秘密は墓場まで
森本 晃次
第1話 山科父娘
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年5月時点のものです。出来事の周知時期に入り繰りがあるかも知れません。作中に似たような小説の話が出てきますが、参考文献程度に思ってください。(横溝先生、ありがとうございます)
今年二十歳になった山科つぐみは、小学生の時に、母親を亡くした。父親は再婚することもなく、一人で娘を育てていた。
まだ、10歳にもなっていなかったつぐみは、
「お父さんの邪魔はしないようにしないといけない」
と、父親に対して、かなり気を遣うようになっていた。
だが、そのことが父親に勘違いさせたのだ。
「あの娘は、なぜか、父親である、私を避けるようになった。なぜだ? こんなに気を遣って育てているのに」
と考えたのだが、その思いが次第に、
「人にバレてはいけない感情だ」
と思って、必要以上に隠そうとしていた。
実際に、隠し通せるほどの感情で、リアルにその感情を忘れてしまうくらいになっていた。だが、それが娘のつぐみが、中学生になる頃になると変わってきたのである。
最初に感じたのは、つぐみが5年生くらいのことだったが、その頃には成長が思ったよりも早いつぐみは、その頃には、女の子の中でも背が高い方になっていた。
母親も父親も背は正直低い方だった。それなのに、つぐみはすくすく育ち、10歳で、145センチを超えていた。
その頃になると、つぐみは急にまわりを気にし始めた。
「モジモジしている」
といってもいいくらいで、父親から見ても、今までの娘とはまるで別人のような感じがした。
それがなぜなのか、最初は分からなかった。
そもそも、父親は、学生時代から女性に対してはウブだったのだ。
高校時代までは、女の子と話すらしたことがなかった。女の子が近づいてきただけで、反射的に避けてしまうほど、何か女性に対して、コンプレックスを持っていたのだ。
一番の原因として思い当たるのは、
「小さい頃から、乳製品が苦手だった」
ということであろう。
幼稚園でも牛乳が飲めなくて苦労をした。小学生になると、友達にやればよかったが、幼稚園の頃はそうもいかず、よく、先生に残されていた。
しかし、飲めないものは飲まないのだ。飲もうとすると吐いてしまう。
アレルギーではないということなのだが、
「糖類不耐症」
というものらしく、お腹を下したり、吐いたりするのは、それが原因だということであった。
これは、実はアレルギーのように変な反応を引き起こすわけではないが、体質なので、こちらも無理に進めるというのはいけないことなのだ。
昔だったら、強引にでも飲ませようと、先生とにらめっこしながら、飲むまで帰さないというような、拷問にも似たことになってしまうのかも知れない。
だが、確かにつぐみは、糖類不耐症ではあったが、もう一つ、別の体質、いや、これは性格といってもいいだろう。
つぐみは、潔癖症だったのだ。
「潔癖症だからと言って、何が乳製品を受け付けないというのだろうか?」
つぐみは、本当は自分で分かっていたはずだ。
しかし、恥ずかしいという思いから、このことをまわりに知られたくないという一心で、必死に、
「自分が、糖類不耐症である」
ということを、自分に言い聞かせていたのだった。
どうして、牛乳を嫌いになったのかというと、いくつか原因がある。糖類不耐症の人が、牛乳を飲んで、吐いているところを見たりすると、飲むのも嫌にもなるだろう。
もう一つは牛乳がコロイド上にドロドロしたものであるということ。
そして、もう一つ、これは人には言えないことだと思っているのだが、これが潔癖症に関係のあることだった。
というのは、特に感じるのは、
「自分が女だ」
ということである。
つまりは、
「男にはないが、女にあるもの」
それは出産であり、出産するとある時期になると、母乳が出て、それを赤ん坊が吸って、大きくなるというのである。
「いくら母親とは言え、人の身体から出たものを直接飲むというのは」
という意識が潔癖症であるがゆえに出てくるのだった。
