終末の読書の問題

合沢一輪

第1話

 本日早朝、JAXAから地球に飛来する巨大隕石に関する情報が発表されました。グリーフと名付けられた隕石は、今日から8日後の日本時間6月18日午後3時頃に地球に衝突し、隕石の規模から人類の滅亡は避けられないと推測されています。



 白井沖子しらいおきこは満足そうに自宅であるマンションのリビングを眺めた。暑くもなく寒くもない快適な空調。お気に入りのソファと枕。ソファの傍のテーブルにはコップとジャンクフード、関節証明、そして一冊のハードカバー、胡桃西月くるみさいげつ作、『座留島ざとめじま殺人事件』が乗っている。白井沖子が巨大隕石衝突のニュースを知ったのは8日前である。自身の職場にて緊急を知らせる警報がなったスマホでニュースを見た沖子は、すぐさま情報源を確認、人類滅亡を確信すると1秒後に仕事を辞め、自身の故郷を目指した。死ぬ前に両親に会っておこうと思ったがゆえの行動だったが、同様の考えを抱いた人間が沢山いたようで飛行機、新幹線、バスはどれも満席。沖子は潔く公共交通機関での帰郷を諦め、愛用のロードバイクを駆って実家に戻った。1日かけて故郷に帰ってきた沖子は両親や小中学校、高校の友人たちと再会し、浴びるように酒を飲みながら人生の思い出を語り合った。沖子は実家で4日間過ごした後、両親と友人たちに別れを告げ、またもロードバイクを駆って自宅に戻ってきた。母親からは何度も最期なのだから一緒に過ごそうと懇願されたが、沖子はそれを振り払った。自分でも何故わざわざ一人ぼっちのマンションで最期の時を迎えようと思ったのか、最初は分からなかった。その理由は死ぬための準備をしている最中に分かった。このマンションは沖子ご初めて自分の力で稼いだ金で手に入れた、自分の城だったのだ。自分はそれなりに頑張って生き切ったのだと思って死ぬには、実家よりもここの方がふさわしい。潜在意識がそう考えたのだ。



 さて、沖子が行った死ぬための準備とは、即ち「最期の時に読む本選び」である。沖子は幼少時より本が好きで、暇さえあればいつでもどこでも本を読んでいた。最高に面白い本を読み切り、そして死ぬ。それが沖子の最期の目標になった。そうして本屋でうんうんと顎に手を当てて悩んだ末、購入したのが『座留島殺人事件』だった。帯を一瞥すると最近では珍しいほどのコテコテのクローズドサークルミステリのようだった。沖子はジャンルにこだわらず本を読んできたが、ミステリは特に読むことが多かった。しかし胡桃西月の著作は今まで読んだことがなかった。好きな作家の本でまだ読めていないものもあったし、何度読んでも面白いお気に入りの本もある。その中で聞いたこともない小説家の名前も知らなかった本を選ぶのはとんでもない大博打である。もしつまらない、沖子の感性に合わない本だったら、一生後悔する……。否後悔できるかも分からないのだ。しかし結局沖子は『座留島殺人事件』を選んだ。タイトルと表紙を見た瞬間の、自分が最期に読むべき本はこれだという直感を信じた。本屋から出た時、自分でもどのような感情の発露か分からない種類の笑みを浮かべていた。



