5-2 『何故、貴方は』
目が覚めるより先に、右手の拾う明瞭な情報が意識を刺激したことで、自分がまだ識域にいるのだとわかった。
「…………」
感触が伝えてくる、空間の様子を頭に思い浮かべる。
先程までいた戦場とは、恐らく別の場所。時刻はわからない。広がる何もない空間に、俺の横たわる寝台一つがぽつりと置かれている。
「じっとしていて」
こちらが起きたことを察したのか、目を開けると同時に、静かな注意が降った。
「
言われて自分の身体を見て、ようやく気付く。
ぼろぼろの制服から、病院着に着替えさせられ、機械から伸びた無数の細い針が、身体中に突き立っている。
痛みはないが、実感もない。
感覚それ自体が、針の刺さっている箇所を中心に、封鎖されているような感触。
「回復……傷を治してる、ってことか?」
首から下の感覚が鈍いせいか、若干の喋りづらさを感じながら問うと、黒衣のフードから見慣れた小動物が姿を現す。
『それもあるが、
「預言者」
『やあ、直衛くん。あまり無事とは言えないようだが、由祈くんともども、生きて帰ってくれて何よりだ』
水晶玉から聞こえるのは、変わらない呑気な様子の声。
ヌーズの方も、どういう生態をしているのかわからないが、傷を負った様子はない。
それに、
“由祈も無事”。
その預言者の言葉で、最後の胸のつかえが下りて、肩から力が抜ける。
『うん、君はよく頑張った。状況から言って、正直なところ、もうちょっとひどい結末になることを予想していた。そうならずに済んだのは、君の奮闘のおかげだ。大したものだよ、直衛くん』
「……いえ……」
どうにもばつが悪く、いたたまれなくなる。
元々、俺が勝手を言って起こした行動だ。責められこそすれ、評価されるいわれはない。
それに、記憶に残っているほとんどの場面で、俺は終始押されていた。
痛打を食らった後、何らかの方法で形勢を押し戻し、悠乃が来るまでの時間を稼ぎおおせたことは覚えているが、細部の記憶は全くない。
そのことを伝えると、預言者は『ふむ』と少し考える素振りを見せ、ややあって言った。
『ごく簡単に言えば、識域は心の働きが戦況を左右する場だ。その働きには、防衛本能のような、いわゆる無意識に属する機能も含まれる。まれなことではあるが、君自身に意識がなくとも、いやむしろ本体の意識がないことで、本来の限界を越えた活動が出来る、というパターンもなくはない』
一つ確認したいんだが、直衛くん。
預言者の言葉に合わせて、ヌーズの瞳が俺の方にむけられる。
『識域に入る前にはなかった、何かの症状が心身に現れているという感覚はあるかい?』
問われて、自分の身体の内側に意識を向ける。
――どくん。
一瞬、胸の底に、焦燥感に似た何かが覗いた気がした。
だが、それはすぐに消える。夢の名残が、意識の手をすり抜ける時のように。
「……いえ。少なくとも、今のところは」
答えると、預言者は水晶玉の向こうで頷く気配を見せた。
『うん、そうか。無茶な戦闘をやった後だ、アフターケアには気を配らないとね。何か普段と違う感覚が出た場合には、すぐに言ってくれたまえ。では文香、後を頼む』
「ええ」
『僕は上層の連中に報告をしてくるよ。流石の“円卓”も、これで人手を出す気になるだろう』
再び二人きりになった空間。
預言者の去り際の言葉が気になって、悠乃に尋ねてみる。
「“円卓”っていうのは?」
「私たちに事件捜査の許可を与えている、識域の自警集団のこと。現実の政府と連携して、両世界間の折衝を行っている、準公組織的な連中」
心なしかいつもよりもぶっきらぼうな口調で、悠乃がいう。
自警集団、識域の。
準、という言葉が引っかかるが、警察や公安と、政府を足して割ったような存在だろうか。
「大体はそう。もう少し頭が固くて手前勝手で、前時代的だけれど」
「容赦ないな……」
前から薄々思っていたが、割と好き嫌いがはっきりしてるな、悠乃って。
名目上は協力関係にあるようだが、何か納得のいかない出来事でもあったのだろうか。
などと考えていると、不意に視線がこちらを向いたので、落ち着かない気持ちになる。
が、内心を読んだわけではないようだった。
別の、何か物言いたげな気配を湛えて、虹の瞳が俺を見下ろしている。
「……悠乃?」
問うても、すぐには悠乃は口を開かなかった。
その目で俺の考えを知ろうとするように、真っ直ぐにこちらを見つめる。
やがて紡がれた言葉には、普段のそれにはない、どこか切実な感情が覗いていた。
「何故」
ぽつり。
「何故、戦ったの」
ぽつり、ぽつり。
「戦うことの
――死ぬかも、しれなかったのに。
抑えた声音。静かな口調。