特に、白くてドロドロした液体は、あまり気持ちのいいものではない。中学生くらいになって、思春期になり、いろいろ分かってくると、
「うわぁ、やっぱり牛乳が嫌いだというのは、本能なのかも知れないわ」
と感じたのだ。
そんなことを感じるくらいで、しかも潔癖症な女の子であるつぐみは、母親がまだ小さい頃に死んでしまったことで、家に、父親と二人きりになったことも、結構いやだった。
今までであれば、母親が父親の面倒を見ていたので、子供は意識することはなかったが、父親は、
「家の中には家族しかいない」
ということで、母親がいた時とまったく変わらない様子だった。
家の中では、服を脱いだら脱ぎっぱなし、さらには、下着のまま、歩きまわる。
「おとうさん、ちゃんと服を着てよ」
と、まるで汚いものでも見るかのように、つぐみは父親を見るのだ。
「何をそんなに邪見にすることはないじゃないか?」
と父親は、娘が真剣に嫌がっているのもよく分からないようだった。
だが、娘としては、
「そんなことも分からない父親なのか?」
と考えさせられる。
父親というのは、自分が別に嫌なことでもなければ、まわりも皆、そんなに嫌ではないということを感じているのだろうと思った。
だから、
「お父さんには、何を言っても聞く耳持たないのかも知れない」
と思うと、もう、なるべく父親と関わらないようにしないといけないと感じるのだった。
父親は、それでも最初は、娘に歩み寄りたいと思うのだった。
「母親を亡くして、まだまだ甘えたい年ごろなんだろうな?」
と、考えることで、
「俺が母親代わりもしてやらないといけないな」
と、思ったとすると、それは、ある意味、押しつけでしかない。
それを、父親が分かるはずもない。娘は、なるべく遠ざかりたいと思っているのに、父親は親としての使命からか、
「娘になるべくかまってやらないといけない」
と思うのだ。
しかし、思春期でもある娘は、嫌でも潔癖症で、父親が近くに来ただけで、気持ち悪く感じるようになるのだ。
ということになると、
「私の潔癖症なのは、大人になって、こういう環境になるということが、まるで分かっていたかのような感じなのかしら?」
と感じさせられる。
潔癖症において、大人になると、嫌でも。マスクをして表に出ないといけなくなったり、どこかに出入りする時は必ず。アルコール消毒をしなければいけない時代が来るなど、まったく想像もしていなかった時代だったので、今のように、
「潔癖症が潔癖症ではなくなった時代」
ともなれば、潔癖症は希少価値だっただけに、今の人たちっからは、想像もできないものだったに違いない。
あの当時も潔癖症な人間に対して、それ以外の人は、逆にバイキンでも見るような感覚だったに違いない。
亡くなった母親も、どちらかというと、潔癖症なところがあった。それに比べると、父親は、潔癖なところは一切なかったのだが、実際はそれが普通のことで、自分や母親が、
「大げさすぎる」
ということを、つぐみは分かっていなかったのだ。
それだけに、家だけではなく、表にいる時も、どうしても、優先順位は潔癖なところが、一番となり、ちょっとでも、
「汚い」
と感じると、どんなにいい人だと思った相手だったとしても、誰でも気にしないことを気にするようになり、下手をすると許せないと感じてしまうことになるだろう。
だから、自分では、
「彼氏がほしい」
と思うのに、一歩も二歩も進むことができないのだ。
何と言っても、思春期の男の子たちへのイメージは、
「目がギラギラしていて、顔には、ニキビというか、気持ち悪い吹き出物のようなものが溢れていて、いつも、ギトギトしているという雰囲気があり、近くに寄るだけで、拒絶反応を起こし、吐き気を催してくるような気がしてくる」
と感じるほどだった。
そんな相手を誰が好きになるというものか。
いや、実際に好きになりかかった人もいた。いくら、潔癖症でも、すべての同年代の男の子を毛嫌いするわけにもいかず、次第に少しずつ妥協するようになってくると、それまでまったく見ようと思わなかった男の子であっても、幾分かマシに見えてくる。
そんな中で、
「こんなに爽やかな男子がいたなんて、気づかなかったな」
