第2話 守り神

 目覚めたら朝。それも、ただの朝ではなく。何処かの民家で目覚めた朝だった。彼は自分の上半身を起こして、自分の周りを見わたした。彼の周りには、古民家の内装。いかにも古そうな家具類が置かれた、田舎風の部屋が広がっていた。彼は部屋の存在に驚いたが、今の状況にも「どうして?」と驚いた。「こんなところに?」

 

 寝かされているのか? その答えは、家主(と思われる)のお爺さんが教えてくれた。お爺さんは彼の目覚めが嬉しかったらしく、家の奥からお婆さんを呼んで、彼女と一緒に青年の様子を見はじめた。「気分は、どうだえ?」

 

 青年は、その返事に困った。「大丈夫です」と答えるのは簡単だが、それでは不味いような気がする。相手は(純粋な厚意かも知れないが)あの場所で自分を見つけると、然るべき場所に「それ」も伝えないで、この場所に自分を連れてきたのだ。


 それが原因で、自分が危険に晒されるかも知れないのに。彼等は自分の良心(あるいは、思惑)に従って、この家に自分を運んできたのである。青年はその事実に怯えて、目の前の老夫婦をまじまじと見つづけた。「『良くなった』とは、思いますが? どうして?」

 

 それにはまた、例のお爺さんが答えてくれた。お爺さんは昨日の事を思いだして、それに「まったく」と微笑んだ。「たまたま見つけたんだよ、お前さんが倒れているところをね? いやぁまぁ、たまげたよ。道の真ん中にまさか、人が倒れているなんて。ビックリにも程がある。俺のテクが無けりゃ、危うく轢くとこだったわ」

 

 青年は、その話にゾッとした。。自分はあの停留所で足音を聞いた瞬間、車道の方に倒れてしまったのだ。そこにお爺さんの自動車が通って、自分の事を見つけてしまったのである。お爺さんは彼の体が心配で、この家に彼を連れてきたのだ。


 が、やはり怪しい。先程の疑問ではないが、どうしても「怪しい」と思ってしまった。見ず知らずの人間を助けるからこそ、その警戒心もずっと強い筈である。こんな風に振る舞う筈がない。彼は持ち前の警戒心で、老夫婦の顔を見つめた。老夫婦の顔は、彼の視線に微笑んでいる。彼の視線に苛立つ気配は、見られない。「ありがとう、ございます」

 

 とりあえずは、お礼。その次は、この場から逃げる言い訳だった。「俺はもう、大丈夫ですから。これ以上のご厚意は……その、申し訳ないですし。ちょっと急ぐ用事もあるので」

 

 老夫婦は、その言葉に表情を変えた。特にお婆さんは、見るからに落ちこんでいる。彼の言葉を聞いて、心から残念がっているようだった。老夫婦は互いの顔を見合ったが、やがて青年の顔に視線を戻した。「そうかえ。それは、残念だが……うん。そんでも、朝飯は食べていきんさい。ここ等の山菜は、美味しいけんね。旅の栄養には、持ってこいだ」

 

 青年は、その言葉に戸惑った。が、やがて「分かりました」と折れた。彼は二人への疑問を残した状態で、お婆さんの作る朝食を食べた。お婆さんの作る朝食は、美味しかった。味噌汁の中に入っている具材はもちろん、おかずの山菜も美味しい。普段は炭水化物ばかりの彼が、その朝食を見事に平らげてしまった。

 

 彼は、その朝食に涙を流した。こんな朝食は、食べた事がない。実家の朝食も不味くはなかったが、この朝食には人情が感じられた。彼は「それ」が嬉しくて、自分の涙を何度も拭ってしまった。「美味しい」

 

 そしてまた、「美味しい」とつづけた。青年は自分の人生を振りかえって、そこに暗い物を感じた。自分にはどうやら、こう言う幸せが無かったらしい。「本当にありがとうございます」

 

 老夫婦は、その言葉に微笑んだ。特にお婆さんの方は、ご満悦の様子。それを見ているお爺さんも、彼女と同じ表情を浮かべていた。二人は青年の顔をしばらく見ていたが、彼の涙に好奇心を抱いたようで、彼に「儂等じゃ力になれんかもだが?」と言った。「一種の厄落としとして、儂等にお前さんの中を聞かせてくれんかの? 腹の中に黒い物があっちゃ、せっかくの旅が台無しけん? 心の垢は、落とした方がえぇ」

 

 青年は、その提案に揺れうごいた。朝までの彼ならすぐに「大丈夫です」と答えるが、今はお婆さんの味噌汁に胸を打たれていたからである。二人の正体に疑問はあるが、それでも「吐きだしたい」と思ってしまった。彼は卓袱台の上に茶碗を置いて、二人に自分の人生を話した。あまりに惨めな人生を、夢も希望もない人生を。まるで自分の人生を呪うように吐きだしたのである。