 そして今、沖子は『座留島殺人事件』を読み始めた。ページ数はおよそ600。自身の読書スピードから推定して、ちょうど隕石が衝突する時刻に読み終えられるよう、読み始める時刻を調整した。「読み終えた直後に死亡ルート」と「読み終えた余韻に浸っている最中に死亡ルート」のどちらを選ぶか随分悩んだが結局前者を選択した。用意した飲み物は何とごく普通のミネラルウォーター。酒は酔って本に集中できない。コーヒーや紅茶、緑茶などはカフェインによる利尿作用があるので却下。果汁飲料は飲むと逆に喉が渇く。炭酸飲料はゲップが出る。本気で集中して本を読むなら、選ぶべきは水。ジャンクフードは手を汚さず食べられるよう、甘味を中心に袋詰されたもの選択した。ソファに横たわり枕に頭を乗せ、必要ならば間接照明でページを照らす。沖子はすぐに本の世界に引き込まれた。座留島を訪れた滞在客を次々と襲う殺人。妨害電波が流され島外に連絡を取ることはできず登場人物は疑心暗鬼に陥っていく。一昔前なら電話線が切られていたのだろうが、そこは妙に現代的だ。豪奢だがいわくつきの洋館。物理的密室に衆人環視の密室、座留島に伝わる碑文の見立て、刺殺、毒殺、考察、焼殺と豊富な殺し方のバリエーション。登場人物が提出する推理のクオリティは一つ一つが短編を書けてしまう程。それをフェイクとして扱うサービス精神。物語が進むにつれ明かされる、隠されていた人間関係ミッシングリンク。物語の世界に幻惑されている内に、テーブル上のジャンクフードはすっかり数を減らしていた。



 残りのページ数は130程。話は遂に解決編に入る。洋館のロビーに生き残った登場人物が集められ、ばら撒かれた数々の謎の答えが語られようとしている。探偵役は奇しくも沖子と同年代と見られる二十代中盤の女性だ。その偶然も含めて、この本を選んでよかったと思った。探偵役が物語中に出てきた謎を一つ一つずつ回想し、事件を総括する。解決前に読者が謎を整理するための配慮だろう。沖子の記憶もしっかりと想起させられた。読み進めてきた中で自分なりの推理も一応固まっている。それが当たっているのか外れているのか。どうなるにせよ、真相が楽しみだ。沖子は期待の笑みを浮かべながらページをめくった。現れた次の見開きは白紙だった。

「は?」

次のページを捲る。白紙。また捲る。また白紙。捲る。白紙。捲る。白紙。白紙。白紙。白紙。白紙。白紙白紙白紙白紙白紙……。残りのページは白紙だった。物語は途切れていた。話は続かなった。解決編は無かった。どんな表現をしようと起こっていることは、現実は変わらない。沖子が買った『座留島殺人事件』は……落丁本だった。乱調本・落丁本はお取替えいたします。そんな文言に意味はもうない。

「何だこれ……。人類史も本もどっちも落丁って?」

無意識に大して上手くもない洒落をつぶやいていた。沖子が落丁本に出会ったのは人生で初めてのことである。それががまさか人類滅亡の日とは。事前に細目で本全体をパラパラと捲って確かめていれば防げたミスだろうか。いや、たとえ可能性が低くとも物語中の重要な文章が偶然目に入り、頭に残って最期の読書を台無しにしてしまう危険性を、沖子は犯せなかっただろう。「読み終えた余韻に浸っている最中に死亡ルート」を選んでいれば、落丁を発見し、即座に本屋に向かい落丁の無い本を購入出来たかもしれない。それよりも前に、いざというときのため、つまりはこの様な状況のために同じ本を2冊買っておけばよかったのだ。いや、今さら後悔しようと遅いのだ。人生最期の読書はという最悪の選択肢で終わる……。

「ああああああああ!ふっざけんなああああああああ!」

人生最後の読書をこんな形で終わらせてたまるか。

沖子は『座留島殺人事件』を怒りに反して丁寧にテーブルに置いた。本は雑に扱えないのが性分である。財布と鍵束を手に取り転げるように玄関から外に出た。玄関の鍵はかけない。あと数時間もせずに人類が滅亡するのに、防犯意識など意味はない。廊下を全速力で走り抜け、階段を五段飛ばしで駆け下りる。マンションのロビーを抜け、駐輪場に停めてある愛用のロードバイクのロックを外す。そして、マンションの敷地の外に出たところで、沖子は硬直した。一帯の人間が全て外に出ているのではないかと思うほど、道路に人が溢れていた。道路を埋め尽くした老若男女が酒を飲んだり踊ったりと騒いでいる。人類最後の時を皆でお祭り騒ぎの中で過ごそうという思考だろうか。自室にいた沖子は外の喧騒に全く気づいていなかった。真上を見上げると巨大な隕石がハッキリと見えた。これは確実に死ぬ。沖子は確信した。時間がない。視界内の人々が自分と比べて悩みを抱えていないように思えて、沖子は何だか恨めしくなった。最も近い本屋へ行くには、人でごった返す道を通らねばならない。沖子は覚悟を決めた。大きく息を吸い込む。残りの一生分と思えるほど。

