第4話 父と母
まさか、その時の女性が、父親の不倫相手だとは思ってもみなかった。父親にケイタイを届けに来ただけなのに、まさかこんな場面を見せられることになるなど、想像もしていなかった。
しかも、実際に目撃したのに、
「あの女性は、どうしてあんな変な態度を取ったのだろう?」
と、父親に対してというよりも、相手の女性のことに関して気にしているのだった。
父親を気にしなかったのは、
「あれだけ、気まずそうにしていたのを見ると、さすがにこちらも気がひける」
という思いがあったからだった。
「お父さんは、娘を見て、どうしてあんなにビビったのだろう?」
と考えた時、
「これって不倫じゃないかしら?」
と一瞬思ったのだが、すぐに否定した。
それは、父親が不倫をしているなど信じられないという思いからではなく、母親の顔が普段は思い出しもしないのに、この時に限って浮かんできたことからだった。
「お母さんは、この悔しさを私の中で晴らそうとしているのかしら?」
と思うと、母親の怨念めいたものが怖くて、父親に言及できない立場にいることを感じたのだ。
つまり、この恐ろしさが、まるでホラーのような感覚になったのだが、実は後から思えばそれは違っていたのだ。
母親は、背後霊ではなく、守護霊だったのだ。
娘を守ろうとする一心で出てきてくれたのかも知れない。
「いや、逆に、父親に対しての不振が、ちょうどそばにいて、見守ってくれている母親の姿を、幻でありがながら、幻ではないという感覚で蘇らせたのかも知れない」
と、感じさせられたのだった。
「お母さん」
と、子供の頃というと、どうしても、口うるさい存在というのが強くて、あまり好きになれなかった存在だったことを、母親の姿を見て思い出したのだった。
「お母さんって、怖い存在だったのに、寂しさを感じた時、どうして母親を思い出すのかと思うと、近くにいたからだったんだ」
という思いと、
「でも、顔を思い出せなかったのは、口うるさい母親というイメージが強く、寂しさの中で、どこかホッとしている自分がいることに、自己嫌悪があったからじゃないだろうか?」
と感じたのだった。
どちらも両極端に感じることであるが、
「なんだかんだ言っても、小学生の私には、母親が必要だったんだ」
と後から思うと感じさせられるような気がして、今回それまで一度も思い出せなかった顔を思い出せるくらい近くに記憶がよみがえってきたということは、一体どういうことなのか?
やはり、今回目撃したことは、いいことなのか悪いことなのか、少なくともそのどちらかであることに変わりはない気がした。
この場合、状況から考えると、決していいことでないことは確かなので、その時点で、
「見てはいけないものを見てしまった」
ということになるのだろう。
日本に限らず、寓話やおとぎ話などでよくある、
「見てはいけない」
あるいは、
「開けてはいけない」
というものとして、
「見るなのタブー」
というのがあるが、この時はまさにそんなものだったのではないだろうか?
浦島太郎のように、おじいさんになってしまったり、聖書の中にある、
「ソドムの村」
の話のように、
「塩の柱になってしまった」
などという話が伝わっているように、つぐみは、
「一体どうなってしまうのだろうか?」
と、考えさせられるのだった。
今考えてみると、
「お父さんの浮気っていつからだったのだろう?」
という思いだった。
「まさか、お母さんが存命中も?」
と思うと、少し違和感があった。
しかし、先ほどの父親と、不倫相手と思しき女性の姿を見た時、
「女性の方は、いい加減見切りをつけたかったのではないだろうか?」
と感じた。
いくら子供であっても、女性の考えていることは何となく分かる気がした。それは、口うるさい母親に対してでも、
「何がいいたいのか分かる気がしたな」
ということを思い出していた。
それは、逆に、
「相手がいいたいことが分かるだけに、そのあざとさやわざとらしさが、腹が立つんだよな」
ということであった。
確かに、性格の合う人間が仲がいいというわけでもない。逆に、相手が考えていることが分かるだけに、嫌だと思うくらいになるだろう。
前述のように、相手のあざとさやわざとらしさが分かることで、余計に腹が立ってしまったり、相手に分かられてしまうことで、こちらの考えがすべて筒抜けになってしまうと、雁字搦めになってしまって、気を遣うことが、一気に疲れに結びつくということだからである。
