第3話 コンクリートジャングル
父親の浮気を知らずに、母親がいないことに一抹の不安を感じながらも、何とか思春期を乗り越えてきた、つぐみだったが、どうしても、潔癖症な性分だけは治らない。
「別に悪いことではないし」
と、つぐみは思い込もうとしていたが、どこまで割り切ることができるだろうか?
潔癖症になると、人のいい加減さが、すべて、わざとらしく感じられるようになる。それは、きっと、
「勧善懲悪」
という考えから成り立っているのではないだろうか?
勧善懲悪という考え方も、潔癖症という考えも、その共通点には、
「妥協を許さない」
という考えがあるのではないだろうか?
妥協を許さないから、自分も悪いことはできない。だから、相手の悪い部分も、自分だったら、見抜くことができる。他の人には見抜けないことを見抜けるのだから、自分は偉いのだと思い込んでしまう。
だから、潔癖症は、潔癖であることが、それ自体が正義となってしまう。だが、つぐみの中では、そんな潔癖症を、どこかで毛嫌いしている自分がいる。潔癖症を認めたいのはやまやまなのだが、それを認めてしまうと、自分が勧善懲悪ではなくなってしまう気がするのだ。
「潔癖症というのは、勧善懲悪と敵対関係にあるのではないだろうか?」
と考えてしまう。
潔癖症になると、まず、まわりが信用できなくなる。
「最初から信用できるくらいなら、人を汚らしいなんて思いもしない」
ということである。
汚らしいと思うのは、
「相手に気を遣っていないからだ」
と思うのだが、それは、
「気を遣っているのであれば、相手に汚らしいと思わせるようなことはしないだろう」
というのが、その考えの元になるもので、それは、きっと、にんにくの匂いであったり、汗の臭いなどの元を知らないのと同じことだろう。
ニンニクや餃子などを食べた後に、近くを通ると、すごい匂いがする。まわりは皆、
「こいつ、餃子を食べたな」
ということで、かなりの臭いが籠っているのに、
「どうして、何も対策を取ろうとしないのだ?」
ということが腹が立つのである。
せめてガムを噛むとかすればいいのに。本人はまったく気にしていない。まさか、それが、本人には分からないものだということを、つぐみは知らなかったのだ。
なぜかというと、
「人が嫌がることを、自分からしたくない」
という思いがあるので、ニンニクの入ったような、臭いがするものを食べようとは思わないのだ。
だが、これは、本人にとってはまわりに気を遣っているように見えるが、却ってあざという行動に見える。
「自分は、まわりに迷惑を掛けないために食べないといっているということは、食べること自体が罪悪だといっているようなものだ」
という風に見えるだろう。
本人は、食べてはいけないというわけではなく。それなりに対策を取っていればいいと思っているはずなのに、実際には、それが皮肉に見えるということは、それだけ、まわりは、
「彼女が何かをするのは、わざとらしく見えるかのように振る舞っているとしか思えないのだ」
と感じるのだが、彼女からすれば、
「まわりが何もしないことがわざとらしい」
と感じていた。
正反対のことのようだが、正対しているものが正反対であれば、向いている方向は決まっているようなものではないか。
父親が不倫をしていることに、つぐみが気づいたのは、偶然だといってもいいだろう。父親が、その日、携帯電話を忘れて会社に行ってしまったことで、本当なら会社に電話を掛けてあげれば済むことだったのだろうが、娘として気を利かせたつもりで、サプライズも兼ねて、
「私が会社に持って行ってあげよう」
と思ったのがきっかけだった。
ただ、そのもう一つも裏には、
「お父さんの会社には来るんじゃないぞ」
といっていたので、こんなことでもない限り、父親の会社に行くことはないと思ったからだ。
それを最初に電話など掛けてしまうと、
「持ってこなくていい」
と言われるのがオチなので、既成事実を作ってしまえば、怒られることはないだろうと思ったのが、まずかったのだろう。
会社の場所は聞いていて知っていた。
