第5話 虐待の果てに

 その日は、変な夢を見ていたようだ。

 その夢というのは、どうやら未来の夢だった。今はまだ中学2年生なので、出てきた自分は、8年後くらいということか、大学卒業のシチュエーションだったからだ。

 未来の夢も、結構先のことであれば、かなりリアルな感じがする。中学2年生にとっての大学卒業くらいというと、本当に果てしないくらいの未来に感じるからであった。

 何しろ、今は思春期、成長期である。しかも、途中には卒業入学を繰り返すというハッキリとした節目があり、しかも、大学生までの間に、成人式という行事があるではないか? 成人式は、今でこそ、18歳になっているが、その当時はまだ二十歳だった。ちょうど、大学3年生くらいであろうか?

 法律がコロコロ変わるのも、実に面倒臭いものだ。まだ、これから覚える方としては、今は大丈夫だが、大人になってからの法律は一体どうなっているのか、想像もつかない。

 ひょっとすると、死刑が廃止になっていたり、集団的自衛権が認められている世界になっているかも知れない。

 そんなことを夢で見ることはなかったが、はるか遠い未来は、却って、本当に今が22歳くらいになっていると思って夢を見ていたとしても、不思議のないことだった。

 大学の卒業式というのは、アッサリとしたものだった。高校まではそれなりの儀式を感じた気がしたが、大学卒業の頃には、当然就職も決まっていて、就職した会社で、入社前の研修などがあれば、卒業式どころではないだろう。

 つぐみの性格からすると、卒業が間近で、研究機関の合間に、友達と卒業旅行などに行ったとしても、たぶん楽しめないだろうというようなことは、容易に想像は着いた。

 何か大切なことが控えているとすれば、気になって、楽しめないというのは、中雅楽時代で培われた感覚であり、これは一生変わらないものだと思っていた。

「いや、ひょっとすると、持って生まれた自分の本性のようなものなのかも知れない」

 と、感じていたのだ。

 卒業間近のその時に、友達数人で、卒業旅行に出かけた。人によっては、海外に出かけるのだろうが、なぜか、6人くらいで国内に出かけたのであった。

 そこに違和感はなかったのだが、どうして国内だったのかということを考えてみると、思ったよりも理由は簡単なものだった。

「海外に行ったことなどないので、想像自体できるはずがない」

 という思いであった。

 中学生で海外に行ったことなど、ある日との方が珍しいくらいで、大学卒業する頃になると、海外に行ったことのない人の方が珍しいということになるだろう。

 普通だったら、ハワイやニューヨーク、ロスなどの米国や、ロンドン、パリ、ローマなどの欧州の主要都市くらいが、

「行きたい海外の都市」

 ということで、候補には上がってくる。

 映像や写真も、ガイドブックや、テレビなどを見ていると、

「観光地になった切り抜いた場所」

 としては、いつも見る光景なのだろう。

「今から見せる写真はどこの都市か答えなさい」

 などというクイズがあったとすれば、きっと普通に答えられるであろう。

 だが、行ったことがないのだから、どうあがいても、

「絵に描いた餅」

 であり、リアルな感覚とは程遠いものであった。

 そういう意味で、ある意味で、

「これ以上正直なものはない」

 と思える夢の世界であれば、素直に行ったことがないという意識の元、夢であっても、いや、夢であることから、想像の域にすら、行き着いていないに違いない。

 だから、未来の夢を見ていると、その夢は、

「アンバランスで、遠近感が取れない」

 という意識になっているのだろう。

 つまりは、夢に出てくる友達は、皆中学生だと意識しながら、自分は大学生だという認識なのだ。

「自分の顔は鏡などの媒体を利用しないと見ることができない」

 という意識があるので、夢の中だとはいえ、

「自分の顔は中学生なんだろうな」

 という認識になっているに違いない。

 そんな大学卒業前の卒業旅行に、誰が出てきたのか?