そういえば、仲が良かったカップルが別れる時、
「あなたといれば、疲れるの。まるですべてを知っているかのような、目で見られると、身動きが取れないのよ」
といって離れていくのを、ドラマなどでよく見たものだ。
前述からの話の展開で、つぐみという女性が、
「ドラマ好きだ」
ということは、織り込み済みだと思っているが、それもこれも、元々ドラマが好きだったのは、母親だったのだ。
特に、昼のサスペンスなどをよく見ていて、小学生の低学年だと、高学年に比べて、授業時間が短いことから、結構早く帰宅できるので、家に帰ってくると、ちょうど母親が昼下がりのサスペンスドラマを見ているところに帰ってくることになる。
「おやつは、テーブルの上ね」
とそれだけ言って、引き続き、ドラマを見ている。
その時だけはドラマに集中していて、口うるささはないことで、ありがたいのだが、子も心に、
「サスペンスドラマって、そんなに面白いのかしら?」
と思い、母親が死んでから、しばらくは忙しかったので何もできなかったが、急に、一段落すると、何もすることがなくなった。
「急に気が抜けてしまった」
というべきか、それこそ、今まで1日が、15時間くらいに感じていたのに、それが逆に、
「30時間くらいあるのではないか?」
と感じるようになったことで、
「何をすればいいんだろう?」
と思うと、
「どうせ家での作業の間だから」
ということで、
「母親のまねごとをしてみようか?」
と考えるようになった。
母親のマネをして何になるのか分からないが、本当であれば、20歳以上の女性がすることを、まだ、14歳くらいの小娘が、嫌々ではないが、しなければいけないことを考えると、思いつくのが、母親のまねごとだった。そこで思い出したのが、母親が嵌って見ていたサスペンスドラマで、時間帯もあるので、録画しておいたものを、家事をしながら見ることにすれば、
「母親の気持ちになれるであろう」
という感覚であった。
実際に、見ているドラマを見ながらであれば、時間を刻むという感覚はなく、意識しなくても、自分で時間配分ができるようになったことだけは、間違いないようだった。
サスペンスドラマは、見ているといくつかのパターンに別れているようだ。最初は、
「結構いろいろありそうだな」
と、パターンがありそうなことは予感できたが、それがどれほどのものなのかは、ある程度見進めなければ分からない。
無限である可能性もあるし、そうでもないかも知れない。あくまでも、
「どこが一周なのだろうか?」
ということは、普通に一周しただけでは分からないということだ。
無限でないことは分かっていても、どこまでが本当なのかを考えると、
「もう一周見てみないと分からない」
という気持ちになり、
「本当にもう一周でいいのか?」
という、堂々巡りを繰り返してしまいそうになるのだった。
それが疑心暗鬼になってしまい。
「まるで、アリ地獄にでも落ち込んでしまいそうだ」
と感じるのだった。
アリ地獄というと、一度嵌ってしまうと、逃げようとしても、無駄に砂を掻くだけなので、力の消耗はかなりのものだ。
「もう、このまま助からない」
と思う瞬間があるのだろう。
それまでの力はまったく消えてしまって、逃れることを諦めてしまう。その瞬間に、
「覚悟が決まった」
と感じるのだろうか。
覚悟を決める時は、人生に何度かあるというが、本当の覚悟は、死ぬ時の一度だけのことをいうのかも知れない。
人生の節目で感じる覚悟とは、一体どういうものなのだろう?
失恋をして、その諦めがついた時、あるいは、受験に失敗した時など、
「今回はしょうがない」
と思う時であり、何か失敗をしたり、自分の考えの甘さから、計画していたことが頓挫してしまった時などにいうのであろうが、基本的に、
「次がある」
ということで、諦めをつけるのであった。
では、死ぬ間際の覚悟とは何であろうか?
元々、不治の病に侵されていて、助かる見込みがない場合は、いつ死ぬというのが大体分かるので、その時に覚悟を決めるだろう。だが、人生には、たとえ不慮の事故でも、
「俺はもうすぐ死ぬのかも知れない」
と思う瞬間があるというが、本当であろうか?
