第1話 背後の視線
「『疲れ』と『ストレス』は、本当に現代人の敵ですね。普段なら聞きながすような音にも苛立ってしまうし、乗り物の速さにも苛々してしまう。正に現代の闇です。闇の中に輝くアレは、残業に嘆くサラリーマンの涙だ。彼も、そんな涙を流していた一人。仲間の失敗を補うため、その尻拭いを任された一人でした。
陰鬱な顔でタクシーの中に乗る、彼。彼はタクシーの運転手に行き先を伝えて、その窓に身体を預けました。ふざけるな。そう呟く声に運転手も驚きます。運転手は彼の声に不安を覚えましたが、その表情から色々と察して、車のバックミラーから視線を逸らしてしまった。
いやはや、タクシーの運ちゃんも大変ですね。最近は変な客も多いですし、下手な事は言えない。『今日は、夜空が綺麗ですね』とか、そんな事しか言えません。運転手は車内の沈黙にオロオロしましたが……まあ、慣れっこなんでしょう。最初は今夜の客にウンザリしていましたが、次第にどうでも良くなりました。運転手は某マンションの前に彼を降ろして、夜の闇に消えていきました。
彼は、そのテールライトを見送った。見送って、自分の部屋に向かった。彼の部屋は、マンションの最上階にあります。そこに行くまでが大変ですが、景色が好きなようですね。彼が住んでいるマンションの近くには、曰く付きのマンションなんかもあるようですが。
そう言うのを信じない彼にとっては、ただのマンションでしかなかったようです。つい数年前には、その近くで殺人事件が起こったのに。女の子が何者かに殺されたくらいでは、その精神が揺さぶられないのでしょう。事実、怖い話の類はまったく怖くないようです。
彼はあまりに疲れすぎて、普段は乗らないマンションのエレベーターに乗ってしまった。マンションのエレベーターは、お世辞にも『綺麗』とは言えません。あらゆる物が、古びています。エレベーターのスイッチも(たまにですが)誤作動を起こしますし、移動の途中で止まるのも普通、挙げ句には呻き声らしき物すら聞える。本当に最低最悪の乗り物でした。
彼は、そんな乗り物が嫌いだった。嫌いだったが、それに乗るしかなかった。残業の疲れが、あまりに酷かったからです。普段なら問題ないマンションの階段も、この時はどうしても登れなかった。彼は無機質な箱の中で、階の数字を眺めていましたが……。
そこでふと、違和感を覚えた。疲れのせいでぼうっとしていただけかも知れませんが、自分の後ろに視線を感じるのです。自分の様子をじっと見ているような、そんな視線をふと感じてしまった。彼は『それ』が怖くて、自分の後ろを振りかえった。
ですが……もちろん、誰も居ない。例の視線はまだ、感じているのにも関わらず。視線の主がどうしても、見つからないのです。彼は『それ』に怖がりましたが、すぐに『これは、相当に疲れている』と思いなおして、エレベーターの中から出ました。
エレベーターの外は、静かだった。通路の照明は点いていましたが、自分の部屋に入るまで、何の音も聞えなかったのです。彼はその事実に怯えながらも、仕事用のスーツを脱いで、簡単な夕食を食べはじめた。異変が起きたのは、その時です。家のチャイムが、ピンポーン。深夜の十二時も過ぎた時間に突然、玄関の呼び鈴が鳴りました。
彼は、その呼び鈴に飛び上がった。『一日の楽しみ』として開けた缶ビールを忘れ、玄関のドアに意識を向けたのです。彼は先程の恐怖も混ざって、頭の混乱を必死に抑えました。だ、誰だよ? そう叫んでも応えません。ただ、家の呼び鈴が鳴らされるだけです。それに『ドンドン』の音が混じって、言いようのない雰囲気を漂わせている。彼の『何なんだよ!』の声にも、無言の抵抗を見せるだけでした。
彼は『それ』が許せなくて、玄関のドアに走りよった。本当は、凄く怖かったのでしょう。得体の知れない物が(それも夜)、自分の家にやって来たのですから。『警察に助けを呼ぶ』と言う事すら忘れていた。彼は玄関のドアを叩いて、その不明な存在に『うるさい! 帰れ!』と怒鳴った。『俺はもう、クタクタなんだ! 仲間の尻拭いなんかさせられて! 上司が止めに入らなきゃ』
そう、殴っていた。そいつの顔面を殴り飛ばしていた。止めに入った上司が、良い人だったから良いものの。そうでなければ、人を殺していたに違いない。それだけ許せない事だった。玄関のドアを開ける、彼。彼は通常の防犯意識を忘れて、その正体不明な相手に挑みかかろうとした。
が、おかしい。彼が玄関のドアを開けた瞬間、その気配が消えてしまった。視界の中にも、マンションの通路しか見られず。そこから辺りを見わたしても、いつもの見慣れた景色しか見られなかった。彼は、その事実に頭を冷やした。そして、同時に怖くなった。
こんなに短時間で動ける人間は、居ない。夜の闇を活かしても、それはほぼ不可能です。一応の確認として、マンションの下を見下ろしても。その視界に入ってくるのは、駐輪場の屋根しかありませんでした。
彼は恐怖のあまり、その屋根をしばらく眺めていましたが……。ある種の現実逃避が働いたのでしょう。家の中に戻ってしまった。彼は夕食の食べ残しも片づけないで、布団の中に潜り込みました。『明日の朝には、すべてが元に戻っている』と信じて。
ううん、怖いですね。異音から始まった恐怖。僕なら絶対に味わいたくありませんが、すいません。お時間の方が来たようです。本当はもっと話したいのですが、今回はここまで。この続きは、次回の放送をお待ち下さい」
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