と思える人がいた。
「潔癖の対象にするなら、彼は典型的な見本になるような男性だ」
と感じるほどだった。
ニキビもあまりなく、顔のどこにも、ドギドギとしたものはなく、目が血走っているわけでもなかった。
「爽やかというのは、彼のような男性のことをいうんだわ」
と感じたのだ。
そんな彼は、よく言えば、天真爛漫だったが、八方美人なところがあり、下手をすれば、浮気性にも見えた。
だが、それは思い込みであり、自分の潔癖症がそんなイメージを植え付けたのかも知れない。
一度相手を信じられないと思うと、自分の中で相手を過大評価してしまい、せっかく、爽やかだと思っていたことが、どんどん自分の理想と比較するようになり、その理想の発展に、彼への思いがついて行かないようになっていった。
そして、せっかく好きになれるかも知れないと思った相手を、
「やっぱり無理だわ」
と考えるようになるだろう。
そこまでには、かなりのことを考えたはずなので、だいぶ時間が掛かったかのように思えるのだが、実際にはあっという間であった。
自分では、一か月くらいかかっているつもりだったが、実際には一週間ほどでそんな気分になるのだった。
それは、自分の中で我に返る瞬間があって、その時に、本当に我に返ってしまうと、立ち止まって考えることになるのだろう。
ただ、そっちの方が当たり前のことであり、もし、立ち止まることができなかったとすれば、その時は、もう二度と彼のことを頭から離すことができないような気がしたのだ。
それは、何か事件があって、彼のことを毛嫌いすることが起こったとしても、その時は、毛嫌いしたままその思いが消えることはなくなるに違いない。
「だから潔癖症なのかしらね?」
と考えた。
自分が何に対して潔癖なのか、自分でもよく分かっていないが、よほどの外圧のようなものがなければ、この潔癖症がなくなることはないと思うのだった。
だから、父に対しても、その思いは極端に強かった。
父親を男として見るなどということはなかったので、父親の方としても、
「思春期にありがちな、父親を避けるような態度だ」
と思っていたのだろう。
父親の方が、娘を避けるようになった。
どうしても、微妙な思春期の心情を思いやると、下手に近づいてやけどなどしようものなら、とんでもないことになると父親が思っているのだと、つぐみは感じていた。
だが、実際はそうではなかった。
その時、父親は不倫をしていたのだ。
相手は会社の同僚で、すでに結婚している相手なので、不倫ということになるのだった。その人は、どうやら父親が結婚前から、気になっている女性だったようで、何と、まだ母親が存命中からの付き合いだったようだ。
母親を愛していなかったわけではない。むしろ、
「不倫をすることで、女房の良さも分かるのだ」
という、随分勝手な意識を持っていた。
母親が死ぬ前は、不倫相手はまだ独身だったので、今は立場が逆転した形の不倫になっていた。
お互いに、
「W不倫だ」
と言われるであろう時期は、それほど長くはなかった。
母親が死んだ後くらい、不倫をやめればよかったのだろうが、父親としては、寂しさを拭い去ることができず、どうしても、不倫相手に、
「癒し」
を求めたのだった。
「彼女と一緒にいれば、嫌なことは忘れられる」
という思いと、
「どうせ、存命中もしていた不倫だ。いまさらやめたって、結果は同じことだ」
という開き直りもあった。
いや、余計に頑なになっていったといってもいい。倫理やモラルというのは、本来は世間が決めるものなのだろうが、父親は、
「自分に正直に生きることが倫理であり、モラルなんだ」
と勝手に思い込んでいた。
実際に、不倫はそれからも続いていて、寂しさはだいぶ和らいだが、彼女が醸し出している、
「癒し」
から逃れることはできないでいたのだ。
彼女の方が、父親に何を求めていたというのか、それは、
「似て非なる者」
といってもいいだろう。
彼女は、旦那との間に倦怠期を感じていた。
これはむしろ、どの夫婦にでもあることで、長年一緒にいると、ふと他の異性が気になってしまうのではないだろうか?