 実は卒業旅行と称しての、男性との二人きりの旅行だったというのが発覚した。

 最初は、6人くらいいたような気がしていたが、いつの間にか、次第に減ってきて、残ったのは、彼氏と思しき男性だけだった。

 その男性は、実に紳士な人で、旅行に来るまで、一切手を出そうとはしなかったのだ。付き合い始めて半年という設定だったが、キスまではしたことがあったが、それ以上はなかったのだ。

 それなのに、いきなり旅行というのは、普通ならハードルが高いのだろうが、つぐみとしては、

「婚前旅行」

 といってもいいくらいのものだったのだ。

 それまで、処女を守ってきたつぐみ、初体験の機会はいくらでもあったはずである。もっとも夢だから、勝手に想像するだけのことなのだが、つぐみにとっての旅行は、覚悟の上だったのか、それとも、

「彼は決して、私に襲い掛かったりはしてこない。私の嫌だと思うことは決してしてこないからだ」

 ということなのだろうか?

 後者は、ずっと考えていたことなのだろう。だが、その考えは、却って自分を不安にさせる。

 普段から、何もしてこない相手なので、いざとなった時、つぐみの中で覚悟ができていたとすれば、彼は、本当にちゃんとしてくれるのだろうか?

 その思いは正直強かった。

 普段の優しさが、覚悟を決めなければいけない時、その気持ちに至ることができずに、そのまま、どうしていいのか分からなくなってしまう。

 この旅行の時、思い切って自分の気持ちに正直になることができなければ、彼は二度と、つぐみには手を出してこない気がした。

 ただ、それはつぐみに対してだけということであり、相手が変われば、性欲がよみがえってくるのではないか。

 もし、これがトラウマなのだとすると、相手は限定される。

 ただ、気になるのは、

「彼がその時、童貞だったのか、どうか」

 ということである。

 童貞でなかったとすれば、トラウマはつぐみに対してだけのことになるのだが、もし、童貞であれば、最初から女を知らないのだから、トラウマは、世の女性すべてに対してだということにならないだろうか?

 童貞であるか否かという問題は、男の方で、女性を受け入れられるかどうかということであり、その境界線には、つぐみはいないのだ。

 トラウマがどのように残るかというのは、相手がつぐみであろうがなかろうが、自分自身の問題だということだ。

 ただし、それも相手であるつぐみの態度にかなりの部分、影響されかねないだろう。

 そして、もう一つ、果たして彼が、

「自分が童貞であれば、その思いを相手の女性がいかに受け入れてくれるか?」

 ということを考えていたとすれば。その時初めて、つぐみという女性の存在がクローズアップされる。

「童貞だってバレないことが、まず最優先であり、バレてしまった時のことを伏線としてしいておく必要があるだろう」

 と考えていたりする。

 つぐみにとって、彼が童貞であるかどうかというのは、大きな問題だった。

 もし、その頃まで自分が処女であれば、お互いに初めてというのは、新鮮な気分にはなれるが、いざ行為に及ぶと、うまくいかないのは必定である。

 それを分かっていて、新鮮だと思うのだとすれば、それほど、二人とも、頭の中で、

「お花畑」

 を形成しているのかも知れない。

 実際にお花畑に入ってみると、表から見ていては分からなかったものが、どんどん出てくる。

 そのうちに足を取られてしまって抜けられなくなっている状態になるのを想像できたであろうか?

「少しでも彼の自尊心を傷つけると、何をされるか分かったものではない」

 などとネガティブに感じていると、どこか、身体に重たさが感じられた。

 その重たさはリアルなもので、正直、息苦しくて、目を覚ましそうになっているのだった。

「うぅ、重たい」

 といって、そばにいる人を押しのけた。

 その瞬間につぐみは、目を覚ましたのだが、部屋が暗かったことで、最初は何が起こったのか分からなかった。

「はぁはぁ」

 という男の人の声の息遣い。そして、暗闇の中ではあるが、その向こうに、かすかに光が見えた感覚からか、逆光になって見えたことで、その人が誰なのか、余計に分からなくなってしまったのだ。

