第2話 精神異常の裏側

 凪という時間帯は、夕方から夜にかけての、

「風の吹かない時間帯」

 ということになるのだろう。

 実際に風が吹かない時間帯とは別の言い方をするが、ほぼおなじ同じ時間なのではないかと思うのが、いわゆる、

「逢魔が時」

 という、

「魔物と出会う時間帯と呼ばれる時間帯」

 であり、それは、もっとも、交通事故が頻発する時間だと言われていた。

 これには理屈がある」

 日が沈みかける時間。つまり、もっとも太陽が水平線に近い時間帯などは、半分くらいところがあったありして、光が当たるところと当たらないところがハッキリとしなかったりする。

 だから、光の屈折の具合と、当たる部分と当たらない部分との微妙な見分け方で、光の屈折の関係からか、

「モノクロに見える」

 ということらしい。

 自分たちにはその意識はないのだが、実際に事故が多いということなので、その通りなのだということ」

 だという証明であろう。

 もちろん、

「魔物の仕業」

 と言われるよりも、よほど説得力のあるものなので、

「言われてみれば、その通りだ」

 ということになるのだろう。

 今までカラーに見えていたものが急にモノクロに見えるのだから、それは事故が多くなっても当然のことであろう。しかも、モノクロに見えているという石井がないのだから、当然のことである。

 きっと、目の前に太陽があれば、逆光になった時、光が太陽光に吸収されるとでもいうような現象なのだろう。

 それを思うと、

「日の光というのは、神秘といってもいいのではないだろうか?」

 ということであった。

 光が当たっているので、逆光であっても、まさかモノクロに見えているなど、思いもしないのだろう。

 だが、考えてみれば、逆光であれば、光の強さから、暗く見えるのは当然のことであり、写真で撮っても、暗くて見えないことくらいは、想像するまでもないはずだ。

 分かっているはずのことが、よく分かっていないというのは、どういうことなのだろうか?

 違うことを考えていて、発想が思いつかないようになるからではないだろうか。

 そんなことをいろいろ考えていると、以前、ミステリードラマで見た時の、

「少年を、異常性癖な人間に育て上げるために、異常な教育」

 という場面があった。

 顔は虫も殺せないような美少年でありながら、心は悪魔であるというような、

「アポロンの顔にバチルスの神経を持ち合わせたような男」

 と称されたその少年は、稀代の殺人鬼に仕立てあげられるという話であった。

 しかも、美少年を作るために、父親も母親も、どこから見つけてくるのか分からないが、絶世の美少年と、美少女を攫ってくるわけだが、その二人には共通の性格を持ち合わせるようにした。それが、

「神経が少し足りない」

 と呼ばれた人間である。

 いわゆる精神疾患なのだが、そんな状態に陥るほど、美少年と美少女というのは、

「天に二物を与えられていない」

 ということになるのだろう。

 そんな美少年と美少女が、座敷牢に監禁され、そこで、食事だけ与えられるオスとメスであれば、その後にどういうことが起こるのかというのは、火を見るよりも明らかであろう。

 二人を監禁させておいて、二人の間で奇妙な夫婦生活を送らせる。それによって、やがて、玉のような男の子が生まれた。

 しかも、その子が生まれると、二人の男女は、またしても、主人によって、どこかに連れていかれることになったのだ。

 つまり、この主人がほしかったのは、子供であって、二人の男女は、

「種馬でしかないのだ」

 ということである。

 子供は、主人の異常な教育で育つことになる。しかも、その場所は、自分が生まれ、親が過ごした座敷牢にである。幼児の頃はさすがにそうもいかないが、普通の子供が小学生になるくらいになると、座敷牢に放り込まれたのだった。

 しかも、親の時は二人だったが、子供では一人である。さぞや寂しいのではないかと思うが、逆に最初からそれだと、何が寂しいのかということすら、分からなくなっているに違いない。

 親代わりの主人は、自分の部屋でぬくぬくとしているのに、何ということなのだろう? それこそ、極悪人のすることである。

 教育というと、虫を取ってきて、刃物で、その首をちょん切って遊ぶことを覚え、さらには、まるで万華鏡のような明るさと煌びやかさのある小部屋を作り、そこに閉じ込めて、一定の時間、放置するのだ。

