歩みは、しかし無駄はなく、臆病さもなかった。

 女は、音楽を生業としていた。

 二日前までは小さな宿場町で路地に座り、投げ銭を得ていた。ひとびとが自分に飽いたと感じると、彼女は古馴染みの宿を引き払い、ひとけのない山道へ入っていった。

 ひとりの旅を、もう十数年続けている。

 毎年ながら、この季節は日に日に暮らしが厳しくなる。

 歓びに満ちた収穫の祭りは過ぎ、ひとびとは冬支度で忙しく、楽の音に耳を傾ける余裕がなくなる。年が改まる祝祭の季節までは、まだ遠い。

 油を引いた外套は、着古して黒ずんでいる。白いものの混じった髪は、荒く三つ編みにされて、後れ毛が風が吹くたびはらはらと舞った。

 宿場町で新しく聞き覚えた流行歌を、とぎれとぎれにくちずさみながら、彼女は歩を進めた。尾根伝いに山を越え、乾いた日ざしにきらめく金色の葉に目を細めながら、見通しの悪い森をしばらく歩くと、獣の遠吠えのような声が聞こえてきた。

 長く響く高い声が一回。その後、高低のある短い声の連なりが続く。

 女は歩を緩めず、懐から出した笛の音でその声に応えた。

 ――わたしは楽師のミレイ。今年もあなたの村に愉しみを届けにきた。その声はサズの家の三男タファルか? 

 ――いかにも。

 途中で音程をやや上げ、きゅっと下げて切る声。

 笛をくわえたまま、ミレイと名乗った女は口元に笑みを乗せた。

 ――いい声になったね。

 ――どうも。

 そこで初めて枝葉を揺らすがさがさという音が聞こえ、ずんぐりした青年がすがたを見せた。深みのあるうつくしい声で言う。

「……村へようこそ、ミレイ。皆に知らせてくるよ」

 成人を過ぎて間もないことを示す、青い染料を擦りこまれた頬には、村の祖神(そしん)である雪獅子のたてがみの紋様が浮かび上がっている。

 青年は踵を返すと、小柄なからだを左右に揺らしながら歩き始めた。

「あ、ちょっと待って」

ミレイの、ややかすれた低い声の呼びかけに振り返る。わずかに首をかしげた彼に、ミレイはことばを重ねた。

「エイシャに――まっさきに伝えて」

 タファルは、青い紋様のなかに目をうずめるように笑んで促した。

「……なにを?」

「……とても、会いたかったと」



 ミレイは、小さな畑と静かな湖があるにすぎないこの村を、一年に一度は訪れずにはいられなかった。

 ふっと眠りにつくようにあっけなく日が落ち、村で一番大きなおびとの家に皆が集まる。炉端を中心として、振る舞われるのは醸しはじめのコケモモ酒で、ささやかな酒肴もそこそこに、片面張りの太鼓が打ち鳴らされる。

 大人たちに押し出されるように進み出て、その日最初に唄ったのは、五歳に満たない少女だ。緊張した面持ちでぐっと腹に力を込めると、うなるような低音を重ねた後に、太鼓の調子に合わせ、場を貫くような高音をのどから放つ。


 あおきめのししよ

 そはあまきちしお

 そはよせるのわき

 われらがいさおし

 

 決められた音節に合わせて、ひとりまたひとりと、唄に加わってゆく。和音を重ねる者もいれば、全く違う旋律を驚くべき技巧で重ね、調和させる者もいる。

 数十人の村人たち全員が唄うとき、首の家は音の奔流に包まれる。

 ミレイは耳ばかりでなく全身から伝わってくるその唄を、愛していた。

「ミレイ! ひいて!」

 額の中心と鼻の頭を赤く塗った子どもらがねだり、楽師は自らの職分をはたすべく月琴を構えた。

 星をはじくような華やかな音色は、村の皆がよく知る唄を紡ぐ。

 ミレイにちらりと視線を投げられて頷き、タファルが唄いだしを請け負った。


 愛しきわが獅子

 あなたがわたしに唄をくれるのなら

 わたしはうつし世を二度生きることだってできる


 愛しきわが獅子

 あなたがわたしに花綱をくれるのなら

 わたしは湖を歩いて渡る

 

 毎春の唄垣の折に、最初に唄われるのがこの唄で、つまりはつまを請う唄である。タファルは意中の人間がそのなかにいるのかいないのか、人々の輪を見渡し、時折ミレイの月琴の音に心地良さそうに目を細めながら唄う。

 やがて、彼はその場の一人と目を合わせると、続きを引き取るように目配せした。


 愛しきわが獅子

 あなたはいつも おおつごもりの前に行ってしまう


 耳朶を震わせる、豊かな声。

 その声を聴くときはいつも、ミレイの全身の肌は総毛立って歓喜する。

心が湧き立つのを顔に出さずに、わずかに片眉を上げて、炉の向こうにいる、唄い始めた女性を見た。


 そうやっていつも奏でるばかりで

 甘いことばをもらったことなんてない


「そらひどい!」

「なんてやつだ!」

座の人々はにやにや笑いながら囃したてた。

ミレイは彼女の唄をなぞるように、ゆっくりと同じ旋律を繰り返す。無意識に、口から掛け声が迸る。待ち構えていたタファルに月琴を押し付けた。

この村の唄は、弾き語りには向かないのだ。

ミレイは身を乗り出すようにする。そこには、女楽師と同じ年ごろの女性の頬があり、雪獅子の鋭い足の爪を象った紫の紋様が、炎に照らされてゆらめく。

熱い空気を吸い、宴の狂騒を唄う力に代えて、ミレイは口を開く。


 わたしの一曲は千の睦言

 わたしの月琴はあなたへの愛

 わたしの縦笛はあなたを呼ばう


タファルは不器用に指一本で単純な伴奏をし、それを補うようにほかの村人たちは掛け声や足踏みで盛り上げた。


 愛しきわがつま

 こっちへおいで

 あなたの唇を

 わたしの音楽で潤そう


村人の鳴らす鈴の音の切れ目に、紫の頬のエイシャは、ふっと笑みを見せた。

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雪獅子と女楽師 鹿紙 路 @michishikagami

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