五話 霧が晴れたから

私は帰る途中の記憶がなかった。胸の中に残り続けるざわめきは表情にも溢れ出てしまうほど、大きくなっている。


内部に霧がかかっていて、何も見えない。記憶の存在が隠れんぼをし続ける。


家に帰って、ソファに座り、ボーっとしている。いつもなら着替えながらテレビを見ているが、今は何もやる気が出ない。それに天宮君の顔を何回も思い出そうとしてしまう。自分では気づいていないけど、実際はもう惚れているのかもしれない。潜在意識というのは私自身も気づかない、刻まれた記憶。それを洗い流そうとも刻まれた記憶はもう消すことは出来ない。


「我の力を使ってまでも、記憶を消せないとは。」


すると、重複された声が家に響き渡った。


「誰…?」


私は思わず、口に出してしまう。聞き覚えのない声が家に充満するだけで、嫌悪感を抱く。


「面白い人間がこんなところにもいたとは、今の世界は革命を求めていると言うべきか。」


私の言葉を無視し、自ら人間では無いことを証言しているかのような口ぶりを放つ。


その後、その存在の威圧は何処かに消えていった。いつの間にか息を吸うことを忘れたようで、走った後の息切れを起こしている。


さっきのは、一体。いや、さっきってなんだっけ。何が起きたんだっけ。何も起きてないのに、何でこんなにも息切れを起こしているのだろう。


それより、天宮君のことだ。さっきの考察はかなりいい線をいっていると思う。天宮君に何かされた思い出を完全に忘れてしまっている。しかし、それを思い出すには記憶を呼び起こせるような''衝撃''が必要だ。


何故忘れたのか分からないけど、きっと、重要だった。私が忘れてはいけない、教訓のような。


忘れたくない思い出を忘れてしまうのは人間の性。人間は失敗したことや悲しいことがよく印象に残っている。逆に成功したことや嬉しいことは一時的な幸福として脳に残っているだけ。それはまるで、薬のような感覚。


もし、もしも、それが悲しい思い出だとしたら、私はどんだけ記憶能力がかけているのだろう。忘れてはいけない、悲しい記憶をどんな思いで忘れてしまったのだろう。


断片的な記憶をかき集める。天宮君の顔、事故が起きた場所、鉄骨。


そうか、私は忘れていた。忘れてしまっていた。霧が霞んでいくのを感じる。私の心はずっと同じだった。


天宮君は私のことを一度、助けたことがある。




あのバスケ事件からの翌日、俺は色々な生徒達に噂話されているらしい。


例えば、これを機に海波さん達に近づこうとしているとか助けた俺かっこいいとか在り来りな噂ばかりだ。確かに俺のようなぼっちでなければ、こういうのをきっかけに近づこうとする輩が現れるだろう。しかし、俺は画して、ぼっちであることに変わりは無い。今後とも、一人でいることに文句を言う奴は現れない。


つまり、既に答えは出ている。俺は何もしない。でも、気が残りなのは柳や海波さん達の評判もだ。今回に関して、トラウマはなさそうだからいいが、彼ら彼女らの評判は一体どうなるのか。


それももう答えは出ている。俺があの関係の合間に入ったことにより、俺が被害者となり、俺の評判だけを下げることが出来た。これは完全なる完璧な計画だ。失敗していたら意地でも記憶を改ざんする。


俺の評判が下がることについてはもうどうだっていい。誰も悲しまないし、俺はこういうことに慣れてしまっている。人間、慣れというものは常識に変わっていく。自分が身につけたアクセサリーよりも固執したものだ。


「ねぇ、天宮君。話があるんだけど。」


急な問いかけにドキッとしたが、俺は平然を装う。机を見ながら、考え事をしていたが、声をかけられたので見上げた。


「俺…に話ですか?」


それは海波さんだった。運命触手は一本から五本へと増えていた。なぜだ、俺は記憶を消したはずなのに。俺に関与することは無いはずなのに。ただのクラスメイトのはず。


「放課後、空き教室で。」


海波さんはそれだけ言って、俺のそばを離れていった。朝早く来たものの、俺と海波さんしかいなかったのは気まずかったが、もっと、より一層、気まずくなった。


「今の何?」


すると、聞いたことがある声が教室内に入ってくる。


「唯!」


海波さんは少し焦った様子でその女子を呼ぶ。名前は唯、確か浜名唯。浜名さんか。


「私は今の何って聞いたんだけど。」


「えっと…その。」


海波さんは口をもごもごし出す。俺と海波さんが会話することは浜名さんにとってタブーだったのか。運命触手が嫌な雰囲気を出しながら、浜名さんに繋がる。


「もしかして、脅されてる?」


その言葉に俺は焦りを感じた。さっきの状況を傍から見れば、脅されているようにも見える。海波さんが俺に話しかけることなんてあるわけない。これは計画的な犯行だ。やりやがったな、海波さん。これで、脅しているという証拠を作り出し、俺を今日からいじめの道具として扱っていくというわけだ。