 最初から感情が死滅しているような少年に、さらにそんなことをするのだから、それこそ恐ろしいというものである。

 そんな状況が、主人と、召使いしか知らずに、繰り広げられていた。

 元々、親は、伯爵か子爵の出なので、当時はそれだけで、一生遊んで暮らせるという、道楽息子ができるのだが、この主人は、さらに上を言っていた。

 何と言っても、リアルな殺人鬼を生み出そうというのだから、主人自身も、人間の感情を逸脱しているといってもいいだろう。

 その主人というのは、以前は学者で、しかも、顔がただれていたことで、最初は有望な学者ということで、恩師から目を掛けられていたが、そのおかげで出世もできそうで、家族ぐるみの付き合いをさせてもらったが、何と、その時に主人は、恩師の奥さんに横恋慕してしまったのだ。

 それによって、奥さんから恨みを買った。

 その時に、

「あなたは、私の顔が醜いから、そんなことをいうんだ」

 というと、

「いいえ、あなたの心が醜いからです」

 と言われて、

「ウソだ! 私の顔が絶世の美少年であれば、そんなことは考えない」

 というと、

「ウソじゃないわ。あなたのその腐った考え方についてくるような女性は絶対にいないわよ」

 と言われた。

 それは、自覚もしていた。

「どうせ、何かを企まないと、女から好かれることなんかありえないんだ」

 という思いから、女から罵声を浴びせられるのは、想定内だった。

 しかし、それでも面と向かって言われると、怒りは頂点に達する。

「この女、ただでは済まさない」

 と考えているところへ、恩師が帰ってくる。

 当然どうなるかなど分かり切ったことであり、主人は、学会からも大学からも終われ、失脚するという形で、田舎に引きこもってしまった。

「あなたには、それ相応のバツが与えられるだろう」

 と言い残して男は立ち去った。

 女の方も、

「どうせ口だけでしょうよ」

 と、ばかりに、完全に、主人のことをバカにしていた。

 主人が、このような、

「悪魔のような少年の培養」

 を始めたのは、他でもない。

 この時の復讐のために、女に美少年をあてがって、あの時の自分の言葉を証明し、そして、復讐を遂げるという一念からであった。

 そんな復讐に燃える男がやった教育の中で、

「万華鏡のような部屋に放り込む」

 というのがあった。

 これが、少年にとって、一番その気を狂わせる効果があるのだということを、主人はよく分かっていたのだ。

 そもそも、その主人の大学での専門は、心理学であり、しかも、精神科の第一人者と呼ばれていた。

 しかし、その発想は紙一重であり、彼自身が、

「狂気の沙汰だ」

 と言われるほどであった。

 それを皆は、最初、

「神経科の研究をするようになったから、あんな風になっちゃったんだろうな? 気の毒に」

 といっていたのだが、そのうちに見方が変わってきて、

「元々、あんな性格だったことから、おかしな研究をしても、何も感じなくなったのかも知れないな」

 と言われるようになった。

 どっちもどっちなのだろうが、それを考えると、

「他の神経科の先生というのは、どういうのなのだろう?」

 と思うようになった。

 しかし、自分が知っている神経科の先生には、そんな怪しい人はおらず、中には女医さんもいるというくらいなので、この小説の内容が、怪奇的な話にするために、大げさに書かれているのではないかとも思えてきたのだった。