 まず考えたのは、

「ここは一体どこ?」

 ということであった。

 もう、今見ていたのが夢であり、現実に引き戻されたことは分かった。分かったのだが、そのせいで、急に襲ってきた恐怖というものは、

「夢なら夢で、そのまま覚めないでほしかった」

 という思いである。

 明らかに、夢で想像したことよりも、ひどいことは分かっていた。身体にのしかかってくるその息は、異臭を放っていたのだ。

「これが、男性の臭いというものなの?」

 頭の中で、自分は今中学生なのか、それとも、大学卒業前の女性なのか、分からなくなっていた。

 ただ、自分が処女であることだけは間違いないと思うのだった。どちらにしても、このまま、放っておくと、自分の身に危険が襲ってくることは分かり切っていた。

「どうすれば逃れることができるのか?」

 それを思うと、少なくとも目の前の男性を弾き飛ばすしかなかったのだ。

 その前に、

「この人は一体誰なんだろう?」

 という思いである。

「まさか、知っている人なのか?」

 と思った。

 逆に考えると、知らない人間の方が恐ろしい。知らない人間ということは、相手は自分をターゲットにして、

「もう、どうなってもいい」

 とでも思ったのか、それとも、ストレスによって、自分をコントロールできなくなってしまったのだ。どちらにしても、狂気でしかないではないか。

 それこそ、強姦魔に捕まってしまったということである。

 しかも、この息の荒さは、いかにも常軌を逸しているではないか。まともな神経の持ち主でないことは一目瞭然である。

「痛い」

 といって。思わず声を挙げた。

 相手の腕が、自分の肘をひっかいたのだった。その声を聞いた時、相手は一瞬ひるんだ。これは、知り合いだからひるんだのか? それとも、急につぐみが発した声に完全にビビっていたのかということで、知っている人なのかどうかが分かるかと思ったが、それだけでは分からなかった。

 だが、相手がひるんでから、また力を籠めるまでに、少し時間が掛かったような気がした。それを思うと、

「この人は知り合いなのかも知れない」

 と感じたのだ。

 だからと言って、安心することはできない。知り合いであれば、相手にとって、顔を見られるということは命取りである。今は暗くて見えないが、たぶん、相手は何かをかぶっているに違いない。

 そもそも、今の時代は、マスクをしているのが当たり前の時代で、ちょっと前であれば、一発、職務質問に値するような状況であるにも関わらず、もし、頬かむりでもしていてに、別に怪しまれることはないだろう。

 逆にいえば、今の時代は。

「怪しく見える人間ほどまともなのだ」

 といってもいい、まったく異常な時代になっていたのだった。

 目出し帽をかぶった、いわゆる、

「銀行強盗スタイル」

 も、今では、蔓延防止のための措置だと言えば許される時代なのである。

 ただ、その人は、そんなものをかぶっているわけではなかった。荒々しい息は、マスクすらしていないのではないかと思うほどで、一瞬、伝染病のことが頭をよぎったが、最近では、ほとんど感染も落ち着いてきていて、それよりも何よりも、今自分が置かれている状況が恐ろしいというべきではないだろうか?

 つぐみは、必死になって男から逃れようとするが、男も必至になって、逃がすまいとする。

「そんなことは当たり前ではないか。相手だって顔を見られれば終わりなんだ」

 と思ったが、この状態で、男は顔を見られずに何をしようというのだろう?

 少なくとも。暴行に走るのだとすれば、顔を見られないようにするのは難しい。ことに及んでしまってから、その場を立ち去ったとしても、顔を見られれば一巻の終わりである。

 だが、そんなことは分かっているはずなのに、どうして、それでも、こんな行動に及ぶというのか?

 いくつか考えられるが。一番大きい考えは、

「つぐみなら訴え出ないだろう」

 という思いがあるからではないかと思った。

 確かに強姦は、親告罪である。強姦を行っても、未成年であれば、その申告者として親などの代理人によって、行われる。

(ただし、これは、令和の時代には通用しない法律で、平成29年から、強姦罪やわいせつ系の法律は、非親告罪となった。さらには、強姦罪という言葉も変更になり、強制性交等罪という名称に変わったという。だが、作者は敢えて、当初の但し書きの通り、強姦罪という旧来の言葉を使うことにする)