「虫の知らせ」
などと言う言葉で表されるが、本当に無視の知らせなどということがあるのだろうか?
しかし、死を間際にした人は、自分から、
「俺、もうすぐ死ぬんだ」
とは決して言わない。
言えば、バカにされるだけだということが分かっているからなのか、言うだけ無駄だと思うからなのか、口にすることも控えている。
だが覚悟をしたのであれば、いってもいいような気がする。
「ああ、あの言葉本当だったんだ。分かっていれば、親身になって聞いてあげたのに」
と言わせたいとも思うが、そこまで思うと今度は、
「聞いてもらっても、どうなるものでもない。却って、相手に罪悪感というトラウマを植え付けるだけではないか?」
と、自己満足とトラウマを比較したが、死んだ人間の自己満足と比較しても、文字通り次元が違うのだから、どうしようもないということであろう。
「覚悟と諦めというのは、紙一重なのだろうか?」
と感じた。
それは、長所と短所が紙一重なように、
「鬱状態と躁状態が紙一重で存在しているのと同じではないか?」
と感じた。つまりは、
「鬱状態と躁状態も、覚悟と諦めというのも、それぞれに、背中合わせだといってもいいのかも知れない」
と感じたのだ。
そもそも、
「紙一重と、背中合わせという言葉も、そもそもが似て非なるものだ」
といっても過言ではない気がする。
サスペンスドラマのパターンが、数種類であることが分かってくると、
「ああ、なるほど、これくらいのものを適当に回していくのか?」
と、まるで、自分がプロデューサーか監督にでもなったかのような気がした。
しかし、
「どうせ、やるなら」
という但し書きが付くとすれば、
「結局、どれもできっこないんだから」
という言葉の通り、平等にまったくの初心者だと考えるのであれば、つぐみには、プロデューサーでも、演出家でも、監督でもない、シナリオライターがやりたいと思った。
しかし、これは、いろいろ勉強していくと、少し自分っが考えていたものと違っているようだった。
というのは、最初に考えたのは、小説家だったからだ。
「何もないところから、新しく作り上げる」
ということに造詣が深いつぐみにとって、小説家というのは、できるできないを別にすれば、これほどやりがいのあることはないと思っていた。
同じように、ドラマを作るうえで、小説家と同じようなところがあるシナリオライターというものは、
「無から、有を作り出す」
という意味で、小説家と似たようなものだと思っていた。
確かにマンガ家などと違って、文章での表現という意味でいけば、同じではあるが、小説家との比較であれば、シナリオライターよりも、マンガ家の方が、かなり小説家に近いということであった。
それはどういうことなのかというと、
「小説家とシナリオライターの一番の違いは、小説家というものが、出版社の意向を考えないとすれば、基本、自由にすべてを自分で作ることになる。しかし、シナリオライターになると、まわりとの連係プレーが欠かせない」
ということになるのだ。
つまりは、まわりというと、まずは、俳優さんである。
俳優さんのことを考えると、シナリオにはあまり、ライターの個人的な気持ちを込めない方がいいと言われている。なぜなら、
「演技をするのは俳優であり、俳優がアドリブなど、個性を発揮できるように、余裕をもって脚本を書くことが大切だ」
ということであった。
つまり、遊びの部分が必要だということである。
実際に、ドラマ撮影において演技をしていた俳優で、
「これでは、自分のいいところが出せない」
などと言って、製作スタッフに文句を言って、製作スタッフが、詫びを入れる形で、脚本を書きなおさせることもあるくらいだ。
確かに売れっ子脚本家ともなれば、スタッフも脚本家にそんな無理強いを強いることはないだろう。
そもそも、売れっ子ライターだということが分かっているのに、俳優も文句をつけるようなことはしないはずだ。文句をつけると、今度は俳優を交代させられる事態にならないとも限らない。
その作品だけならまだいいが、
「前に、脚本にケチをつけて、役を下ろされた俳優」
というレッテルが貼られてしまうと、もう、この業界ではやっていけないという目に遭いかねないのだ。
ただ、それも、売れっ子ライターに限られたことで、2時間サスペンスなどの、
「穴埋めレベル」
の脚本家であれば、野球でいえば、1軍半、一度ヘマをすれば、2度と一軍に呼んでもらえなくなってしまう。