 彼は老夫婦に自分の呪いを話すと、寂しげな顔で卓袱台の上に目を落とした。「馬鹿、ですよね? 本当に。自分でも、ガッカリしています。みんなの期待に答えつづけて、その挙げ句に……。僕は、自分に負けました。社会のみんなに甘えつづけた、自分の人生に負けました。本当は、自分の力で進むべきなのに。僕は他人に自分の人生を預けて、その中身を壊してしまったんです。いやはや、本当に馬鹿ですよ」

 

 老夫婦は、その言葉に眉を寄せた。彼の言葉に苛立っているのか? それとも、別の感情を抱いているのか? 自分が「情けない」と思っている青年には、その真意は分からなかった。老夫婦は青年の顔をしばらく見て、今度は彼の人生を哀れんだ。


「『頑張れ』とは、言えんね? お前さんはずっと、頑張ってきたのに。頑張ってきた人間に『頑張れ』は、禁句や。そんなのは、何の励ましにもならん。お前さんの気持ちを傷つけて、その人生を踏みにじるだけや」

 

 その返事を返せなかった。彼等の言葉は、温かい。それゆえに「辛い」と思ってしまった。他人に自分の人生を思われるのは、自分が思う以上に辛い事なのである。彼は二人の厚意に甘えて、老夫婦にまた頭を下げた。「これで本当に最後」と言う意味を込めて。


「朝ご飯、とても美味しかったです。自分の気持ちが、本当に生きかえった感じで。感謝の気持ちが、止まりません。二人は、命の恩人です。見ず知らずの男を助けてくれて。このご恩はずっと、忘れません。僕が」


 爺さんになっても。この部分は何故か、言えなかった。「自分も歳を取る」と言う感覚がどうも、わかなかったからである。青年は老夫婦の案内に従って、家の玄関に向かった。「それじゃ、お世話になりました。お二人もどうか、お元気で」


 老夫婦は、その言葉に暗くなった。彼との別れが悲しい事もあるが、それ以上に思うところがあるらしい。彼が玄関の戸を開けた時も、黙ってそれを眺めていた。老夫婦は……特にお婆さんは不安げな顔で、不幸な青年に「気を付けてなぁ」と言った。「この辺は、外灯も少ないからね。昼間はまだマジだが、夜になると真っ暗じゃ。泊まれる宿も、無いし。山ん中を抜けるなら、早い方がええぇぞ? それに」


 この辺りには、神様がおる。お婆さんはそう、青年に微笑んだ。まるでこう、彼の未来を案じるように。「。その旅人が無事に歩いていけるように。神様は、旅人の未来を守っておる。道の隅っこに建っている祠や、家々の玄関に擱いてある餅はみんな、神様の存在を表す物じゃ。この家に玄関にも、見てみぃ? 隅っこの方に餅が擱いてあるだろう? そいつは、神様へのご供物じゃ」


 青年は、その返事に迷った。神様が見守ってくれるのはありがたいが、それを素直に信じる事はできない。ましてや、その供物や祠にも手を合わせるなんて。今の彼には、どうしてもできなかった。神様の力でどうにかなるなら、こんな人生など歩んでいない。


 もっとまともな、普通の人生を歩んでいる。自分の思うような、そんな人生を歩んでいる筈だ。会社からも逃げ、家族からも逃げる人生など歩んでいない筈である。彼は「一応の建前」として、神様の供物に手を合わせ、二人の助言に「ありがとうございます」と言った。「道の途中で祠を見つけた時は、その祠にも『手を合わせたい』と思います」

 

 老夫婦は、その言葉に微笑んだ。微笑んだ上で、彼の事を見送った。二人は互いの顔を見合って、その瞳にうなずき合った。「大丈夫かね?」

 

 そう呟いたお婆さんにお爺さんも「大丈夫だよ」と微笑んだ。お爺さんはお婆さんの肩に手を乗せて、玄関の方にまた向きなおった。「最初は、『救急車を呼ぼう』と思ったが。兄ちゃんの話を聞いて、良かったよ。そんなモンを呼んだら、兄ちゃんの家族が飛んでくる。兄ちゃんの人生を壊した家族がね? そいつは、最悪の結末だ。兄ちゃんの旅も終っちまうし、前の地獄にまた戻されてしまう。儂は、鬼にはなりたくないからな? 若モンの将来は、潰したくねぇ」

 

 お婆さんは、その言葉にうなずいた。お爺さんの厚意を喜ぶように。彼女は玄関の餅に手を合わせて、山の神様に祈った。「神様や。あの子は、良い子やけん。どうか、これからも見守ってけろ?」

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