雨と足音

第1話 雨とストーカー

 雨は、嫌いだ。靴は濡れるし、服も汚れる。良い事なんて、一つもない。湿っぽいズボンに溜め息をつくだけだ。それから上着を脱いだ時も、ワイシャツの感触に「うっ」となるし。雨の降っている平日は、どんな時間よりも苦痛だった。


 少年は学校から家に帰ると、洗濯機の中にワイシャツを放って、自分の部屋に向かった。彼の部屋は二階、そこの左側にある。彼は部屋の中に入ると、机の脇に鞄を置いて、ベッドの上に寝そべった。「ああ、もう」

 

 ムカつく。朝の時は、あんなに晴れていたのに。学校の部活が終った瞬間、空の天気が泣きだしてしまった。彼は透明のビニール傘を差して、雨に濡れる道路を歩きだした。道路はずっと、濡れつづけた。


 雨の勢いは弱まったものの、その小雨が道路を濡らしつづけたからである。彼が自分の家に着いた時も、その勢いを弱めただけで、地上のそれをずっと濡らしつづけていた。彼は部屋着に着替えて、部屋の窓から外を眺めた。「まだ、降っている」

 

 雲の隙間からは、太陽の光が漏れているのに。それ以外はみんな、雨の世界に包まれていた。彼は雨の世界に憂えて、外の景色から視線を逸らそうとしたが……。あの建物が、例の事故物件が、その意識をすっかり奪ってしまった。「サラリーマンの男性が、変死した」と言う家、賃貸マンションの◯階△△△室。


 マンションのそれ自体は普通だが、その部屋だけは(無関係な彼が見ても)不気味だった。部屋の玄関はもちろん、その空気が変に淀んでいる。普通なら何も思わない家が、夕方の空気も相まって、とても不気味に見えていた。

 

 少年は、その部屋から視線を逸らした。部屋への興味が消えたわけではないが、とにかく見たくない。あのマンションに住んでいる同級生も、「あの部屋には、近づきたくない」と言っていた。


 少年は窓のカーテンを閉めて、夕食の時間を待った。夕食の時間は、七時だった。それくらいに父が会社から帰ってくるので、家の夕食もそれに合わせているのである。彼は家の一階に降りると、スーツ姿の父に「お帰り」と言って、父と一緒に今日の夕食を食べはじめた。「いただきます」

 

 それを聞いて、母も今日の夕食を食べはじめた。母は夕食の味噌汁を啜って、家族との会話を楽しみはじめた。「そう言えば、また出て行ったそうよ? あのマンションから」

 

 少年は、その話に表情を変えた。せっかく忘れかけていたのに。母がそう言ったせいで、あの部屋また思い出してしまった。少年は不機嫌な顔で、母の会話を遮った。そう言うのは、食事時に止めて貰いたい。「もっと楽しい話しようよ? 幽霊の話なんて」

 

 ご飯が不味くなる。そう言いかけた少年だったが、母に「それ」を阻まれてしまった。彼は「怖い話」が嫌いなようだが、母の方はそうでもないらしい。彼が真向かいの父を「味方につけよう」としても、それを自分の方に付けて、父と一緒に「怖い話」を話しはじめてしまった。


 少年は、その光景に溜め息をついた。こうなったらもう、止められない。息子の自分を忘れて、二人の世界に入るだけである。少年は自分の主張を諦めて、今日の夕食を黙々と食べつづけた。「ごちそうさまでした」


 その返事は、「お粗末様」だった。父との会話に盛り上がっていた母だが、そう言うところはしっかりしているらしい。息子がキッチンの流し台に食器類を持っていった時も、それに「ありがとう」と笑っていた。母は息子の背中を見送って、彼に「お風呂できているから、入っちゃいなさい」と言った。「アンタ、雨の日は一番風呂でしょう?」


 少年は、その返事に戸惑った。確かにそうだ。天気の悪い日はいつも、一番風呂である。それ以外の日は父が一番風呂だが、今日のような日はいつも一番に入っていた。少年は少しの食休みを入れて、家のお風呂に入った。家のお風呂は、気持ちよかった。雨の湿り気とは違って、体のすべてが温かい。頭の上にお湯を掛けるのも、学校のプール以上に気持ちよかった。


 彼は湯船の中から出ると、脱衣所のバスタオルで体を拭き、いつもの寝間着に着替えて、自分の部屋に戻り、部屋の電気を点けて、机の前に向かった。学校の仮題をやらなければならなかったからである。学校の課題は数学と、そして、彼の苦手な英語だった。彼は数学の問題をすぐに終らせて、英語の問題集を開いた。「はぁ、めんどう」


 英文の穴埋め問題とか、死ぬ程嫌だった。問題集の解答を見れば、その答えもすぐに分かるが。あまりに写しすぎると、英語の先生にズルを疑われた。少年は英文の和訳に合わせて、その穴埋め問題を黙々と解きつづけた。