 それを考えると、その作家の小説が素晴らしいのか、それとも、作家自身が、才能に溢れているのか、そのどちらもであろう。

 かなり昔の小説であるが、時代を反映しているのは間違いなく、今の令和の世の中でやれば、明らかに、大きな社会問題である。

 その小説は、時代設定が、昭和14年、いわゆる、シナ事変の最中ということになるであろうか。

 社会は、列強から経済制裁として、石油や鉄くずの輸出禁止をされており。敵である、中国の総統である、蒋介石を支援するという意味での、

「援蒋ルート」

 と称する道を、インドシナ(今のベトナム)あたりにあるものを、封鎖に走っていた時代である。

 つまり、国家は、

「総動員令」

 などが出されて、物資も不足しがち、しかも、物資の遅延も多く、

「ぜいたくは敵だ」

 と言われた時代である。

 しかも、アメリカ大統領が、日本に参戦するための口実欲しさに、日本に先制攻撃をさせるというやり方で、真珠湾という、アメリカに言わせると、

「騙し打ち」

 ということになってしまったのだ。

 もちろん、騙し打ちなどというのは、でっち上げで、そもそも、ハルノートを提出した時点で、あれが、アメリカからの最後通牒であり、国際法的にいえば、

「宣戦布告と同等」

 ということになるのだ。

 だから、真珠湾に対しては、騙し打ちもくそもない。

「戦争状態に入っているのに、備えをしていなかったアメリカが油断していただけであった」

 しかも、そもそも最後通牒を突き付けてきたのはアメリカからである。自分で宣戦布告のような真似をしておいて、それで、騙し打ちもくそもないものだ。

 騙し打ちだというのは、あくまでも、アメリカ国民に、

「大戦に参加することは、アメリカが騙し討ちをされたということであり、その恨みを晴らすための戦争」

 ということにすれば、国民も一気に参戦ムードが高まるという、あくまでも、

「アメリカの都合」

 による、言いがかりでしかないということであった。

 元々、日本は、中国と戦争をする気はなかったのだ。

 盧溝橋事件においては、本当は、どちらから仕掛けたという事件ではなかったのだ。

 夜間演習だって、ちゃんと、中国政府に断ってのことであったので、襲撃される理由はない。

 ただ、疑われたのは、日本には、

「前科」

 があったからだ。

 それは、いわゆる、

「柳条湖事件」

 と呼ばれる、

「関東軍による自作自演」

 において、満州を電光石火で占領してしまったという事件があったからだ。

 だから、世界も、盧溝橋事件が、本当に日本における挑発ではなかったのかという疑惑を拭い去ることはできなかったのだろう。

 既成事実をでっち上げて。事後承諾にて、認めさせるというやり方は、日本政府と関東軍の常套手段だったからである。

 日本という国において、どこまでが許されていたことなのか、昔の話なので難しいが、少なくとも、陸軍内部において、朝鮮軍、関東軍は、孤立した存在であり、自由に動ける存在だったといえるだろう。

 しかし、当時の陸海軍というのは、その統帥は、天皇にだけ認められたものであり、天皇の命令無視というのは、

「憲法違反だ」

 ということになるのだ。

 だから、

「相手から攻撃され、仕方がなく防戦した」

 ということであれば、それは、不慮の事故と同じで、憲法違反にはならない。

 ただ、それにしては、電光石火が鮮やかすぎるのだ。

 攻撃の報告が関東軍本部に来る前に、奉天は、鎮圧されていたようだった。

 最初から予期していなければできることではない。

 さらに、この事件の発端である。

「満州鉄道爆破」

 というのは、その後で特急列車が走り去ることができるほどの、大したことではなかったのだった。

 それは、満州事変から数年前に起こった。いわゆる、

「張作霖爆殺事件」

 ほどの爆発ではなかったということである。

 この時の目的は、文字通り、

「軍閥である張作霖を爆殺する」

 ということが目的であったのに対し。満州事変においては、

「爆発が、中国軍によるおのだ」

 ということが分かればいいだけなので、規模はそれほどではなかったのだろう。

 それだけ見ただけで、日本軍の自作自演というのは分かるというものだが、実際にはこれは侵略ではなく、

「中国からの挑発」

 によって、居留民の安全が脅かされることと、関東軍による。満州での権益が脅かされることへの報復であった。

 そういう意味では、シナ事変も同じである。盧溝橋事件では一度和平交渉は出来上がっているのに、廊坊事件や、公安門事件、さらには、もっとひどい日本人への虐殺事件で有名な通州事件と呼ばれるものがきっかけとなり、シナ事変が拡大したのだ。

