最終話 晴れた先に
加害者の罪滅ぼし。そう言えば、聞えもいいが。つまりは、「自分の会社に息子を雇った」と言う事だった。息子の人生を聞いて、それに救いの手を差し伸べる。正に善人ぶった悪人が、好きそうな恩返しだった。大抵の人間は、「それは偽善だ」と分かっていても。世間の人々は、「それが素晴らしい事だ」と思っていた。
彼の両親は、その事実が許せなかった。自分達の期待にも応えず、それどころか、その顔に泥を塗った息子。我が一族の恥さらし。彼等は息子の雇い主が家に現われても、相手に最少の礼儀を見せただけで、その善行に謝辞を述べる事はしなかった。「愚息が御迷惑をお掛けして」
相手は、その言葉に眉を寄せた。彼も彼で自分の子どもを持っていたが、これは「流石におかしい」と思ったらしい。彼は相手の
今度は、青年の両親が黙った。今の一言がどうにも、解らなかったらしい。相手が自分達の顔を睨んだ時も、どうしてそうしたのか、その理由がまったく分からなかった。彼等は相手の価値観に疑問を抱いて、それに「意味が分かりません」と応えた。「ダメな息子に呆れるのは、親として当然では?」
加害者の男性は、その主張に顔をしかめた。事故の賠償金は道義上で支払ったものの、その主張にはやはりうなずけない。正直、「異人種」と話しているような気持ちだった。こちらの理屈がまったく通じない人種。それと今、「自分が相対している」と思ったのである。彼は目の前の二人に恐怖を覚えながらも、表面上では「それ」を悟られまいとして、普段の表情を見せつづけた。
「呆れる部分は、分からないでもないですが。それでも、捨てるのはおかしいでしょう? 息子さんは、犯罪者じゃない。社会の理不尽に疲れて、そこからただ逃げただけです。自分なりに戦って、それでも」
「が、ダメなんです。『社会』と言うのは、戦場だ。他人の人生を潰してもなお、自己の利益を最大化しなければならない世界。そうするのが、当たり前の世界。『人間が社会で生きる』と言う事は、『他人の餅を奪う』と言う事です。それが、良いとか悪いとかに関わらず。『幸せ』と言うのは、犠牲の上に成りたっているんです。息子にも、その理屈は話したんですが。息子は……お恥ずかしいですが、ただの凡愚でしかなかった」
男性は、その言葉に「カチン」と来た。彼は、確かに凡人かも知れない。人間としての魅力も、そして、仕事の能力も。傍から見れば、「ごく普通」としか見えなかった。しかし、それでも違う。彼には彼の、彼特有の美徳があるのだ。「人の痛みが分かる」と言う、当たり前の美徳があるのである。それを真っ向から否めるなんて。普通の感覚から言えば、「当然に異常」としか思えなかった。男性はスーツの埃を払って、目の前の二人に向きなおった。
「柏木さん」
「はい?」
「人間に上下は、ありません。悪い人間は、居ますが。それに上下は、無いんです。貴方達がそうであるように。彼もまた、一人の人間なんです。一人の人間には、一人の人格がある。人格は『それ』が悪い物でなければ、当然に尊ばれる」
「わけがないでしょう? 下層は、どこまで行っても下層。『自分には、人権がある』と思っている奴隷です。奴隷に権利はありません」
「なら、貴方達も同じですね? 貴方達も決して、特別な人間ではない。その意味では」
「違います」
「違う?」
「我々は、上級国民です。周りの連中と違って、様々な権利を持っている。貴方も一国の主なら、分かる事でしょう? 会社は、社長のためにあるんです」
男性は、その続きを遮った。本当はまだまだ話したかったが、「これ以上は、無駄だ」と思ったからである。頭が飛んでいる人達には、何を言っても通じない。ましてや、その過ちを正すなんて。凡人の彼には、できない事だった。
男性は名刺入れの中から名刺を抜いて、テーブルの上にそれを置いた。「会社の番号です。息子さんの番号は、教えられませんが。もしも何かあった時は、会社の者が応じます。貴方達の言う、
夫婦は、その提案を拒んだ。名刺のそれは受けとったが、そこに掛けるつもりはないらしい。名刺の内容をチラッとみただけで、あとは箪笥の中に入れてしまった。二人は座布団の上に座りなおすと、男性の顔をしばらく見たが、やがて自分達の足下に目を落としてしまった。
「お帰り下さい。貴方と息子にはもう、会う事はないでしょうから。息子の結婚式も、挙げるかは分かりませんが。もし挙げるとしても、そこには出ないつもりです」
「そう、ですか。まあ、その方がいいでしょう。彼は、柏木さんから巣立った。その経緯はどうであれ、柏木家の呪縛が解かれたんです。それを壊すわけには、いかない。貴方達との絶縁は、彼にもきっと」
男性は二人に頭を下げて、座布団の上から立った。二人も彼に倣って、座布団の上から立ち上がった。彼等は柏木夫婦の導きで、家の玄関に向かった。「それでは」
そう述べる男性に夫婦も「はい」と応えた。夫婦は男性の姿を見送った後も、しばらくは玄関の戸を見つめつづけた。「やれやれ、ああ言う馬鹿には困ったものだよ」
父親はそう言って、妻の顔を見た。妻の顔もまた、彼と同じ表情を浮かべている。「愚行を善行と勘違いしている。真の善行は、『家の繁栄だ』と言うのに。ああ言う人間は、『排他的思考』と言う物を持っていない。だから、苦しむ。世の理不尽を嘆いて、その公平性を願う。まったく困ったものだよ。『座れる椅子は、限られている』と言うのに。彼はきっと、椅子取りゲームに負けるタイプだ」
妻も、その言葉にうなずいた。親同士の取り決めで柏木家に嫁いだ彼女だが、そう言う部分は夫と同じらしい。彼の思想を聞いて、自分も「まったくね」とうなずいていた。彼女は楽しげな顔で、夫の横顔を見はじめた。
「世の中は、競争なんだから。ああ言う善意が、通る筈はない。善意は、悪意の餌食だからね? 良い人は、すぐに死んでしまう。私は清廉潔白な人間よりも、悪徳な人間の方が好きだわ」
夫は、その言葉に吹き出した。妻も、それに釣られた。二人はいつもの選民意識に駆られて、互いの意見に笑いあった。が、そこに複数。二人の笑いを止める音が、聞えた。玄関の戸を打つ水音、それに続いた轟音。雷鳴混じりの豪雨が、突如として降りだしたのである。二人が立っていた玄関にも、その音がすぐに響きわたった。
二人は「それ」に驚いて、家の窓を閉めようとしたが。それもやはり、止められてしまった。二人が玄関の前から歩きだした瞬間、その戸が突如として開いたからである。二人は自動ドアのように開かれる戸を見つめて、その先に立っていた者……つまりは、あの黒い者を見つめた。「あ、あんたは、一体?」
相手は、それに答えなかった。人間の形はしているが、その口が無いからだろう。彼あるいは彼女の呻き声は聞えるが、それも「あ、うううっ」と言う不明瞭な物だった。黒い者は夫婦のところに歩みよって、その二人に襲いかかった。が、息子がそれを知るわけはない。彼は一族の呪縛を離れて、新しい世界に胸を躍らせていた。「疲れたなぁ」
が、嫌な疲れではない。自分の精神を満たすような、そんな感じの疲れだ。自己の魂を癒すような疲れである。彼はその疲れに微笑んで、頭上の空を見上げた。頭上の空は、晴れている。彼の未来を祈るようにそっと晴れていた。
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