ひょっとすると、その時、
「第二の青春」
を思い浮かべているのかも知れない。
自分の中に沸き上がる血潮のようなものが感じられ、それが、異性への異常な感情を膨れ上がらせるものだといえるだろう。
そこに、癒しといえるものがあるのだろうか?
いや、ないということはありえない。要するに、その癒しを癒しとして感じることができるかということだ。
癒しを癒しとして感じることができなくなると、それは、感覚がマヒしてきているからであろう。
ただ、感覚がマヒしてきているということは、自分が飽和状態にいることに他ならない。あまりにも自然となってしまって、善悪の判断ができなくなってしまうというような話も聞くが、それと同じようなものではないだろうか?
だから、父親は、その浮気相手から逃れることができないのであって、相手も罪悪感の中で、余計に盛り上がってくる自分の気持ちを抑えられなくなっていた。
なぜなら、感覚がマヒしてきてしまっているからである。
そんな二人のことを知っている人は誰もいない。相手の旦那の方は、結構鈍感なようで、
「旦那に見つかったりはしないだろうな?」
と、父親がいうと、
「ええ、大丈夫よ。あの人鈍感だから」
と、どうやら、鈍感なところにも、彼女が業を煮やしている感覚が由来しているのではないかと思うのだった。
そしてさらに、
「あの人に万が一見つかっても、あなたが、私を最後まで面倒見てくれるだろうから、安心だわ」
というのだった。
父親としては、癒しを求めているだけなのに、
「何を勝手なこと言いやがって」
と、一瞬、ムッとはするが、それ以上口に出すことはない。
癒しが溢れていて、離れられない相手ではあるが、実際に、
「愛している」
というわけではない。
相手の女にしてもそうだろう。お互いに相手を例えるとすれば、
「そう、砂漠の中にあるオアシスのような感覚だわ」
と感じるのだった。
ということは、逃げ水と呼ばれるように、近づくと幻影であったかのように、忽然と消えてしまうということもありえる。
それこそ、泡のような消え方をするのではないかと思うと、その思いは、ホテルの風呂場で、身体を洗っている時に、特に感じた。
しかし、ホテルで身体を洗っている時というのは、これから沸き起こる、
「癒し」
へのプロローグであることから、身体は完全に敏感になっていて、小刻みに身体が震えているのを感じさせるのだ。
そんな癒しが、自分の中でどういうものなのかということを感じると、逃げ水のように、スーッとオアシスが消えていくのを感じることがあった。
「どっちが一体幻なんだ?」
と考える。
癒しを求めようとして消えていく感覚。さらには、次第に飽和状態から、身体がマヒしてくる感覚。どちらもありなのだが、矛盾しているにも関わらず、その矛盾を一切感じることはない。
不倫なのだから、意識するのは、まず、その矛盾の有無ではないだろうか?
もし、それで矛盾が生じるなら、その矛盾のわけがどこから来るものなのか、自分で考えてみようとするだろう。
不倫に興じる父親を、つぐみは、
「お父さんが不倫をしているなんて」
ということを知ることはないだろう。
父親は、癒しを求めたいと一途に思っているせいもあってか、その頃になると、
「不倫は悪いことだ」
とは思わなくなってきた。
そういえば、どこかのトレンディ俳優が昔言っていたではないか?