父親は、まだ、ガラケーだったので、すでにスマホを持っていた、つぐみとしては、
「いまさら、ガラケーの遣い方なんて、忘れちゃったわ」
というくらいなので、父親から、
「ケイタイ見たんじゃないか?」
と言われることもないだろう。
そういう意味でも、つぐみが自らで持っていくということは、
「ケイタイを私は見ていない」
ということの証明にもなると思ったのだ。
どちらにしても、一長一短あるのだが、直接持っていく方が、なんぼか、マシな結果になることだろう。
ちょうどその日は、学校が、創立記念日で休みだった。そのことは、父親も知っている。だから、今日は娘は一人でのんびりとしているだろうと思っているに違いない。
だが、娘は、朝起きて、リビングのテーブルの上に、父親のケイタイがあるのを見かけて、ビックリしたのだ。
「どうしよう。電話してあげようかしら?」
と思ったが、
「待てよ」
と、いろいろ考えているうちに、結論として、
「私が持って行ってあげる方が、どれだけいいことか?」
という結論を導いたのだった。
朝食を、適当に取ってから、すぐに着替えて、出かける用意をした。
「今からいけば、午前中には会社につける」
と考えた。
今の時間が、10時過ぎ、家を10時半に出ても、12時までには会社につける。それは、父親がいつも、
「会社までは1時間くらいでいくから」
ということであった。
ただ、それは通勤時間帯のことであって、それ以外の時間だとどうだろう? 電車の本数は少ないだろうし、まわりの人の歩みは遅いだろう。
「そもそも、人が歩いているのか?」
と思うほどであったが、さすがにオフィス街。人がいないなどということは考えられない。
そう思うと、すでに業務時間に入っている人が営業で出歩いているということなので、通勤時間によく見かける、ただ義務感だけで通勤している人たちのような、覇気のなさからは想像もできないような雰囲気を感じ取ることができるかも知れない。
仕事中と、これから仕事というまだ、仕事モードには入っていないが、どこか義務感を拭い去ることのできない雰囲気は、果たしてどこがどう違うというのか、興味深いものであった。
つぐみは、通学にはバスを使っていたので、電車に乗ることはほとんどなかった。そういう意味でも、電車で出かけるというだけでワクワクしてくるのは、電車というものに、特別な感情を抱いていたからだ。
何と言っても、電車は、線路の上しか走れない。終点に着けばそこで終わりなのだ。
「ラッシュの時間ではない時間帯というのも、少し気が抜ける気がするな」
と感じたが、電車に乗れるだけで、ドキドキするのは本当だった。
やはり電車に乗ると、人は少なかった。意外と感じたのは、
「年齢層が高い人もいるな。しかも女性?」
という感覚だった。
時間的に11時前くらいということなので、街に買い物に出かける人なのかも知れない。何と言っても、これくらいの時間帯に電車に乗る人は想像ができないので、逆にいろいろと考えてみるのも楽しい気がした。
「だけど、そういう意味でいけば、他の人たちから見れば、私だって、異様に感じられるのかも知れないな」
と、つぐみは感じていた。
そして、もう一つ感じたのは、
「若い人たち、二十歳前後の人たちも多いかな?」
というものであった。
ここに関してはある程度予測できたことだった。むしろ、
「この年齢層の人たちばかりなのだろう」
と思っていたくらいだった。
そう、大学生の人たちである。
大学というところは、中学生のように、朝から夕方まで、ぎっしり授業が詰まっているわけではないということは聞いていた。
「自分で、授業を選んで、それを大学に自己申告して、カリキュラム通りの講義を受けて、それでどれだけの単位が取得できるかということになるのよ。だから、人によっては、朝の一限目をほとんど取ることなく、朝寝坊ができる人も多いわけ」
と、親せきの女子大生のお姉さんが、そういっていた。
しかも、大学生の一時限というのは、高校生までと比べて長いものだ。高校生までは、基本、1時間未満が普通だが、大学では1時間半が一時限となるようだ。だから、午前中の講義は2時限、午後は3時限となる。だから、5時限目などを選んでいると、講義が終わるのは、夕方くらいになり、冬場だと、完全に日が暮れている時間であった。
