神の加護

第1話 死前(しぜん)旅行

 会社を辞めた。周りの人達からは「辞めない方がいい」と言われたが、精神の方がもう限界だった。病院の薬を飲んでも苦しい。自分の好きな動画を観ても苦しい。元々は好きだった趣味も、今では「億劫おっくう」に思えてしまった。


 彼はそんな現状に呆れて、自分の人生に肩を落とした。「自分はなぜ、生まれたのだろう?」と、そして、「これからはどう、生きよう?」と。自分の中でふと、思ってしまったのである。彼は家の風呂にはもちろん、その寝間着すらも着替えないで、「貯金」と「惰眠」を貪りつづけた。「実家の親には」

 

 言えない。実家の両親は、とても厳しい人達だから。こんな息子を見れば、すぐに「縁を切る」と言われるだろう。彼等はエリート思考の強い人達だから、こんな息子の事は受けいれたくない筈だ。


 自分よりもずっと優秀な、兄の事を重んじる筈である。自分は優秀な兄と比べられて、その家系から追いだされる筈だ。それが自分の、「運命」と言わんばかりに。自分の親族からも、見捨てられる筈である。


 彼はそんな事を思って、今日もベッドの上に寝つづけた。が、それに苛立つのも事実。自分の不幸に重ねて、その理不尽に怒るのも事実だった。「どうして、僕だけ?」

 

 こんな目に遭わなきゃならない? 今までずっと、頑張ってきた俺が。こんな目に遭わなきゃならないのだ? 世間奴等は、あんなにも楽しそうなのに。自分だけがどうして、こんな目に遭わなければならないのだろう? 友人の中にはもう、嫁を貰っている人すら居るのに? 自分だけがどうして? 「うううっ」

 

 彼は自分の怒りに任せて、「その命を絶とう」と思ったが……。そんな度胸は、残念ながら持っていない。自殺の方法は色々と調べていたが、どれもこれも苦しそうで、「それを実際にやろう」とは思えなかった。「首吊りは、怖い。薬物も怖いし、飛び降りも怖い」と。自分の喉を掻き切るのも、考えるだけで「怖い」と思った。


 こうやって飢えていく事にすら、「怖い」と思っているのに。それ以上の恐怖はどうしても、耐えられなかったのである。彼は「死」と「生」の狭間に立って、その決着に悶々としつづけた。そんな彼の心境が変わったのは、ある動画に目が留まった時だった。


 彼は力の無い動きで、その動画をじっと観はじめた。勤め先の会社を辞めた元サラリーマンが、愛用の自転車で日本を回る動画。それをただ、無我夢中で観てしまったのである。動画の内容をすべて観終えた時も、その余韻にしばらく浸りつづけてしまった。

 

 彼はベッドの上から起き上がって、旅の道具を揃えはじめた。今の動画を観て、彼もどうやら行きたくなったらしい。動きの方ははまだ覚束なかったが、鞄の中に必要な道具を入れていく顔は、彼が今まで生きてきた中で最も活き活きしていた。「どうせ、死ぬなら」

 

 好きな事をして、死のう。今までやれなかった事をして。「自分の命を終らせよう」

 

 彼はそう決めて、自分の家を出た。もう、戻らないだろう家を。そして、社会人の地獄が詰まった家を。体力の回復も入れて、その寝床に別れを告げたのである。彼は新品のロードバークに乗ると、朝の空気に深呼吸して、町の道路を走りだした。


 町の道路は、穏やかだった。「休日の朝」と言う事もあって、車もほとんど走っていない。彼が信号機の赤に止まった時も、「夜勤明け」と思われる車が数台通っただけで、道路の利用者がほとんど見られなかった。


 彼は、その光景に息を吐いた。彼等の視線が怖いわけではないが、それでもあまり見られたくはない。正直、「自分だけの旅を楽しみたい」と思った。自分だけの旅なら、自分だけを考えればいい。他人への配慮も、必要最小限で済む。


