赤目
鹿紙 路
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その国の山中の岩室には怪物が棲んでいた。人々はそれを忌避した。恐ろしく、相容れぬ、関わってはならぬモノと。
そのとき娘は禁域に足を踏み入れていた。苔むし根が盛り上がる旧き森の中を、歩いた。娘は森の反対側の町へ嫁に行く途中だった。付き添いも用心棒も獣に食われて死んでいた。娘は道を失い、あてどなくさまよった。いつしか食べ物も飲み水も体力も尽き、気を失って倒れた。
森を黒い影が走っている。影が止まり、横たわる娘を覗きこむ。影は娘を背負うと、険しい山を駆け登った。
娘が目を覚ますとそこは暗い岩室の中だった。体の下の地面は苔で覆われて柔らかい。水音が聞こえた。水流が近いらしかった。
手探りで水の在り処を探し当てると、娘は夢中でそれを飲んだ。不思議に甘いその水は、飲むたび空腹すらも満たしていった。腹が膨れると眠くなった。
気がつくと視界の遠くに光が見える。朝が来ていた。娘はよろよろと立ち上がった。辺りを見回すと、苔に囲まれた泉のそばに、木の実が山ほど積んであった。その奥に黒々と闇があった。娘は木の実を荷袋に、水を竹筒に詰めると、足早にそこを立ち去った。
娘は何とか嫁ぎ先に辿り着いた。予定通り祝言が行われ、まもなく娘は身籠った。
生まれた赤子は物の見えない赤い片目を持ち、萎えた両足は黒ずんでいた。赤子は昼夜を問わず泣き叫び続けた。人々は赤子を気味悪がった。夫や舅や姑は娘を疎み、嫁入り前のことを疑い始めた。
その日娘は赤子を家に置いて出かけた。夕暮れ戻ってみると、どこにも赤子はいなかった。夫を問い詰めると、見世物一座に売ったという。娘は夜の町に駆け出した。夫の、一座はすでにこの町を発ったという言葉も聞かずに。泣き続ける赤子は殺されるかもしれなかった。娘は町中を探し回り、街道に飛び出した。娘は耳を澄ませた。泣き声が聞こえないかと。どこからも聞こえなかった。フクロウが啼いている。
娘は町には戻らなかった。その国を巡り、吾が子を探し求めた。五年、十年と時が過ぎ娘はもう娘ではなく、茫洋とした双眼の、薄汚れた年増女になっていた。女はとうとう、嫁入り前に通ったその森を再訪した。女はいくつもの谷を渡り、いくつもの尾根を越え、その岩室に辿り着いた。怖ろしさに身が震えた。しかし歩みは確かだった。
「私に子供を孕ませたのはおまえなのか」
女は自分の声に勇気を得ようとでもするかのように、大きく声を張り上げた。
「そうだ。おまえはわたしに背負われ、わたしの水を受けたのだから」
地の底から響くようにいらえがあった。
「私はお前の子なぞ望んではいなかった。だが生まれた子を愛してしまった。両足と片目の使えぬ忌まれた子を。私はその子を求めている。吾が子の居場所を知らないか。それともお前の許にあるのか」
闇がのっそりと起き上がった。女はひっと息を呑み身をすくませた。怪物が一歩前へ出ると、その顔に赤い二つの目が現れた。怪物は三つ目であったはずだが。
「ここにはいない。その子はこの国の王となっている」
「なんと――」言うと同時に女は崩折れ、目を見開いたまま涙を流した。「生きていた……」
「そうだ」
「あ、会い、たい、」女は声を震わせ嗚咽した。「あいたい――」
「私の背に乗るか?以前と同じように」怪物は目を細めた。「ひと跳びで都に着く」
怪物は夜、王宮の庭に降り立った。王は目の前の部屋を寝室にしていた。
扉の前の衛兵は居眠りしていた。女はそっと中に入った。従者はみな床でいびきをかいていた。
部屋の中央、一段高くなったところに、すっと立った人影があった。月光に白々と照らされた顔は、女によく似ていた。片目は赤い。両足は衣に包まれて見えないが、萎えて使えないわけではなかった。
抱き合った母子の間に言葉はなかった。
老いた女は国母として王の許にあった。孫が生まれていた。その中に一人だけ、両目の赤い娘がいた。他は皆赤目を受け継いではいなかった。その一目見るだけで王女とわかる容貌と、足萎えのせいで、娘は王宮の外に出ることもままならなかった。自分では一歩も歩くことが出来ないのだ。
娘は自分を背負って運ぶ役の若者に恋をしていた。本人ですら気づいていなかったが、女にはわかった。こういうときに自分がどうすればよいかもまた。
ある日娘は若者とともに王宮から姿を消した。女には孫の向かった先がわかっていた。街道を使わず、人に会わず、辿り着ける深い森。
岩室へ。
王はなぜ萎えていた足が使えるようになったのか。王は人々の前に現れたときには両足で立っていたのだ。その答えを、怪物は知っている。
王は派兵した。王女を連れ戻すために。何の権限も持たぬ女にできることは一つしかなかった。あの岩室へ、行くのだ。
娘と若者が岩室に着くと、そこに怪物の姿はなかった。若者が行き止まりと思った所を、娘には行き止まりに見えなかった。若者は娘が岩壁に手を潜り込ませるのを見て、自分も手を突っ込んでみるがかなわない。背負われた娘は言った。
「目を閉じて。私が案内するから」
若者は目を閉じて足を一歩踏み出した。すると体は岩壁をくぐり抜けた。
娘は始めて目で物を見た。色を、形を、光を。
そこは海だった。