そんなことは分かっているので、不本意であったとしても、スタッフや監督のいうことは聞くしかないので、その覚悟がなければ、シナリオライターとしてやっていくことは難しいだろう。
何とか当てて、売れっ子になるか。まわりのいう通りにして、自分の個性を生かすことなく、そのまま脚本家として生きるか。
あるいは思い切って小説家に転身するか、であるが、小説家への転身は難しいだろう。逆にまったくの素人からの方が、小説家を目指すのならいいかも知れない。
それくらい、この二つは、
「似て非なるもの」
であるが、紙一重であるが、背中合わせだといっていいいだろう。
そんな中で、どうしても、元々は、いわゆるゴールデンの後の2時間、つまりは、主婦が、家事などを終えて、ゆっくりとテレビが見れる時間ということで、内容的にも暗いものや、怖いものは受け付けないということから、おのずと内容は限られてくる。
ということになると、配役もある程度絞られてきて、
「二時間ドラマの帝王」
などと呼ばれる俳優が、いつも出ていることになる。
しかも、先週と今週では同じ俳優が出ていて、同じ刑事役ということであっても、まったくキャラの違う作品であったりするのも、あるあるで面白いところであろう。
俳優が同じでも、監督も違えば脚本も違う。ジャンルの違う話なのだから、それも当然のことである。
母親が好きで見ていた俳優は知っているので、その俳優がよく出ていた作品を見ていた。最初の頃は、
「ワンパターンで面白くないな」
と思ったが、それでも何となく見てしまう。そのうちに、何か他のことをしながら、見ているということも多くなっていて、実際に他のことの方に集中してしまって、ドラマの内容を覚えていないということもあったりした。
それでも、ドラマを見ることを、最初から、
「まるでBGMのようだ」
と思っていれば、別に気にすることもない。
むしろ、そちらの方が重要だったりする。それだけに、ドラマを見ている時の自分がそこにいるように思えて、思ったよりも真剣に見ているようで、思いを巡らせてみた。
普段はスルーしているようで、実際には、誰もが凝視しているように見えるという、テレビCMの時間であるが、別に見ているわけではない。ただ、目を通して、映像が頭の中には入ってくるが、通り抜けているだけで、まったく意識としては残っていない。その時に意識はするが、すぐに通り抜けるというテクニックを人間は元々持っているのだろうか?
そんなことを考えていると、テレビCMをいつもは飛ばしてみていたが、たまに見てみたいと思うこともあるのだった。
その日は、父親から、
「仕事で遅くなる」
というメールが届いたので、
「今朝の気まずさ、明日になれば晴れているといいな」
と思ったのだった。
今日は、家に帰ってきても、父親の昼間の態度を思い出すと何もする気にはならない。2時間ドラマの撮りためていたやつを見ようと思ったのは、テレビを見るのが楽しみだからというわけではなかった。
「ただ、何も考えずに、映像が頭の右から左に流れてくれて、時間を潰すことができるからだ」
ということだった。
それは、今まさに感じたテレビCMに対する思いと同じで、
「無為にではなく、時間をやりすごすには、どうすればいいか?」
ということを考えた時の答えが、2時間ドラマだったのだ。
時間をやり過ごすというのは、
「人のうわさも75日」
ということわざにあるように、
「わだかまりを消してくれるのは、時間が解決してくれるという発想だけしかないのではないか?」
ということを考えたからだった。
父親とのわだかまりなど、時間が経てば消えるというものだが、それ以前に、自分の中のわだかまりを消す必要があった。父親が相手であれば、いさかいになりかねないが、時間さえあれば消えるであろう。
しかし、自分の中にあるわだかまりは、時間だけでは解決できないものがあるだろう。それが何なのか、テレビドラマでも、頭の中でやり過ごすことができる、2時間ドラマが一番いいと思うのであった。
その日は、昼間慣れない都会に出て疲れ果てたのと、父親に対しての蟠りから、いきなり睡魔が襲ってきて、何とかテレビを消して、部屋のベッドにもぐりこんで、そのまま寝てしまったようだった。
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