 が、そこに一つの妨害。机の上に乗せていたスマホが、「ブルブル」と鳴りだしてしまった。少年は問題集の上にシャープペンを置いて、自分のスマホに手を伸ばした。「誰だよ? こんな時間に?」

 

 そう愚痴った彼だが、すぐに「あっ」と驚いた。彼が点けたスマホの画面に「幼馴染」から連絡が入っていたからである。自分の好きな相手から「連絡が来た」となれば、この面倒な時間も面倒にならなくなった。好きな女子からの連絡はいつだって、男子の心を高ぶらせる。彼は興奮気味な顔で、相手の電話に出た。「もしもし?」

 

 相手は、その声に応えた。彼の大好きな声で、それに「こんばんは?」と応えたのである。彼女は少しの沈黙を入れると、今度は彼の様子を聞いて、彼に「今、大丈夫?」と聞いた。「何かやっていた?」

 

 少年は、その質問にうなずいた。普段なら「ゲーム」と答えるところだが、相手が女子(しかも、片思いの相手)であるため、どうしても「格好付けたい」と思ったらしい。机の教科書に目をやって、受話器の向こうに「今、学校の仮題をやっていた」と言った。「とても疲れる」

 

 少年は、スマホの送話器に溜め息をついた。まるでそう、相手の笑いを誘うように。「やれやれ」とがっかりしては、彼女の反応を楽しんだのである。少年相手の声に喜ぶと、今度は彼女に「そっちは?」と聞きかえして、彼女の状況を確かめた。「京ちゃんも、課題をやっているの?」


 その返事は、すぐに返ってこなかった。彼がまた、彼女に「どうしたの?」と訊いた時も同じ。不気味な沈黙を保っている。彼女は夜の静寂に混じって、彼に「気のせいかも知れないけど」と話しはじめた。「

 

 少年は、その言葉に黙った。いや、黙ってしまった。自分の幼馴染がまさか、ストーカーの被害に遭っているかも知れないなんて。「驚くな」と言う方が無理だった。彼は努めて冷静に、でも不安な顔で、彼女に「いつから?」と訊いた。「そいつに付きまとわれているの?」

 

 その答えは、「一週間くらい前」だった。京子ちゃんは内容の説明に戸惑ったが、少年が彼女に「無理しなくていいよ?」と言うと、それに覚悟を決めたようで、彼に「塾の帰りから」と話しはじめた。「ずっと付かれているの」

 

 最初は自分の、「気のせいだ」と思ったらしい。帰り道が同じ友達と歩いていた時は別に感じなかったが、その友達と別れると、道路の角を曲がった辺りで、自分の後ろに気配を感じはじめた。彼女は、自分の後ろを振りかえった。が、彼女の後ろには誰もいない。「おかしいな?」と思ってまた振りかえってみたが、それでも誰の姿も見られなかった。


 彼女は後ろの気配に首を傾げて、自分の正面にまた向きなおった。「確かに『居た』と思ったの、自分の後ろから足音が聞えて。その日は、朝から雨が降っていたから。私の足音に合わせて、その足音も……。足音は、私が自分の家に帰るまで聞えつづけた」

 

 ねぇ? 彼女は消えいりそうな声で、彼にそう言った。それを聞いた少年が、不安に思ってしまう程に。「今から来られる、私の家に?」

 

 少年は、その言葉に目を見開いた。それは、あまりに突然すぎる。今の話を聞いて、ストーカーを怖がる気持ちも分かるが。それを抜きにしても、この誘いはあまりに唐突だった。少年は相手の返事に戸惑う一方で、「彼女の力になりたい」とも思いはじめた。


 好きな人の悩みには、できるだけ応えたい。彼は鞄の中に荷物を突っ込むと、母親に事情を話して、京子ちゃんの家に向かった。「京子ちゃん、来たよ」


 京子ちゃんは、その声に喜んだ。少年が彼女のスマホに連絡を入れた瞬間、玄関の扉を思いきり開ける程に。彼女は少年の体に抱きついて、その胸に顔をうずめた。「ううっ、良かった。良かったよぉ」


 少年は、その言葉に赤くなった。好きな女の子にそう言われるのは、どうしても嬉しくなってしまう。胸の辺りから伝わる柔らかい感触にも、少年らしい情動を覚えてしまった。少年は自分の欲望を制して、家の中に彼女を導こうとしたが……。その瞬間にふと、妙な音を聞いてしまった。


 。それを今、暗闇の中に聞いたのである。少年はその音に震えたが、「京子ちゃんの安全が第一」と考えて、その音をすっかり無視してしまった。「さあ、入ろう? 雨も強くなったから」

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