 これは、完全な中国軍からの挑発であった。

 この件に関しては、列強も日本には同情的であったが、途中から、上海や南京での戦闘あたりから、日本軍のやりすぎが指摘されてか、中国側に味方する見解が進んできたのであった。

 そんな状態になってくると、日本は孤立してくる。

 そもそも国際連盟からも脱退しているので、日本は孤立していたのだ。輸入制限なども結構あり、日本ほど資源の少ない国はないというのに、このままでは、亡国になってしまうことは必然だった。

 資源があるかに思えた満州も、劣化した資源しか存在せず、結果として、列強に頭を下げるか、自分から、資源地帯を占領するかしかなかったのだ。

 結果日本は、後者を選んだ。

 それが、

「侵略と言われたゆえん」

 であるが、これが本当に侵略なのだろうか?

 そもそも、資源のない国が、他に活路を見出すのに何が悪いというのか、しかも、攻略に向かった土地は、元々原住民がいたにも関わらず、大航海時代に、自分たちの祖先が、

「侵略行為」

 を行って、占領することで、植民地とした土地ではないか。

 それを日本が資源を求めて、仕方なしにまるで、あぶり出される形で攻略に行って何が悪いというのか。

 しかも、日本の戦争目的は、

「大東亜共栄圏」

 の確立である。

 だから、閣議で、

「中国との戦争を含めて、大東亜戦争という名称にする」

 と決まり、ずっとそう呼んできたのに、アメリカなどの列強が、大東亜戦争の目的を許してしまうと、自分たちの過去の行いが言及を受け、裁判において不利になったり、これからの社会情勢で東西が別れることが分かっているので、日本を悪者にする必要があったので、

「太平洋戦争」

 などという欺瞞に満ちた言い方をするようになったのだ。

 考えてみれば、日本の政府も、マスゴミもバカである。サンフランシスコ平和条約で、日本は独立国になったのだから、大東亜戦争と呼んでもいいのに、わざわざ太平洋戦争という言い方をする。

「愚の骨頂」

 とはこのことだ。

 こんな時代の小説なので、少々奇抜でもありだったのだろう。

 しかし、そんな時代も、1年くらいのもので、大東亜戦争に突入すると、当局の監視の下となるので、発禁ということになり、探偵小説は書けなくなった。作家によっては、時代小説などを書いて、食いつないでいるという事態だったのだ。

 そうなると、戦争が終わってから、すでに廃業した人は別として、じっと待っていた人は、

「これからは自分たちの時代だ」

 と言わんばかりに。小説を書き始めた。

 考えてみれば、あの小説は、拷問か、驚愕か、そんな小説であった。

 一人の少年が生まれながらに悪魔になり、

 というのか、悪魔を産むために、親を攫ってきて、子供を産ませるだけ産ませると、またどこかに捨てに行くという、

「あの時代だからこその発想だった」

 ということなのかも知れない。

 小説を読むにしても、書くにしても、その発想がどこからくるのかということが問題である。

「普通の神経なら、あんな発想できっこない」

 と思うのだが、これが読者として読んだ場合、見方が違っているのだ。

「プロの書く小説だから、面白いに決まっている」

 という発想の中で、昭和14年の小説は。かなり、高度な心理学をついた小説なのかも知れない。

 もっとも、よく考えてみれば、海外の探偵小説や幻想小説などは、日本人が思いもつかないような発想をする。カフカなど、いい例ではないだろうか?

 そんな小説の発想が素晴らしかっただけに、日本に来てからは、外国のミステリーを知っている人には、日本の小説は物足りないと思ったのかも知れない。

 人気のある小説家は、当然売れたであろうが、作家によっては、晩年になって、急に売れ始めるという小説家もいたりする。それが、面白いという人もいるのだろうが、戦前の探偵小説は、黎明期であり、1,2人の作家が孤軍奮闘していたといってもいいかも知れない。