 つまりは、親告罪と思っている犯人とすれば、

「絶対につぐみは訴えない」

 と思っているということであろう。

 だが、世の中に絶対などと言う言葉は当てはまらない。もし当て嵌まるとすれば、この場合は一つしかない。

 普段は、いつもあまり考え事をしないつぐみだったが、今回は結構しっかりと頭で考えていた。

「この場合の私に置き換えてみると……」

 と考えると、恐ろしい考えが浮かんできて、思わず。抵抗する力を失ってしまった。

 それをすかさずに感じ取った犯人と、今まで一進一退の力関係だったものが、今度は相手に蹂躙されることになった。

「しまった」

 と感じたが、後の祭りである。

 男の息遣いは、さらに強くなり、真っ暗な空間に湿気が混じってきて、隠微な臭いがあたりを支配した。

 酸っぱさを感じる、人間の臭いがあたりに充満する。それだけで、口を開けていられなくなり、息を吸うのが気持ち悪く感じられた。

「もう、これ以上逆らえない」

 という思いとともに。必死に逃げようという気持ちが次第に薄れていく。

「逃げたって無駄だ」

 と。何をどう考えても、逃れられるものではない。

「どうして、こんなことをするの?」

 と、思わず声が出てしまったつぐみだったが、男は一瞬、たじろいだが、さらに男は強い力で蹂躙する。

 それはそうだろう。ここまで来てしまったのだから、ここで辞めたって、罪は罪、逃げることはできない。

 そして、その相手がつぐみが考えている人だったら。もし、この場を逃れたとしても、どっちに転んでも破滅することには違いない。

「暴行されなかっただけ」

 という意味で、男が捕まるのがいいのだろうが、完全に、世間からつぐみは、白い目で見られることは確定していることだろう。

 別につぐみは、

「自分が悪いわけではないのに」

 とばかりに考えるが、本当にどうしていいのか分からない。

 一番いいのは、この場を必死になって逃げだし。何とか犯人が捕まらないということが一番いい方法で、唯一、

「破滅しないかも知れない」

 という方法に他ならない。

「世の中、血も涙もない」

 とは、まさにこのことだった。

 必死になって、もがいているのだが、払いのけることができない。力が入っていると思っているのは自分だけのようで、必死になって払いのけているつもりで何とか身動きを取ってみるのだが、どうやらすり抜けているようだ。

 その感覚を見ると、

「これて、ひょっとして夢だったりしない?」

 と、一縷の望みを掛けて、再度目を瞑ってみたが。目を開けると、また同じ場面が映っているのだった。

「もうダメだわ」

 と感じたのだが、どうやら、もう逃れることはできないようだった。

 後は、自分が想像した、最悪のシナリオだけでも回避されてほしかったのだ。

 相手は必死になってしがみついてくる。もし、自分の想像通りの相手だったら、まず間違いなく、抵抗することはできないだろう。相手が誰かを予想しているのに、絶対ということはありえないはずなのに、逃れることができないとは、どういうことなのだろう?

 それでも、必死になっているのは、無駄な抵抗なのだろうか?

 そのうちに、力が抜けていくのを感じた。

「あれ? 力が入らない」

 と、そう思っていると、相手も一緒に力を抜いてくる。

 普段だったら、

「しめた」

 と思って、少し力を入れてみるのだろうが、それができないのだ。

「私は、この場合の絶対を信じているんだわ」

 と感じたことで、すでに自分の身体は確信していることを思い知ったのだ。

「つぐみ」

 と、男は名前を呼んだ。

 その声にはもちろん、覚えがあり、声の主が分かった瞬間に、想像通り、身体中の力が抜けていったのだった。

「お父さん」

 そう、最悪のシナリオは、相手が父親であるということだった。

 相手が父親であれば、親告罪の場合は少し難しい。本来なら親が法定代理人となるべきところ、犯人が法定代理人と同じだなどということになると、もうどうすることもできない。

 親戚などに代理人になってもらうことはできるだろうが、もう、そうなってしまっては、すべてが、終わりである。

 この時は、正義感に燃えている人も、喉元すぎれば、ハッキリ言って、その気持ちを忘れてしまう。

 代理人になってもらうとしても、被告が親戚であり、しかも、被害者が娘だというのは、いくら親戚でも。こんな厄介な問題を押し付けられるのは、実に困ったものだからである。