そんな話を思い出しながら電車に乗っていると、車窓を眺めているのに、考え事をしているせいもあってか、せっかくの綺麗な景色が頭に入ってこない。
電車に限ったことではなく、初めての路線であれば、今までなら、車窓を眺めることが最優先で、考え事をしていたとしても、車窓から目を離したり、上の空で、せっかくの車窓を見逃したという感覚になることはなかったはずだ。
何と言っても、目の中に入ってくるものだから、興味のあることは、見逃すはずがなかったのだった。
しかし、その日は、考え事の方を強く感じたのは、
「それだけ、考えていることに、何か引っかかることがあったからなのかしら?」
という思いと、もう一つは、
「初めて乗った路線のはずなのに、前にも乗ったことがあったような気がするからなのだろうか?」
と感じた。
「こういうのをデジャブというのかしら?」
と思ったが、実際に、景色を見ていて、
「前に見たことがあったような」
と感じたわけではなく、車窓を見ているのに、考える方が強いなどということは今までになかったことで、そういう意識が働いているのではないか? と感じたことが強かったからに違いない。
「そういえば、お母さんと、一緒に街によく行っていたような気がしたな」
母親が亡くなったのは、まだ、小学生の低学年だった頃、正直、母親と一緒にいたという記憶や、どこかに出かけたという記憶は、ほぼ皆無だったといってもいい。
それは、本当に覚えていないのか、小さい頃だったことで、
「遠い昔の記憶として、必要以上に記憶の奥に封印されているのかも知れない」
という思いがあるからなのか、正直ハッキリと分からなかった。
ただ、車窓を見ていて、
「前にも一度見たような気がする」
と思った時に、その時に誰が一緒だったのかと考えた時、思い浮かんだのが母親だったのだ。
それまで母親と一緒にいた記憶を思い出すのは、消去法で思い出すことが多かった。
「お父さんでもなく、先生でもなく、友達でもない。だとすると、お母さんとだったのかな?」
というような感じである。
しかし、今日は消去法ではなく、いきなり、母親だという意識になったのだ。こんなことは今までで初めてだったのかも知れない。
「お母さんを恋しいと思っているのかな?」
と考えていると、ふと父親の顔が頭に浮かんできた。
「お父さんは、お母さんが死んでから、再婚しようって思ったことあったのかしら?」
と考えた。
正直、つぐみにとって、
「お母さんは一人なんだ」
という思いはあった。
しかし、父親がもし、誰かと結婚したいと感じたのだとすれば、それを反対する権利は自分にはないと思っていた。そこまで父親を拘束できるほど、自分は子供ではないと思っていたのだが、もし、再婚ということになると、新しい母親はもちろんのこと、父親も今までと同じ目線で見ることはできないと感じるのだった。
「そんなことを考えていたから、車窓に集中できないのかしら?」
と思った。
だが、実際に父親の再婚のことは、一瞬だけ考えて、すぐに頭から消えていた。それなのに、余韻のようなものだけが、残ってしまったということだろうか?
「ひょっとすると、余韻の方が、意識としては、深く残るものなのかも知れない」
とも感じた。
父親が、今まで再婚のことを一言も言わなかったのは、ずっと自分のためだと思っていたつぐみだったが、父親を見ていると、堂々としたところがあるかと思うと、急にオドオドしたような態度を感じる時がある。
その違いはどこから来るのか、つぐみには、よく分かっていなかったのだ。
父親が誰と結婚しようが、自分には関係ないとハッキリ言えるのであれば、最初から言っていると思う。
もし、父親にその気がまったくないのであれば、そのことを口にした娘を見て、ポカンとした表情を浮かべたまま、つぐみの言葉に、どんな意味があるのかということを考えて、結局、堂々巡りを繰り返し、金縛りに遭ったかのようになるのではないだろうか?