「ち、違うよ!」


なんという演技力の高さ。海波さんはドラマに出れる程の実力を持ってまでしても、俺を陥れるつもりだ。


「ねぇ、あんた。もしかしてさ、俺ってかっこいいとか思ってるの?」


唐突な質問に俺は焦りを隠せなかった。こういうことは前に山ほどあった。俺の常識から言えば、これも想定内。


「そうだな、思ってる。」


ここは乗ってやり過ごす。自分のためというより、人のためだ。陥れたら、後は簡単だ。人と人のコミュニケーションに使われて、俺は迫害扱い。しかし、俺以外の奴らはみんな仲良くなれる。これは一種のハッピーエンドだ。


俺にとってのバットエンドは死んでいる。ハッピーエンドも死亡して、終わりがない。強いて言うなら、終わりがないのが終わりだ。


「やっば、関わらない方がいいよ。あっつー。」


「え、でも…。」


「脅されてるんだったら正直に言いな。私が守ってやるから。」


俺を悪役に責めたてていく。これでいい、このままいけば、俺は超絶的な人気者になれるわけだ。


「…。」


「私が直接言うから大丈夫。心配しないで。」


そして、浜名さんが近づいてくる。海波さんとつるんでいるだけあって浜名さんも美少女だ。少しオラついている感じがギャップを強くしている。


「あんたさ、私達のことを助けたと思ってるみたいだけど違うからね。私達は別に助けろとも言ってない。あんたが勝手に飛び出て、勝手に助けた。それが事実、分かった?」


ああ、その通りだ。俺はそれを承知で飛び込んだ。憎むべきは俺だ。自分自身の解答に間違ったものはない。それが事実だとして、残っている。


「…分かった。」


これで、俺は噛ませ犬の大型犬になった。


休憩も昼休憩も、俺の悪事は広がっていく。同情の声はどこにもなく、誰も助けやしない。あわよくば、それを糧にして、海波さん達と仲良くなろうとする人達が複数いる。


理想郷というのは存在しない。だけど、いつか、築き上げることが出来る。自分が信じた道がそれこそ、築き上げてきた人間関係そのものがユートピアとして生まれ変わる。自分さえ、ハッピーエンドでいれば、それは追い求めた理想郷の完成であることに間違いない。


俺はその理想郷を横目で見ながら、学校から帰ろうとしていた。やたらと視線を向けてくる海波さんに俺は少し心の傷を抉られた気分になった。


しょんぼりとした空を背景に、俺は歩き出した。最近は、俺の心がないのではないかと錯覚してしまうほどに人間関係に興味が出ない。


「ちょっと!」


後ろから声が聞こえて、ゆっくりと後ろを向く。


「海波さん…。なんで、俺に関わってくるの?」


「だって、一人で悪者を演じるから。」


「ど、どういうこと?」


「私は天宮君を信じてる。だって、私を助けたから。」


「えっと?」


「思い出したの、やっと。」


海波さんは何故か泣き始める。俺は何も理解できなかった。


「鉄骨に下敷きになったって聞いた時、私の胸のざわめきが強くなったの。でも、それがよく分からなかった。なんで、そうなるのかって。」


言葉がつれつれで、涙を手で拭いながら話す。


「でも、昨日になって分かった。鉄骨に下敷きになるのは私になるはずだった。天宮君が私を押して、鉄骨に当たらないようにした、そうなんでしょ?」


なんで、なぜ、海波さんがそのことを思い出せるんだ。俺は記憶を消したはずだったのに。まさか、力が消えたのか。


「そう…かも。」


はっきりと答えることが出来なかった。トラウマとか今は関係ない。海波さんは今、何を思って、俺に話しかけてきているのか分からない。


「お願い、悪者にならないで。」


それは本心だ。運命触手がたくさん俺と海波さんを繋げる。もしくは、繋げたがっている。


「海波さんは、俺が変な奴だと思わないの?」


「思わない。思いたくない。」


本心がそれを強く思う。海波さんはそれを強く願う。


「…分かった。悪者は演じない。でも、海波さんは俺に関わらないで欲しい。」


これは契約に近い。海波さんの言う、悪者にならない選択は海波さんが関与せず、やり遂げなければならない。


「私のこと、嫌い?」


「違う、これは俺の問題だ。海波さんが関与する話じゃない。」


「…一人で抱え込もうとしないで。」


俺はそれしか方法がない。


────────────────────

一章完結です

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