 いや、そんなことを考える暇などない。とにかく、今はこの危険から逃れるしか、方法はないのだ。あくまでも、逃れてからしかできないことで、このまま蹂躙されてしまうとどうなってしまうのか、恐ろしいだけで、何もできなかった。

「もし、身体が痺れて、腕に力が入らない状態でなければ、普段の父親にだったら。逆らえるだろうか?」

 と考えた。

 身体の痺れで、腕に力が入らなくなったことは、この時は初めてではなかった気がする。あれは確か、中学に入ってすぐ位の頃、学校の臨海学舎で、海に行った時だっただろうか。

 夏のことなので、肝だめしと称して、数人のグループで班となって、墓地をぐるっと回って帰ってくるという時のことだった。

 先生や、旅館のスタッフが、毎年恒例で、毎年似たような演出で、お化けに扮していたのだが、その年は、やけに怖がりが多くて、脅かす方の先生たちの方が、ひどい状況だった。

 マスクをして行動しているので、少々のことでは怖がらない。

 だが、怖がりというのはどこにでもいるもので、一緒に行動していた人が、怖さからか行方不明になってしまったのだ。家に連絡しても帰っているというわけではないようだし。いそうなところを皆で手分けして捜したのに、一向に見つからなかった。

 実は、脅かすために架空の墓を作って、そこに出入り口を作っていたのに、最終的にそこから出てきた人はいなかった。そもそも、そんなところに鬼の拠点があるわけででもあるない。

「探してはみたけど、どうしようもないな」

 と、結局見つからなかったが、一人だけ、トイレに閉じ込められている少年がいたのだった。

 それが、その時行方不明になっていた少年で、顔を見ると真っ青になっていた。そして、どうやらトラウマになって、少し精神疾患になったことで、先生は責任を取らされた。

 つぐみが、痺れが取れないほど怖かったのは、

「ちょっとした軽い気持ちで行動した時、そのことが、大きな問題に発展してしまうという、想像もしていなかったことが起こり、それが、自分を思わぬ方向に追い詰めてしまうことに恐怖を感じたのかも知れない」

 と感じていた。

 父親は。最初ほどの力がこもっていなかった。最初に力を使い果たしたのか、少しすると、完全に力が抜けてしまったようだ。

 事なきを得たつぐみは、自分も身体の力が抜けて行くのを感じ、本当なら、その場から走り去りたかったのだが、そのままぐったりとなってしまった。

 父親は、息を切らしその場にうな垂れている。つぐみに声を掛ける勇気などあるわけもなく、指の痺れが取れるのを待っていたのだ。そうこうしているうちに、父親は、立ち上がって部屋を出て行った。一度もこちらを振り返ることなくであった。

 その時の、父親の様子から、本当であれば、危険を察知しておくべきだったはずである。それなのに、その日から、父親との関係がぎくしゃくどころか気まずさで、一時たりとも一緒の空間にいるのが怖かった。

「同じ空気を吸うのも嫌だ」

 と感じた。

 それは、あの時に感じた臭いを思い出すからだった。

 老人の加齢臭などとは違う。脂ぎった臭いだといってもいい。それこそ、

「これが、オスというものの臭いなんだろうか?」

 と感じたが、まだ、処女のつぐみには分かるはずもなかった。

 だが、その恐怖は、早くも今晩訪れることになる。なるべく父親と顔を合わせたくないと思ったつぐみは、父親が帰ってくる前に、すべてを終わらせ、部屋に引きこもっていた。

 食事の用意だけは、してあげておいて、ラップをかぶせ、後はレンジでチンすればいいだけにしておいた。

 玄関の扉が閉まる音がしたので、父親が帰ってきたのだろう、時間を見ると、午後11時、普段であれば、とっくに食事もお風呂も終えている時間であった。

 たまに遅く帰ってくる日もあったが、今から思えば、それが不倫の日だったのだろう。

 一週間に一回くらいだったので、不倫の逢瀬というのは、それくらいがちょうどいいのか、処女のつぐみには、想像すらできなかった。

 少しすると、シャワーが流れる音がする。いつもであれば、テレビの音が響いてくるのだが、その日は静かなものだった。それが一人でいるからなのか、それとも、テレビをつけることすら忘れるほどの気まずさを感じているからなのか、どっちなのか分からなかった。