電車に乗っている間、時間的には30分もなかったと思う。都心部への通勤圏で、電車で30分以内であれば、基本、許容範囲ではないかと思った。
ただ、それは毎日通い慣れた人が思うことで、実際には、
「結構遠いんだな」
と感じることだろう。
ただ、ほとんど初めて、しかも、電車に一人で乗るのも初めてだということを考慮すれば、想像よりも、遠いとは感じていないのかも知れない。
あまり電車に乗り慣れていないと、遠ければ遠いほど、ワクワクしてくるものだが、初めてとなると、そこまで果たして感じるものであろうか? せっかく初めてのつぐみであったのに、上の空で途中までやりすごしたことは、
「一生の不覚だ」
といってもいいかも知れない。
電車の醍醐味は、何と言っても、
「ガタンゴトン」
という音とともに、心地よい揺れを感じた時である。
自分では意識していないのに、揺れを感じた時、まわりの皆は、その揺れに抗うことなく、揺れに身体を任せるようにしている。その時に、別に心地よさそうな顔になることもなく、一様に無表情なのは、揺れに慣れているからなのかも知れない。
つぐみも、久しぶりに乗ったので、そのことを感じていた。
普段乗るバスの場合は、顔を見ていると、揺れ自体が電車ほど緩やかではないので、揺れた瞬間、ドキッとしてしまうのだが、こちらも、そんなに驚くことはない。慣れていると、どの場所で揺れが激しいかというのも分かってくる。もし、皆ビックリした表情をするとすれば、運転手が予期せぬ急ブレーキを踏んだ時に違いない。
しかし、電車の場合は、バスのように、
「どこが揺れが激しいか」
ということは分からない。
なぜなら、線路の上しか走れないわけで、その線路が極端に盛り上がっているとかでもない限り、そんなことはない。
電車で、そこまでの揺れがあるのであれば、今度は脱線という危険性が出てくるわけで、そうなると、点検の必要が出てきて、運行を続けるわけにはいかないだろう。
たまに、あるようだが、脱線してけが人が出るよりもマシである。何しろ、今走っている電車のほとんどが、寿命を迎えていたりして、新型車両に変わりつつあると、鉄道ヲタクの人から聞いたことがあったのだった。
電車の揺れを心地よく感じながら電車に乗っていると、いつの間にか、車窓からは、都会のビル群が現れてきて、普段見ることのできない風景のわりに、懐かしさがあるようだった。
きっと、テレビドラマなどでよく見ることからだけではない、
「都会への憧れ」
のようなものがあるからなのかも知れない。
まだ、中学生だが、大学か、短大を卒業してから、都会でOLとして働くのが、一応の理想と思っていた。
さすがに、
「夢です」
というほと、固まっている意識ではないので、そこまではいえなかったが、制服に憧れるという意識があったのだった。
キャリアウーマンという言葉は、今では死語なのかも知れないが、イメージするOLには、キャリアウーマンという言葉が一番しっくりくるような気がする。
そんな都会への憧れがあるからか、都会の風景を見ていても、違和感は感じない。
つぐみが住んでいるところは、典型的な住宅街で、都心部へのベッドタウンとしては、中心的存在の街であった。
早くから開けていて、開拓初期だったこともあって、分譲住宅を買う人も結構いた。
今の時代になると、他にもいろいろ新しいところができてきて、
「何をわざわざ、こんな古いところに住むものか」
とばかりに、まだ、半数以上の部屋が空いていると聞いている。
学校があるところは、今度は、学校が密集していて、その中心には、4年制の総合大学があり、そのまわりに、短大や専門学校、中高一貫の私立高校が乱室しているという。いわゆる、
「学生の街」
だったのだ。
女子大もあり、一度、友達のお姉さんが通っているということで、友達と一緒に大学生に行ったことがあったが、皆垢抜けしたお姉さんばかりで、田舎者と言われても仕方がないほど、方言がバリバリの自分たちには、完全に別世界のようだった。
住宅街や、学生の街ばかり見ていると、都心部のビル街であったり、ショッピング街など、想像ができないだろうと思うのは、結構、甘いというものだ。
「都会なんて、人が密集しているばかりで、何も楽しいことなんかないぞ」
と、父親は言っていたが、
「そうなんだね」
と、相槌を打ってはいたが、
「本当にそうなのだろうか?」
という疑問をほぼ同時に感じていたのだった。
