最終話 ……

 呻き声、か? 沼の底から聞えてきそうな声、自分の命を脅かすような声。そんな声がふと、部屋の中から聞えてきた。青年は部屋の電気を点けて、自分の周りを見わたした。彼の周りには、部屋の家具類。彼が寝る前に見た光景しか見られない。


 部屋の中に置かれている作業机も、作業机の上に置かれているパソコンやカメラも、枕元に置いてあるスマホもみんな、彼が寝る前と何も変わっていなかった。念のために確かめた、浴室の中も同じ。そこの鏡も見ていたが、自分の顔以外は何も写っていなかった。

 

 青年は、その気配に眉を寄せた。仕事の関係、それに見当が付くからである。ホラーに関わって起こる現象は、その大抵が心霊現象だった。彼は鞄の中から清酒を出すと、床の上にそれを撒いて、簡単な清めの儀式を行った。「幽霊は、祓えない。でも、それは抑えられる。あの人から教えられた話では、こうするのが一番である筈だ」

 

 塩は、部屋の中に結界を張ってしまう。「浄めるなら、清酒が一番だ」と。青年は「それ」を信じて、翌日の撮影に備えた。翌日の撮影は順調、ではない。何かこう、変だった。撮影の候補地を変えてみても、その写真に異変が見られない。縁がありそうな場所を撮っても、一枚目には道路の街路樹、二枚目には会社の外壁、三枚目にはファミレスの内装(ファミレス側には、許可を取った)しか写らなかった。

 

 青年は、その現象に肩を落とした。撮影が失敗に終わる事もあるが、これはあまりに酷い。普段なら何かしらの形で写るそれが、今回はまったく写らなかった。思わぬ調子で撮った写真にも、普通の風景しか写っていなかったし。挙げ句は、カメラのシャッターを切る気力すら失ってしまった。


 彼は(休憩のために)カフェの中に入ると、アルバイトの店員にブラックコーヒーを頼んで、今回の仕事に溜め息をついた。「不良だな」

 

 こう言う経験が無かったわけではないけれど。今回の依頼は、思った以上に難しかった。彼はコーヒーを何度か啜ると、今度は同じ店員にチーズケーキを頼んだが……。店員が自分の前から居なくなった瞬間にふと、窓の外に妙な影を見てしまった。人間の形をした物体、

 

 彼は、椅子の上から立ち上がった。通りの向こうから伝わってくる視線、それがどうしても気になったからである。彼はカフェの会計を済ませると、店の中から出て、影のところに走った。


 が、なぜか追いつけない。彼が影のところに行こうとすると、それに合わせて影も離れる。その異変に彼が気づいても、その距離を「詰めよう」とは思わなかった。彼は幽霊の戯れに怒りこそしたが、「撮影の手掛かりになるかも」と思って、影の後を追いはじめた。「ふざけているのか? でも」


 なぜかワクワクする。相手がこちらを振り向く度に「おおっ」と唸ってしまった。彼は幽霊の戯れに従い、町の鉄道に乗り、バスの中に乗り、橋の上を渡り、住宅街の中を通った。住宅街の中は、静かだった。午後の静寂が手伝っている事もあったが、周りに人が居なかった事もあって、それが異常に感じられた。青年は幽霊の足に従って、ある場所に立ち止まった。「ここは」


 そう、あの場所。彼が最初に向かった場所、依頼者から教えられた例の事件現場だった。彼はその場所に瞬いたものの、幽霊が自分に手招きした事で、自分の仕事をつい思いだしてしまった。自分の仕事は、心霊写真を撮る事。そして、それを芸術にまで押し上げる事。彼は幽霊が佇む場所にカメラを向けて、それにシャッターを押した。


 一枚、二枚、三枚。四枚目は、被写体の前に近づいた。彼は興奮覚めぬ状態で、カメラのシャッターを切りつづけた。が、六枚目を撮ろうとした時に……。「うっ」


 突然の痛みに襲われた。痛みの正体は分からないが、何か鋭い物で自分の胸を刺されたらしい。彼の胸に出血は見られなかったが、胸の奥から伝わるのは、確かに鋭い痛みだった。地面の上に倒れる、彼。彼は自分のカメラに手を伸ばしたが、目の前の幽霊が「それ」を奪ったせいで、その機会を失ってしまった。「そんな、俺」

 

 こんな場所で? 自分の夢を果たせないままに? 俺にはまだ、やるべき事があるんだぞ? 彼は薄れ行く意識の中で、まだ見ぬ世界に意識を沈めた。

 

 幽霊は、彼のカメラを弄った。そして、そのファインダーを覗いた。彼の死体が写るファインダーをじっと、無言の内に眺めたのである。彼女は午後の空気が流れる中で、彼の写真を一枚、また一枚と撮っていった。「バチアタリ、バチアタリ、バチアタリ、バチアタリ」

 

 私達ハ、芸術ジャナイ。

 

 私達ハ、芸術ジャナイ。


 私達ハ、芸術ジャナイ。


 私達ハ、芸術ジャナイ。


 私達ハ、芸術ジャナイ。


 私達ハ、芸術ジャナイ。


「お前の写真、みんな消してやる。お前が集めてきた物、みんな。お前は、私達を舐めている。私達は死んでも、生きているのに。貴方には、私の気持ちが分からないんだ。彼と彼女を助けるために私が!」


 幽霊は、地面の上にカメラを叩きつけた。そうする事で、自分の無念を晴らすように。

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