しかし娘はそれを知らない。光満ち輝く珊瑚を草花と思い、縦横を泳ぎ回る魚を鳥と思った。なぜなら地に生えるのは草花であり、空を飛ぶのは鳥だと今まで聞かされてきたのだから。海藻の中をこちらへやってくるのは――
あれは、人だろうか。
娘は若者の背から下り、泳ぐようにそちらへ歩いた。
「王女――」
身じろぎした若者に王女は叫んだ。
「目を開けてはならぬ」
歩ける。足は白くなり、代わりに手や頭や胴は黒くなってゆく。
娘は黒という色がどんな色か知らない。目の前に立った年のわからない男の二つの目の色が何であるか、娘は知らなかった。
「ここから出て行け」
静かだがよく通る声で男は言った。
「鉄の臭いがする。おまえがよんだのだ」
娘は眉をひそめた。
「まさか兵がもうこちらに来ているのか」
「いいや。国王の軍がこちらへ着くのには後七日はかかるだろう」
「では何が」
「おまえを背負っていた若者だ。王に授けられた剣を持っている」
「え――」
娘が若者の方に振り返る。同時に、
「そうだ。俺は怪物を殺せと命じられて来た」
彼は懐剣を抜き払い、目を閉じたまま男に襲いかかる。
娘はとっさに二人の間に飛び込んだ。
「待て、王の兵は私を連れ戻すためだけでなく、おまえを殺しに来るのか!」
娘の目を見返し、男は答える。
「森で、幼き頃の王はわたしに拾われた。数年の間、わたしとともに在った。しかしあれは……わたしの第三の目を奪い、わたしから力を奪い、萎えていた足を使えるようにした。
王は人になることを欲したのだ。そして自分が人でない原因であるわたしを憎んだ」首をめぐらすと同時に、赤い瞳孔が、鮮やかさを増す。「選べ、人の若者よ。――この娘か、王への忠誠か」
「卑怯な!」
若者は緊張に抗しきれず、ついに目を開いた。
悲鳴。
「ならぬッ!」
娘は満身の力で男の腕を振り払い、若者に両手を伸ばした。若者は呆然と娘を見る。
「王女――そんな、その姿は……」
娘の手は若者の体をすり抜ける。勢い余って娘は地に倒れこんだ。
「いやだ! いやだ……ッ!」
娘の手は何をしても若者に触れることができない。そして彼の体はみるみるうちに無数に引き裂かれてゆく。本来人には感じられる、そこにあるべき岩盤に。
若者の体は霧散する。
「見よ」
泉から湧く水が岩の下に溜まっている。地に穿たれた穴から一条の光が清明に突き刺さる。そこに二つの黒い影が映る。
「……」
「王がまだわたしと共に在った頃、この水をよく覗き込んでいた。目の色が変わると信じていたのだ。変わりはしなかったが。そしてまた、わたしのような第三の目が現れることもなかった。だから王となったのだ。しかしおまえは違う。おまえは、人の上に立つことも、人と共に生きることも、もはやできない」
「ならばわたしはどうすれば良かったのだ?
赤目と忌まれ、足萎えと蔑まれ、王女といえば敬遠される。ただわたしは――自身で地に立ち、この世を見てみたかったのだ。その他のものは何も、望んではいなかった――」
「あの若者も?」
「わからない。わからない……」
ザァ――ッ
娘の目に涙が溢れるのと同時に泉の水が勢いを増す。水鏡を消し去る。
男は穴を仰ぎ、眩しそうに目を細めた。
「おまえは選ばなければならない。今ここで死ぬか、ここを去り、遙かへ赴くか」
娘も顔を上げる。
空を仰ぐのは五つの赤目。
尾根の上から森を見渡したとき、女は吾が目を疑った。
怪物のいるはずの岩室、その入り口が決壊している。山が、崩れてゆく。
内から噴き出す水によって。
そうわかったときにはもう駆け出していた。
老いた体を引きずり。
旧い森に踏み入ると地鳴りが強くなった。
轟音が響く。
と、地面の下草の緑のさらに下を、黒い影がこちらへ滑ってくる。
先端に赤目が三つ。それだけで女には王女に何が起きたのか悟った。
地の下を覗き込むように這いつくばった。
「――っ」
形のわからない怪物は、声もかける前に行き過ぎた。
「どこへ……」
呟いた先には、もう影はない。
女は森の奥へ歩いている。
ガラガラと岩の崩れる音。折られかけている木の軋み。
突如として水が全てを薙ぎ倒した。木の葉のように女の体は流された。水はこの森に無数に開く穴に押し流される。女の視界は闇に閉ざされた。
どれ程、時が経ったのか。
「……何故戻ってきた」
聞き覚えのある声だった。女は声の方向に手を伸ばした。驚いたことにそこには、自分の手を捉える手があった。
女の視界に弱い灯りが点る。
一点の赤。
おかしい。この怪物は、三つ目といわれていたが、わたしがこの目で見たときには二つの目を持っていたはず――
女は問うた。
「目は、どうしたのだ」
「あの娘に奪われた。自身で第三の目を持っていたにもかかわらず……わからない。何故三つ目以上の力を望んでもいないのに、わたしの目を奪ったのか――」
「あの子もまた、人であったからだ。……そう……おまえに訊きたいことがあって戻ってきた」
「それは?」
「何故この森に倒れていた私を助けたのだ」
「おまえが生きていたから」
握った手が徐々に力を失ってゆく。
暫くの沈黙。
灯し火が弱くなってゆく。
完全な闇が訪れると同時に、女は目を閉じた。
赤目 鹿紙 路 @michishikagami
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