都会というところは、昔であれば、コンクリートジャングルというような、知らない人が入り込めば、まるで樹海に入ったかのように、抜けられない場所で、しかも、何が出るか分からないというような場所だと理解していたので、正直、そんなところに行くだけで怖かったのだが、今回は、一人で赴こうというのだから、どうした心境の変化なのかと自分でも思うのだった。
電車を降りてから、父親の会社までは、スマホのナビで迷うことはないだろうから、安心であるが、あまりスマホばかりを見ながら歩いていると、危なくてしょうがない。
田舎でも危ないのに、都会でそんなことをしていれば、いつ人とぶつからないとも限らない。
特に歩道を歩いていても、自転車が走っていたりすれば、結構、危ないものだ。
本当は、自転車は、歩道を走ってはいけないのだ。意外と皆知らないだろうが、自転車は、軽車両になるのだ。
だから、歩道を走るということは、
「バイクで歩道を走る」
ということと同じになるので、結構罪は重かったりする。
しかも、人に当たってけがをさせれば、自動車の人身事故と同じ扱いだ。罰金にしても、禁固刑にしても、それなりに重たい、いわゆる、
「走行区分違反」
という罪になるのだ。
今は、ウーバーイーツなどの普及で、配達員が自転車に乗ることが多く、絶えず、歩行者との接触などで、問題になっている。歩行者の隙間ギリギリで走るのだから当然だ。
しかも、やつらは、法律を知らない。人にケガをさせれば、人生は終わりだということをまったく考えていないのだ。
電車を降りて、父親の会社までは、焼く10分くらいだろうか? 田舎道を歩いて10分というと、結構な距離を歩くことになると思うは、都会のど真ん中で10分歩くとなると、想像よりも距離的には大したことはないようだが、感覚的にはかなりの距離を歩いたような気がする。
それは田舎道を歩くような感覚で、その理由としては、
「田舎道は、ずっと先まで見えるので、歩いていても、そんなに窮屈な感じはしないが、その分、さっさと歩けてしまうので、感覚よりも、かなり進んでいるようで、脚の疲れがそれを証明している。しかし、都会の道は、歩くたびに、同じ景色しかないとしても、まわりお景色が一気に変わったような気がする。それは建物が多くて、一直線に歩けないからだ。角を曲がるとまったく違った景色が広がっている。そのおかげで、まわりの変化に気を取られている間に、気づかぬうちに、実は結構歩いているというのが、真相なのではないだろうか?」
と考えている。
さすがに、一人で来るのが初めてだと、迷いそうな気がしてくる。実際に、スマホがなければ迷ったかも知れない。
誰かに聞いたとしても、教えてくれただろうか? そもそも、聞いた相手が、父親の会社を知っているはずもない、都会というのは、それだけ広いのではないだろうか。
そもそも、昔であれば、
「分からなかったら、交番で聞けばいい」
と言われていたが、今はその交番がどこにあるのかも分からない。
ひょっとすると、通行人に聞いても分からないのではないだろうか。毎日、通勤でこの駅を使っている人でも、案外、駅と会社の道以外、知らなかったりするものだ。都会というところ、田舎者には、本当にジャングルに思えるだろう。
交番が減ってきたのは事実のようだ。
その理由については、正直分からないが、どうせ、経費削減とでもいうのだろう。
交番の場所を知っているとすれば、駅員であったり、商売を営んでいる人くらいだろうか?
意外と、人が探せば分かりずらいところにあるのではないかと思うのであった。
今回は何とか、スマホのナビで、うまく行くことができた。
10分歩くといっても、幸いなことに、駅前の大きな通りを歩く時間がほとんどなので、迷うこともなかった。父親の会社のビルは結構でかかった。
つぐみは、そのビルすべてに父親の会社が入っていると思っていた、都会にあまりなじみがなくて、テレビドラマばかり見ていると、
「会社というのは、ビルの入り口に受付があって、カードを使って、ゲートから中に入り、ビル全体が、一つの会社だ」
というイメージがあったので、最初にビルを見上げた時、
「なんて、大きな会社なんだ」
と思ったが、ロビーに入ってみると、その思いは一変した。
受付もなければ、ゲートもない。壁に、その階ごとの会社名が書かれていた。
「本来なら、そこは、同じ会社の部署が書かれているのではあるまいか?」
と思っていたものだったはずが、一つのフロアに一つの会社とはどういうことか?