 それだけに、小説を書くのも、理論づけて、読者を欺くくらいのものを書かないと、読者には受け入れられないかも知れない。

 ジュブナイルのような、少年小説もジャンルになるように、少年を使うという小説も結構あったりして、このあたりから。

「何でもあり」

 というような作風に変わっていったのかも知れない。

 その頃がある意味探偵小説の初期の最盛期だったのかも知れない。それまでは、戦後の混乱から、猟奇ものであったり、まだ、固まっていない風俗習慣が、社会構造もできていない状態において、人間関係や、昔からの因縁めいた話が多かった。

 しかし、

「もはや、戦後ではない」

 と呼ばれるようになった高度成長時代においては、社会組織の確立によって、いわゆる、会社や組織を舞台とした社会派小説がウケるようになってきた。

 いわゆる、昭和の時代の、

「サラリーマンの悲哀」

 というものであったり、日米安保闘争などから続く、組織の問題であったりに切り込む小説は、サラリーマンなどにはウケたことだろう。

 何しろ、自分たちが今歩んでいる道なので、主人公が架空の人物だということが分かったうえで、小説の世界に入りこむと、

「ふむふむ、ありえることだ」

 と、内容的には、納得しながら読めるので、内容にもすんなりと入っていける。

 ただ、話としては、ミステリーなので、本当に起こってもらっては困ることが多いだろう。

 それだけに、余計に想像力が掻き立てられ、身近だということもあって、小説を読み始めると、途中で終わるのが嫌で、最後まで読んでしまうということになるのではないだろうか?

 時代は進み、公害問題や、教育問題などが絡んでくることによって、新しい小説が生まれてくるのだった。

 そのうちに、昔からの探偵小説と、社会派小説の合わさったような話が生まれてきて、トリックなどを駆使しる話や、別の視点から、

「この作家なら、こういうパターンの小説」

 というようなジャンルが、作家ごとに生まれてきたり、代表作がシリーズ化するような小説も増えてきたりした。

「トラベルミステリー」

 であったり、

「修直駅シリーズ」

 などの、パターンに則った小説であったり、

 検事が主人公であったり、弁護士が主人公という話から始まって、家政婦が事件を解決したり、子供の探偵が出てきたり、アルバイトの探偵まで出てくるという、それこそ、

「何でもあり」

 という小説になってきたりするのだった。

 小説は、時代によって変化してくる。昔の探偵小説とホラーが一緒になって、それが、科学の発展によって、SF小説がブームになった時代もあっただろう。

 マンガの影響も大きかったかも知れない。

 マンガの世界で、宇宙やロボットや、タイムマシンなどというものが、頻繁に出てくるようになると、SF小説もブームになるというものだ。

 正直、SF小説は今に始まったものではない。アメリカなどでは、100年以上も前から言われていた話だってあるのだ。

 日本で、マンガやアニメの流行り始めた黎明期は、1960年代くらいであろうか?

 空想科学物語ということで、正義のヒーローが出てきて、怪獣をやっつけるという話であったり、どこかの博士が作ったロボット人間が、活躍するという話など、その頃から出てきたものだった。

 ロボット人間というものにもいくつか種類がある。

 大きく分けると二つだろうが、アンドロイドのように、最初からロボットを作っているというものである。もう一つは、サイボーグと呼ばれるもので、いわゆる、

「改造人間」

 である。

 生身の人間の身体を、ロボットのように強靭なものにして、心や精神は、元の人間から引き継いでいるという考え方である。

 ただ、アニメや特撮になるのは、後者の方が多いだろう。改造人間にした方が、ヒューマニズムに訴えやすい。

 だが、アンドロイドのようなものは、巨大ロボットに多いかも知れない。人間から、操縦気で操られたりするもので、基本的に、ロボットには感情や、思考能力はないのだ。

 だから、人間が乗り込んだり、リモートで操るしかないのだ。考えてみれば、改造人間であったり、人造人間、サイボーグ〇〇などという人型ロボットに多かったではないか、そのために、皆元々の良心との葛藤に苦しむという物語が作られるのだ。

 そんな時代を今の人間は知らないまま生きてきている。

「知らぬが仏」

 という言葉があるが、本当にそうであろうか?

 知らないままの方がいいなどというのは、詭弁なのかも知れない。

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