そこに、乾いた地面に雨が染みるように、小さく
思っていたよりもずっと強い反応を、悠乃は
最初から、悠乃は俺の日常にはっきりとした配慮を示してくれていた。俺が現実で、なるべく普段通りの日々を送ることが出来るように、上手く行かなくても、試みてくれていた。
だから、何か言われるだろうとは思っていた。
けれど、これは、違う。考えてもみなかった。
“痛み”。
職務上の倫理的判断、一通りの人間的な共感、思いやり。
そういう尋常な配慮を越える、何か大きな思いが悠乃の中にあることに、初めて俺は気付かされていた。
子細はわからない。理由にも思い当たるところがない。
それでも、言うべきことはわかった。
「……ごめん」
悠乃は目を伏せる。感情を見せてしまったことを悔いているようだった。
「ううん。私も、ごめんなさい」
短く、それだけを言う。
少しの沈黙が落ちる。
考える。迷ったが、話すことにした。戦う選択をした理由を、俺も伝えるべきだと、そう思ったから。
「俺の身体の傷、見たか?」
病院着の袖下から覗く、腕の古い裂傷を見やる。
普段は衣服で隠しているが、胴から足の付け根を中心に、同じような
「ええ」
頷く悠乃。
その様子から、俺の過去の経歴は一通り知っているのだとわかった。
「昔、事故に遭ってさ。後遺症で、しばらく記憶が曖昧になってた時期があって。由祈に会ったのは、その辺りなんだ」
大規模な交通事故。一緒にいた父さんと母さんは助からなくて、成人したてだった姉さんは、葬式から相続、手続きに随分忙殺されて。
頼りに出来る親戚もいなくて、退院した後、俺は学校に半分預けられるような形で、日々を過ごしていた。
いつ、どこで会ったか、詳しいことは覚えていない。気付いた時には、由祈は俺の日常の中に入り込んでいた。
毎日俺を振り回して、何くれとなく話しかけて。家に押しかけては、勝手に遊んで居座って。
それがいい刺激になったらしい。原因もわからない、治る目処も立たないと言われていた俺の記憶障害は、徐々に回復して、今では生活に
空白の日々を振り返ると、一つだけ明瞭な思い出がある。
歌声の記憶。
当時は何者でもなかった大﨑由祈が、どういうきっかけだったか、俺の傍で歌っていた時の記憶。
小さな
けれどその歌声は、俺の記憶に
今でも、折に触れて見ることがある。大﨑由祈が、一つの
俺の記憶が安定の兆しを見せ始めたのは、それからだったように思う。
「あの時期の俺は、からっぽな、ただ生きてるだけの何かだった。俺が今ここにいて、何かを考えて動けるのは、あいつのおかげなんだ。――だから、あいつが死ぬかもしれない状況にいるのを、放っておけなかった」
大﨑由祈は、俺の日常そのものだ。あいつがこの先どうなっても、俺と関わりのない、どこか遠くに行ってしまうとしても、その事実だけは何も変わらない。あいつの
「悠乃を頼りにしてなかったわけじゃない。信じてなかったわけでもない。俺の勝手で心配かけて、悪かった」
「…………」
悠乃は、俺が話している間、何も言わずに耳を傾けてくれていた。
聞き終わると、静かに一つ、まばたきをする。
そして言った。
「よく、わかった。佑にとって大﨑さんは、何を賭しても守りたい、心のよりどころなのね」
「ああ」
感覚の薄い身体で、小さく頷く。
悠乃の虹の瞳が、ほんの少し、揺れる。
「貴方に、見てほしいものがある」
何もない空間に手をかざすと、古びた映写機と、整理された何本かのフィルムとが姿を現す。
悠乃が細い指先でフィルムの一つを取り上げ、映写機にかける。
周囲が暗くなり、映写機が回り出す。
まっさらだった識域の中に、一つの光景が像を結びはじめる。
「これは、戦闘を行った識域と、撃破した逸路の残滓から再生した、記憶の断片。その識域が、本来何を願って生み出されたかを知るために、回収が義務づけられているもの」
映写機から漏れる光が、コントラストを描いて、白磁のような悠乃の横顔を映し出す。
「貴方が大﨑さんを思うなら、見てほしい。識域で戦うということが、敵対した相手と殺し合いをするということが、どんな意味を持つのかを」
舞台の幕が上がるように、世界が照度を増す。
立ち上がる光景に、周囲が呑み込まれていく。
塗り変わる刹那、悠乃がこちらに向ける視線を感じた。
感覚したのは、痛みの色。自分のすることがどういう結果をもたらすかわかっていて、それでも手を下す――そういう時の人間に、特有の。
思わず振り返って何かを言おうとした。けれど間に合わなかった。
五感の全てを埋め尽くすようにして、物語が、始まった。
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