「不倫は文化だ」
と……。
その頃はそれを聞いて、
「何、バカなことを言ってやがるんだ。そんなの言い訳でしかないだろう」
と思っていた。
それは、別に正義感からではなく、その言葉が明らかに言い訳にしか聞こえなかったからだ。
父親はそういうあざとさは嫌いで、敏感にそんなあざとさが分かるようになってきたのだ。
そのくせ。自分も似たようなことをしているかも知れないのに、自分には目を瞑ろうとしているのだ。
「自分には甘く、他人にきつい」
という、一般的には、とんでもない性格であったのだ。
だが、
「一般的とよく言うが、一般的という言葉の定義って何なのだろう?」
と感じるようになった。
元々、社会人だとか、世間一般、さらには、テレビなどで、戦争や国際問題が起こった時によく聞く、国際社会などという言葉、一番嫌いだった。
世間を十把一絡げにして、一つに纏めようという考えは、非常に嫌なものだった。
それは、娘のつぐみも同じだった。あくまでも、
「個人主義」
というものを気にしている、つぐみは、父親もまさか同じ考えだったとは、思ってもみなかった。
そもそも、個人主義という言葉もよく分かっていないだけに、つぐみは、まだ子供だったということだろう。
父親が不倫をしているなどまったく知らず、まだ子供だったということもあって、つぐみの頭の中は、
「お花畑状態」
だったのだ。
しかし、時々、ふとしたことで不安に駆られることがある。
それが、躁鬱症であるということに気づくまで、少し時間が掛かった。
躁鬱症というと、読んで字のごとく、
「躁状態から、鬱状態に、鬱状態から躁状態というのを繰り返す」
ということである。
それを想像した時、イメージとして浮かんできたのが、信号機だった。
一般的な車両用の信号機は、左から、青(緑)、黄、赤と並んでいるが、問題はそこではなく、信号がどのように移っていくかということである。
まず、赤信号は、すぐに青になるが、青からは、まず黄色が点灯し、赤になるのだ。これは、黄色信号が、
「気を付けて進む」
というものに対し、赤信号の、止まれに対しての警告のようなものだと思っていた。
ただ、実際には違っているのだという。
「黄色信号は、止まれ」
というのが原則で、赤と同じ意味を持つという。
では、なぜ、黄色信号があるのかというと、
「スピードが出ていて止まれない時は、無理せずに進む」
ということからである。
つまり、急ブレーキを踏まないといけない状況に、交差点の前で陥れば、後ろの車から、
「おかまを掘られる」
という可能性があるからである。
つまり、追突される可能性があるというわけである。
だから、急ブレーキを踏む必要がなく普通に停車できるのであれば、止まらなければいけない。
しかも、黄色信号で進んだ場合も、罰金があるということなので、気を付けなければいけない。
皆が勘違いしている。
「黄色は、気を付けて進め」
というのは、
「黄色い点滅信号」
のことである。
ここでさらに勘違いしている人が多いのだが、黄色の点滅信号には、徐行ということはない。気を付けていれば、制限速度いっぱいでも構わないのだ。
逆に赤の点滅信号は、徐行ではない。一旦停止が義務である。夜中の時間帯に点滅信号になるところでは、皆結構間違えているので、特に赤い点滅信号で一旦停止をしなければ、
「信号無視」
となって、処罰を受けるのだ。
考えてみれば、点滅信号は、
「赤でも黄色でも、同じ徐行になるではないか」
ということになる。
そんな分かり切ったことを、勘違いしているとは言え、誰も不思議に思わないというのは、おかしなことではないだろうか。
この場合の、青信号を、躁状態、そして、赤信号を鬱状態と考えると、実際には、信号の動きとは逆であることに気づく。鬱状態から躁状態になる時は、結構時間が掛かる。それは、
「鬱状態から、躁状態に変わることが分かる」
という時があるからである。
しかし、躁状態から鬱状態に変わる時は、その状況が分かるわけではなく、
「ヤバいかな?」
と思った瞬間には、あっという間に鬱になってしまっているというわけだ。
要するに、黄色信号というものは存在しないといってもいいが、実際には存在していて、意識していないだけなのかも知れない。
躁鬱症の状態を、
「昼と夜が切り替わる時だ」
と思う時があるが、これも、少し違う。
朝日が顔を出して明るくなるまでには、あっという間であるにも関わらず、昼が夜になる間には、昼下がりがあって、夕方があり、凪の時間帯があり、そして日が沈んでから夜が来るのである。
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