第3話 精神錯乱

「彼女との食事は、楽しかったようです。昨日の残業には『カチン』と来てしまいましたが、本来は普通の関係。件の問題が収まれば、元の関係に戻ります。食事の席で会話を楽しむ中、そんな関係にまた戻るわけです。彼等は恋人関係ではないものの、ある種の戦友意識、友情意識を抱いていました。


 だからこそ、周りの目も気にしなかったのでしょう。傍目から見れば、どう見ても出来ている関係ですが。当の本人達からすれば、(実際のところは分かりませんが)同じ会社に勤める仲間でした。二人は激安の日替わり定食を頼んで、それを食べながら『ああだ、こうだ』と話しつづけました。

 

 異変が起きたのは、その二日後です。二日後の夜、あのエレベーターの中で。○○さんは自分の仕事を終えて、エレベーターの中に乗った。エレベーターの中には、誰も居ません。彼がエレベーターの中に入った時も、無機質な壁が見えるだけでした。彼はいつものボタンを押して、エレベーターが昇る感覚を覚えました。そして、同時に違和感を覚えた。

 

 。自分と同じくらいの大人、それが向ける視線を。背中越しからふと、感じてしまった。彼はその気配に震えて、自分の後ろを振りかえりました。彼の後ろには、誰も居なかった。見られている感覚は、確かにあるのに。その視線をどうしても、見つけられなかったのです。


 彼は得体の知れない視線に怯えて、自分の降りない階で降りてしまった。またかよ、ふざけるな。そう思ってね。疲れた身体に鞭打って、マンションの非常階段を駆け上がったようです。彼は自分の部屋に辿り着くと、玄関の扉を閉めて、扉の鍵を掛けた。そして、家中の電気を点けた。


 それで助かる保証はありませんでしたが、『真っ暗な空間よりは、マシ』と思ったようです。玄関の前にも、バリケードを作った。自分の手元にも、武器を置いた。その日の夕食も、おにぎりとインスタント味噌汁しか飲まなかった。彼は家の風呂にも入らないで、毛布の中に潜り込みました。

 

 ううん、正にパニックです。冷静な判断力があれば、外部に助けを呼ぶのでしょうが。緊急事態のそれが、その当たり前を忘れさせてしまいました。彼は自分の頭を押さえて、見様見真似の読経を読んだ。ですが、所詮は浅知恵。素人の考えです。本物相手にそんな物が通じる筈はない。


 ましてや、塩すらも撒かない状態で。本物を防げるわけがありません。本物は、彼の部屋に入った。投稿者の話を読む限り、そう感じる気配を覚えた。本物は部屋の中に入ると、最初は台所から攻め、次に居間、そして、寝室に入りました。

 

 ○○さんは、その気配に震えた。ここまで来たらもう、限界です。余程の人でない限り、発狂必至。実際、相手の呻き声に泣きさけんだようです。彼は毛布の中に潜った状態で、その見えない何かに『ごめんなさい、ごめんなさい!』と謝りつづけた。『許して、許して!』と。


 ですが、無念。その願いは、届かなかった。ゆっくりと持ち上げられる毛布。それと合わせて、段々と現われる顔。。彼はその黒縁眼鏡を見た瞬間、頭が狂ってしまった。

 

 えぇえええ? だ、大丈夫? 『頭が狂った』と言う事は、その話を聞く事も……。ま、まぁ、何とかなったのでしょう。『この話が届けられた』と言う事は、そう信じて間違いない。事実、投稿者も『大丈夫』と言っていますしね。配信者の身分では、『それ』を信じるしかありません。


 彼は、町の病院に運ばれた。彼が会社に来ない事を不審がって、会社の上司が彼に電話を掛けたようです。『○○君、どうしたの? 無断欠勤は、許されないわよ?』と。そう脅したのですが、もちろん出ません。電話の呼び出しコールがずっと、鳴りつづけるばかり。例の女性も電話を掛けましたが、結果は上司の時と同じでした。

 

 二人は『それ』に怯えて、彼の家に走った。会社には、社員の個人情報がありますからね。会社の偉い人に頼めば、どうともなるでしょう。二人は大家さんから部屋の鍵を借りて、その中に入った。

 

 部屋の中にはもちろん、半狂乱の彼が一人。彼は二人の声に慰められるまで、自分の至高が戻らなかったようです。二人は彼のマンションに救急車を呼んで、彼にも『しばらく休んだ方が良い』と言いましたが……。


 彼は、その声を聞かなかった。あの体験が恐ろしすぎて、それどころではなかったようです。彼は同僚の女性にしがみついて、二人に今回の事を話しました。このマンションで起こった、怪異を。エレベーターの中で感じた、気配を。包みかくさず話したのです。二人は彼の話に半信半疑でしたが、容態の方が気になって、あとは救急隊の人に彼を任せました。

 

 いやはや、無事? と言うべきでしょうか? とにかく良かった。投稿者の話では、命に別状はないようです。体調の方も、快方に向かっているようですし。その意味では、『良かった』と言えるでしょう。


 ただ、うん。問題は、これからです。? それを突きとめない限りは、事態の解決は望めません。彼女達は彼の両親も呼んだ上で、異常の原因が何なのか? 様々な面から調べはじめました」

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