「皆さーん!通して下さーい!」

一瞬、通りがシーンと静まりかえった……。様な気がする。近くの人々が沖子に目を向け、何だかキョトンとしながらも道を明けた。沖子はロードバイクを漕ぎ出す。それに従って、群衆が理解できないままに脇へ避けて行った。水が引いていくように道ができる。群衆の好奇の視線に晒されながら、沖子は目的地に向けて走る。走るにしたがって道が開けていき、またそこを走った。私は今、ただ一冊の本を読むために、大量の視線を向けられながら、群集の中を疾走しているのだ。沖子はそんな文章を思い浮かべて、状況の滑稽さに笑みをこぼした。滅亡を待つ人々。その中をただ本を読むため、自転車で駆ける女が1人。なんて喜劇だ。左前方によく使っていた全国チェーンの本屋が見えた。店内に明かりはついておらず、店員もいない。自動ドアも開かないだろう。ごめんなさい店長さん、あの世があったら弁償します。沖子は入口の少し手前でロードバイクから走りながら降りると、勢いにまかせて一回転し、ロードバイクを自動ドアに叩きつけた。ガッシャーンという音が響く。群衆の声がまたもや一瞬止んだ気がした。見ている人々は何が起きているか理解不能に違いない。最期に読むと決めた本が落丁で、続きを読むために隕石が頭上に迫るこの状況で、ロードバイクを飛ばして本屋まで急ぐ。そんな人間がいることなど、見ている人間に想像できるはずがないだろう。沖子は割れたガラスに注意して店内に入ると、ノールックでカウンターの方向に財布を投げつけた。また何やら物が壊れた音がしたが、沖子は視線をやりもせずに、文芸コーナーに急いだ。棚を見回すと、極限の状況に脳の認識能力が向上しているのか、『座留島殺人事件』の文字が飛び込むように目に入ってきた。それを手に取るとどっかりとあぐらをかいて床に座る。もう残りページを飛ばさずに読み切ることは不可能だろう。せめてあの密室トリックか真犯人の名前だけでも知ってから死ぬか?なんてことは小数点以下の秒数しか頭に浮かばなかった。沖子は数十分前に落丁に中断されたページから読書を再開した。そこから1文字も読み飛ばさず、結局沖子は犯人の名前も、一番気になっていたトリックも知ることなく、轟音と暴風と衝撃の中、意識を手放した。



 沖子はむにゃむにゃと寝言を呟きながら目を開けた。青く広い空が先に見えた。慌てて上体を起こすと、見渡す限り緑色の草原が広がっていた。空気は限りなく清浄である。右手に何やら感触があったので見てみると、『座留島殺人事件』を持っていた。人差し指は最後に読んでいたページに挟まっている。沖子が思考をまとめられずにいると、すぐ傍から声がした。

「目を覚まされましたか」

「うわ!」

驚いた沖子が声がした方向に目をやると、そこに人が立っていた。

「白井沖子様、ここはいわゆるあの世、という所でございます」

「……やっぱり私、ていうか人間はみんな死んじゃったのね」

人の発言内容はいきなりすぎるものだったが、お陰で沖子は状況をある程度落ち着いて認識できた。

「はい、現在我々あの世の住人が皆様を三途の川に案内しているところでして……」

何やら話しているが沖子にはどうでも良かった。今、手元には読み切れなかったと思っていた本がある。続きが読める。沖子はトリックだけでも読んでしまおう、という選択をしなかった少し前の自分に感謝した。

「ですから沖子様も今から三途の川に……」

「待って」

「え?」

「この本読み終わるまで待って」

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