最終話 雨の中で
雨は、嫌いだ。見ているだけでも不快だし、それが当たるのはもっと不快。靴や服が濡れるのも、本当に嫌だった。少年は憂鬱な顔で、ベッドの上から起き上がった。本当はまだ寝ていたかったが、今日は学校だから仕方ない。窓の外に落ちこむ一方で、学校の制服に着替えた。彼は部屋の中から出ると、家のダイニングルームに行って、自分の両親に「おはよう」と言った。「ふぁあああ、眠い」
両親は、その声に吹き出した。そう言うのはいつもの事だが、それでもやっぱり面白い。息子の性格、特に間抜けな部分が「面白い」と思える。こんな息子がいつか、はないか。いつかの息子も見たかったけれど、今の息子でも充分に面白い。あの頃とまったく変わらない息子は、何年経っても二人の宝物だった。両親は息子の挨拶を返して、彼と一緒に朝食を食べはじめた。「いただきます」
少年も、それに「いただきます」とつづいた。少年は自分の朝食を平らげると、今度は家の洗面所に行って、歯の汚れを落とした。歯の汚れは、すぐに落ちた。元々荒っぽい磨き方だったが、雨の憂鬱も手伝って、自分の歯をさっさと磨いてしまったのである。少年は両親のところに戻って、その二人に「行ってきます」と行った。「今日も、遅くなるから」
両親は、その言葉に微笑んだ。特に母親は、何度も「うん、うん」とうなずいていた。二人は息子の背中を見送ると、さっきの場所に戻って、椅子の上に座りはじめた。「行っちゃったね?」
そう呟く妻に夫も「そうだな」とうなずいた。夫は彼女の湯飲みにお茶を注いで、妻の顔に向きなおった。妻の顔は、息子の外出に潤んでいる。「今日も、行ってしまったよ」
妻は、その言葉に泣きだした。テーブルの上に突っ伏して、今の一言に叫んでしまったのである。彼女は夫の声を聞いてもなお、その涙を決して止めようとしなかった。「なんで? どうして? あの子は」
死ななきゃならなかったの? 「あの子は、京子ちゃんを守ったのに? その命をどうして?」
彼女は悔しげな顔で、テーブルの上を叩いた。その上に乗っている湯飲みが倒れても構わない。自分の怒りが収まるまでは、その拳をどうしても止められなかった。彼女は夫の制止を受けて、その拳をどうにか止めた。「あの子がなんで、死ななきゃならないの?」
夫は、その質問に答えなかった。本当は「分からない」と答えたかったが、それはあまりに残酷すぎる。彼女の悲しみに追い打ちを掛けるような物だった。夫は彼女の後ろに行って、その背中をそっと摩った。「すべては、ストーカーの所為だよ。京子ちゃんの事を付きまとっていた、そいつがすべて悪い。京子ちゃんが、今もそれに苦しんでいるのも」
妻は、その言葉に胸を痛めた。確かにそうである。自分も息子の死が苦しいが、彼女はそれ以上に苦しい筈だ。「自分の所為(ではないが)で、息子が死んだ」と思えば、今も「それ」に苦しんでいる筈である。彼女は彼女の気持ちを思って、自分の涙を拭った。
「京子ちゃん、今日も来るかしら?」
「たぶんね? でも今日は、『少し遅れる』と思うよ。今日は、アイツの命日だからね? 家よりも先に」
お墓の方へ行っているじゃないかな? そう考えた彼の予想は、見事に当たっていた。彼女は「彼の一周忌」として、その墓に行っていたのである。自分の右手にビニール傘を差して、墓の前に立っていた。彼女は墓の前にしゃがんで、かつての幼馴染に手を合わせた。
「あれから一年だね? 最初の頃はずっと、うんう、今でも辛い。あの日を思い出すと、今でも辛いんだ。◯◯君が、私を
そこからはもう、嗚咽しか出なかった。本当は、叫びたい。あの日に戻って、かつての自分に怒鳴りたい。「自分が彼に助けを呼ばなければ、彼は死なずに済んだのだ」と、そう声高に叫びたかった。