フロアによっては、3つくらいの会社が入っているところもある。
「こういうのを、雑居ビルというんだ」
と、以前から雑居ビルという言葉は聞いたことがあったが、実際に入ったのは初めてだった。
実際にはそこには、それぞれの会社の、
「大人の事情が隠されているのではないか?」
と思った。
だが、その大人の事情とは何なのか、人に大っぴらに言えないような、自分たちだけの事情を、他の会社でも共有するようなイメージを、
「大人の都合」
というのではないかと感じるのであった。
まだ、思春期のつぐみには、そんなことまで分からない。その意味もあるのか、
「なるほど、お父さんが、会社には来るなと言ったのは、そういう大人の事情を知られたくないからだったのかな? もしそれだったら、バレた以上、もう会社に来るななどという、ひどい言い回しのことは言わないだろう」
と感じたのだ。
意地を張っても、張り続けられるものに、大人の事情が関わっているとは思えないと感じたからだ。
やっと着いた会社で、父親の会社に行ってみると、そこは、実に寂しい事務所だった。ちょうど父親はいなくて、聞いてみると、会議中だという。しばらく待っていたが、トイレに行きたくなって席を立ち、ビルの中にあるトイレに入った。
このビルはさすがに雑居ビルというだけあって、トイレもワンフロア共有だ。それ以上にビックリしたのは、給湯室まで共有だったのだ。
ちょうど、水が流れる音がして、
「給湯室に誰かいるんだ」
と思って、横目でそこを見ながら通り過ぎるつもりだったが、そうもいかなかった。
本当は急いで通り過ぎないといけないレベルなのに、それができなかったのは、目の前にいるのが、父親だったからだ。
「お父さん」
と、声にならない声を発した気がした。
自分では声が漏れている感覚だったのだが、その声は完全に耳の奥で籠っていた。
「これだけ籠っているのだから、まったくまわりに漏れていないことは明白だといってもいいだろう」
と思うのだった。
女性は恐怖が、怯えに変わったようで、父親の形相は鬼の形相そのものだった。
「見られてしまった」
というよりも、まるで苦虫を噛み潰したような表情は何を意味しているのだろう。
きっと、もし、それが声になって漏れているとすれば、
「しまった」
といっているに違いない。
女性の方は、恐怖から怯えに変わっているのだから、最初の一瞬が、最高潮で、後は徐々に興奮が冷めているような気がした。
意外と女性というのは、そういうもので、一瞬の恐怖は、一番最悪のことを考えているから起こるのであって、少しでも冷めてくると、後は時間の問題だったりすることが、往々にしてあるもののようだ。
しかし、男性の場合は、実は鈍感なために、女性が冷めてきている間でも、まだ、事の重大さに気づかないのだろう。
いや、気づいていないというよりも、
「認めたくない」
という思いが強いのかも知れない。
その思いがあるからこそ、それ以上を強く言えない。苦虫を噛み潰したような表情は、
「タイムマシンがあれば、数分前に戻りたい」
というくらいの気持ちで、自分の保身のために、すべてを時間のせいにして、自分が悪くはないと言いたいのだろう。
しかし、その発想は逆に、この状況を、誰よりも自分が善悪に結びつけているということで、それが、自分を悪だと認めていることに他ならないのだ。
そんなことを考えていると、
「このまま、お父さんとは気まずくなってしまうのだろうか?」
と考えた。
問題はその時、父親が給湯室でその女性と何をしていたかということであるが、イチャイチャしていたようにも見えなかった。
女性は困っているかのように見え、その証拠に、彼女は怯えが落ち付いてくると、その場から、ダッシュで走り去ったのだ。
それは、つぐみに見られたことへの羞恥というよりも、とにかく、その場から離れたいという思いが強かったのだろう。何しろ相手が会社の人ならともかく、見たこともない、まだ子供だったからなのに、一体何に怯えたというのか。
「ひょっとすると、怯えていたのは、私に対してではなく、お父さんに対してだったのだろうか?」
と感じた。
父親の顔を最初に見た時も、楽しそうな顔ではなく、切羽詰まったような真面目な可青をしていた。真面目な顔というと語弊があるかも知れないが、真面目というのは、
「笑っているわけではない」
というだけの意味の真面目さであった。
「一体、お父さんは、どんな心境だったのだろう?」
ということを考えてみると、
「そういえば、お父さんの顔ってどんなだったんだろう?」
と、目の前にいるのに、その顔を父親だと認めたくないという感情が漲ってきたのだった。
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