 相手の了承がどうしても要る場合は別だが、それ以外は「孤独を楽しみたい」と思った。孤独の状態なら、自分だけの世界に入れる。彼はスマホの地図アプリに従って(正確には、所持金の内容に従って)、雨の時には雨宿り、晴れの時には野宿、疲れが溜まった時には安い宿や漫画喫茶を見つけて、彼なりの一人旅を楽しんだ。

 

 が、それを許さないのが一つ。彼の両親だけは、その自由を許さなかった。彼の両親は色々な伝手を使って、息子の現状を調べたのである。彼のスマホに電話を掛けた父親も、彼にその事を問いつめた……だけではない。彼の逃避行を知って、それに「ふざけるな!」と怒鳴った。父親は、息子の愚行を怒った。「この恥知らずが! 遊んでいないで、さっさと働け!」

 

 それに続いて、母親も怒鳴った。父親が彼に怒鳴った瞬間、父親からスマホを奪ったらしい。母親は父親よりも冷たい声で、自分の息子に「あんなに良い会社を辞めるなんて」と言った。「何を考えているの! アンタは、これから偉くなって……。従兄の◯◯君はもう、△△会社の課長よ? 半年前には、□□会社のお嬢さんと結婚して。来年には、赤ちゃんが生まれるわ。アンタは、みんなに孫も見せないつもりなの?」

 

 青年は、その言葉に呆然とした。彼等の言い分も分かるが、それが「正しい」とは思えない。それどころか、「どれだけ勝手なんだ!」と思ってしまった。彼等は自分の意見だけ言って、こちらの意見はちっとも聞かない。


 ただ、「親の意見に従え」としか言っていなかった。「親の意見に従えない子どもは、我が家の中に必要ない」としか言っていなかったのである。青年はその本音を聞いて、両親との通話に「拒否」を選んだ。「分かっていた。分かっていたけど」

 

 やっぱり辛いな。親に愛されないのは、物凄く辛い。今はもう、親に甘えるような歳ではないけれど。子どもの意見を無視する親には、いくつになっても耐えられなかった。彼は鞄の中にスマホを放って、自転車の旅をまたはじめた。


 自転車の旅は、楽しかった。親類からの連絡を拒んだ事で、それを阻む物が居なかったからである。道の途中で見つけた休憩所や、飲食店の中に入った時も、今までに味わった事のない浪漫を感じてしまった。彼はラーメン屋の醤油ラーメンを食べおえると、少しの食休みを入れて、自転車の旅にまた戻った。

 

 が、そこに雨雲が一つ。彼の前進を阻んでしまった。彼が「それ」から逃れた時も、そして、雨よけの下に隠れた時も。景色のすべてを覆って、その旅を阻んでしまったのである。彼は停留所の中に隠れて、午後の雨をじっと待ちつづけた。


 午後の雨は、四時頃に上がった。最初はざあざあ降りだった雨も、三時頃には弱くなって、雲の間からも太陽が見えていたようである。彼は太陽の光をしばらく見たが、今夜の宿を探す意味で、スマホの地図アプリを開いた。「マジかよ?」


 ここら辺、何もないじゃないか? 個人商店や、町の集会所などはあるけれど。それ等以外には、何も見られない。高齢者の住んでいそうな家が、十数軒程あるだけだ。民間の間に飲み屋らしき物は見られても、そこに泊まれそうな気配はまったく感じられない。


 青年はその事実に触れて、自分の頭を掻いた。「雨が上がったばかりだからな。今日一日はたぶん、地面も濡れているだろうし。濡れた地面の上に寝るのは……テントは一応、張るけどさ? それでもやっぱり」

 

 抵抗がある。ずっと昔に買ったテントを引っぱりだしただけなので、野宿のそれに自信が持てなかった。晴れた日の野宿なら行けるが、こう言う日の野宿には「ううん」と悩んでしまう。彼は町に戻るのも中等半端な場所で、夕暮れの空をぼうっと眺めはじめた。「どうしよう? 今から引き返すわけには」

 

 行かない。そう言いかけた彼だったが、道の向こうから足音らしき物を聞いた瞬間、突然の目眩に襲われて、道路の前に倒れてしまった。彼は「雨音」と「足音」の混じったような音に耳を傾けたが、それに合わせて道の向こうから近づいてくる光もぼうっと見つづけた。

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