が、それも叶わない。失われた命は、どう頑張っても返らなかった。死んでしまった人は、どんなに願っても帰ってこない。彼女は自分の過去を呪って、目の前の墓石にまた祈ってしまった。「どうか、安らかに眠ってください。私の事は忘れて、自分の来世を考えてください。◯◯君の魂が安らぐ意味でも。これからは、自分の事を大事に」
するのは、正しいかも知れない。一人の命を助けた以上は、「そうするのが一番だ」と思った。彼の来世を考えても、「それが最善の事」と思ったのである。が、現実は非情だ。彼女がどんなに祈っても、彼の魂が癒される事はない。自分が死んだ事にも気づかないで、その魂を漂わせるだけだった。
彼はあの日、あの
京ちゃん、ではない。三河京子は、その声に「ハッ」とした。聞えない声に驚いて、その声に振りかえってしまったのである。彼女は声の気配を探って、自分の後ろをしばらく見つづけた。「◯◯君……」
ごめんね、本当にごめん。私があの時、貴方を呼ばなければ。貴方は今も、私の隣を歩いていた筈なのに。その可能性を、だけではない。貴方の想いも壊してしまった。貴方と同じ、私の想いも壊してしまった。貴方と同じくらいに「好きだ」と言う気持ちも。私はこの手で、壊してしまったのである。「私が、私だけが死ねばよかった」
彼女は墓の前から離れて、幼馴染の家に行った。幼馴染の家では、その両親が彼女を待っていた。彼女は幼馴染の両親に頭を下げると、努めて冷静に、でも悲しげな顔で二人に自分の将来を話しはじめた。「死んだ彼に代わって、自分が二人に希望を見せよう」と思ったからである。それで彼が生きかえるわけではないが、「それでも進んでいきたい」と思ったからだった。
彼女は二人に自分の夢、つまりは「医療の道に進む事」を話した。「私は、彼に救われました。あの日、雨の降る中で。私は今も、だから! 今度は、私が救いたい。誰かの命を、『助けて』と叫ぶ声を。今度は、私の手で助けたいんです」
彼の両親は、その言葉にうなずいた。特に母親は、泣きくずれる程に泣いてしまった。二人は彼女の手を握って、彼女に「あの子の分まで生きて欲しい」と言った。「死んだあの子の分も」
京子も、それに「はい」と言った。彼女は家の仏壇にも手を合わせたが、外の雨が止みはじめたので、彼の両親に「そろそろ、帰ります」と言った。「雨がまた、降ってくる前に」
彼の両親は、その願いにうなずいた。本当は彼女と息子の話がしたかったが、「今日は、彼女の気持ちを重んじよう」と思ったからである。二人は家の玄関まで彼女を送ると、彼女に「また、来てね?」と言って、その返事に頭を下げた。「あの子もたぶん、待っているから」
京子は、その言葉に微笑んだ。今は居ない、かつての幼馴染を思って。玄関の中から出ていった後も、穏やかな気持ちで彼の事を思っていた。彼女は両目の涙を拭って、雨音の消えた道路を歩きはじめたが……。それも二、三歩、ある電柱の前を通った時に止まってしまった。自分の物ではない足音。足音は道路の水溜まりを踏んで、彼女の後ろをずっとつけていた。
京子は、その音に立ち止まった。音の響きに懐かしさを感じたからである。彼女は「不安」と「恐怖」を抱いて、自分の後ろを振りかえった。自分の後ろには一人、あの中年男性が立っている。どう言う理屈で居るのかは分からないが、あの時と同じ表情を浮かべていた。
彼女は「それ」に驚いて、彼の前から逃げだそうとしたが……。相手の方がどうやら、一枚上手だったらしい。彼女としては全力疾走のつもりだったが、彼女が男の前から逃げだそうとした時にはもう、男に自分の体を捕らえられていた。彼女は相手の手に怯えて、その腕を何とか振りはらおうとした。「う、うううっ、止めて! お願い! いやぁあああ!」
助けて、◯◯君。「助けて!」
彼女は、男に首を絞められた。また降りだした、雨の中で。
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