 だが、実際は、そのどちらでもなかった。つぐみがそのことを想像できなかったのは、「この期に及んでも、まだお父さんに理性が残っている」

 と感じたことだった。

 昨日、あんなことをしておいて、今日以降も、過ごして行こうとするならば、行動パターンを変えるようなことはしないだろう。

 それをしようとしているのは、何かの企みがあるからに違いない。何となくは分かっていたはずなのに、それでも信じようと思ったのは、相手が父親だという肉親だったからだろうか?

 ただ、肉親にしても、近しい人というのは、相手を憎むようになると、もう終わりなのかも知れない。

「可愛さ余って憎さ百倍」

 という言葉があるではないか。

 せっかく許そうという気持ちがあるのに、相手は反省などしていない。あくまでも、立場はこちらの方が上だ。これが家族の間であれば、決して犯してはならない領域のはずなのに、それを相手がへりくだってこなかったとすれば、許されることではない。

 つぐみは、そう思っていたように、父親からすれば、

「俺が、育ててやってるんじゃないか? お父さんを許せないとか、毛嫌いするとか、どういうことなんだ。この俺が見放せば、子供のお前は生きていけないんだぞ」

 とばかりに、思っていたのかも知れない。

 お互いにその間の距離が遠いと、さらに、倍の距離を感じさせるのが、肉親というものではないだろうか?

 相手の気持ちが分かってくるだけに。どうしようもないような気持になってくるのかも知れない。

 その日、つぐみは、父親に蹂躙された。何が理由だったのか分からないが、考えられることは、父親の不倫を悟られてしまったということが、相当ショックだったのか、それとも、父親の異常性癖は顔を出したのか、

 その証拠に、父親はその日から、つぐみを蹂躙するようになった。虐待だけではなく、蹂躙することで、完全に犯罪を通り越しているのだが、まだ中学生につぐみには、逆らうことはできなかった。

 そんなつぐみは、このまま父親に飼われている状態となり、まるで、

「奴隷」

 と化していたのだ。

 心までは蹂躙されているわけではないが、逆らうことができない自分が、そのうちに諦めの境地になり、羞恥の心を、完全に見失ってしまいそうで怖かった。

 実際には、羞恥の心などない方が気が楽である。例えば喧嘩などをした時は、下手に逆らうと、相手の機嫌を損ねて、何をされるか分からなくなる。

 それを思うと、殴り返したくなる時でも、報復が怖くて、何もできなくなるのが普通であった。だから、つぐみも、父親には逆らえない。これ以上何をされるか分からないと思うと、それこそ、殺されるかも知れないと感じたのだ。

「諦めさえすれば、このまま生きていける」

 と思った。

 学校では、皆楽しそうにしているのが見えたが、自分だけ苦しんでいると、まわりが気にかけてくれる。

「どうしたの? 悩みでもあるの?」

 と聞かれた時、何と言って答えればいいのか。

 聞いてくれたことは嬉しいが、何も答えられない。

「それだったら、最初から、人に悟られるような態度を取らなければいいのに」

 というだろう。

 しかし、自分だけで抱え込んでいることに、つぐみは性格的に耐えられないのだ。

 だからと言って、その理由を答えることができないというジレンマと矛盾は、プレッシャーとなって、つぐみを追い詰める。それを拭い去るにはどうすればいいか? それは、結局、内容は言わないまでも、まわりに、

「何か苦しんでいる」

 と思わせることで同情を誘うということくらいしかないのだった。

 同情を悟っても、どうなるものでもない。ただ、まわりで能天気に何もないかのように遊んでいる連中に対して、気持ちの上で報復しようと思ったのだ。

 これが、父親に対してすることができない、

「報復」

 へのせめてもの抵抗といってもいいのかも知れない。

 つぐみは、今、父親の蹂躙に対して、ささやかであっても、抵抗を続けているという自己満足だけで生きているのかも知れない……。

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