最終話 幽霊よりも金

 次の家は、普通の家だった。「心理的瑕疵」も無い、普通の家。家賃も敷金もまともな、普通の賃貸マンションだった。彼は「お金の方は仕方ない」と思いつつも、もう一方では「あの家に比べれば、ずっとマシ」と思った。格安事故物件に比べれば、どんな家も豪邸である。


 彼はマンションの持ち主にお礼を、その管理人にも挨拶を済ませて、自分の新しい家に向かった。新しい家は、マンションの三階にあった。三階の一番端っこ、その隣に非常階段がある部屋である。

 

 彼は玄関の鍵を開けて、その中にゆっくりと入った。玄関の中は静か、家の中も玄関と同じくらいに静かだった。引っ越し業者が運んだ家具類も、自分の決めた場所にきちんと置かれていたし。窓から見える外の景色が殺風景な事を除いては、本当に住みやすい家だった。彼は床の上に手荷物を置いて、椅子の上にそっと腰かけた。「ううん、いい」

 

 最高。部屋の日当たりが少し悪いが、それ以外は本当に快適である。4Kテレビの映像も良いし、それを観ながら食べるご飯も美味い。風呂の中では思わず寝そうになったが、湯船の中に顔を突っ込んだお陰で、間抜けな失態を起こさずに済んだ。彼は風呂上がりの一杯を決めて、使い慣れたベッドの上に寝そべった。「はぁ」

 

 そんな風に溜め息。そして、数秒後には寝息を立てた。彼は、久しぶりの安眠に酔いしれた。が、その夢がおかしい。夢の内容は至って普通だが、その雰囲気がどこかおかしかった。彼は「これは、夢だ」と分かりながらも、そこから抜けだす事はおろか、その内容をじっと見てしまった。


 ……夢の内容は、あの部屋。つまりは、部屋の中を映した内容だった。部屋の中には幽霊達が、老若男女の亡霊達がさまよっている。彼等は生前の記憶か、あるいは、未練か何かに頼って、部屋の中を歩きまわったり、浴室の扉を開け閉めしたり、寝室の扉を「ドンドン」と叩いたり、周りの壁を「ガンガン」と殴ったりしていた。

 

 青年は、その光景に震え上がった。あの部屋にこんな、恐ろしい奴等が居たなんて。すぐには、信じられない。「幽霊なんていない」と息巻いていた自分が、「本当に愚かだ」と思った。こんな家に住みつづけたらきっと、自分の精神が壊れてしまう。彼等のように狂って、その命が奪われるに違いない。


 彼はそんな可能性に震えて、「この夢からすぐに覚めたい」と思ったが……。それを許さない亡霊をつい忘れていた。亡霊は決して、逃がさない。部屋の真ん中に立って、彼の事をずっと眺めていた。亡霊は、彼の目を睨んだ。「ドウシテ? ドウシテ?」

 

 オイテイッタノ?


「ネェ? ネェ? ネェ?」


 アナタノ事、ケッコウ気ニ入ッテイタノニ?


「ドウシテ、私ヲ置イテイッタノ?」


 幽霊は恨めしそうな顔で、彼の前に歩みよった。一歩、また一歩と、彼の精神を蝕むように。その爛れた顔を光らせて、彼の前にどんどん詰めよった。幽霊は彼の首に触れると、悲しげな顔でその喉元を締めはじめた。「ッテ、ッテ、ッテ」


 私ノトコロニ来テ? 私、独リデ寂シイノ。「だから、今すぐに逝って!」


 青年は、その声に怒鳴った。本当は恐怖でいっぱいだったが、「ここで諦めたら死ぬ」と思ったからである。生きた人間に殺されるのも嫌だが、死んだ人間に殺されるのはもっと嫌だ。死人にはずっと、寝ていて欲しい。彼女の無念を蔑ろにするかも知れないが、「ここは、自分の命が第一だ」と思った。


 自分が死ねば、色んな人が泣く。

 人の悲しむ顔は、見たくない。


 青年は幽霊の手を何とか振りはらって、彼女に「アンタを恨んではいない!」と叫んだ。「でも、そのままじゃダメだ! 俺には、俺の人生がある。アンタがそうであったように、俺にも生きる義務があるんだ! 自分の義務を果たすまでは、そっちの世界に行けない! だから、諦めてくれ!」

 

 幽霊は、その言葉に止まった。彼の怒声を聞いて、本来の理性を取りもどしたのかも知れない。彼が幽霊に「帰れ!」と叫んだ時も、それに「う、ううう」と唸っていた。幽霊は悲しげな顔で、青年の目を睨んだ。「ヒドイ、ヒドイ、ヒドイ」


 貴方も、みんなと一緒……。死んだ人間を見捨てる。「生きている人はみんな、冷たい」


 青年は、その言葉に黙った。相手に一瞬だけ同情を抱いてしまったから。幽霊が消える瞬間にも、それを黙って見てしまった。彼は夢の中から抜けだしてもなお、真剣な顔で彼女の不幸を思いつづけた。


 それゆえに祈ったのかも知れない。「彼女の気持ちがどうか、鎮まるように」と、そう祈ったのかも知れなかった。青年は近くの酒屋に行き、そこで高い日本酒を買うと、自分の家で簡単なツマミを作り、テーブルの上にそれ等を置いた。


 今の自分にはこれくらいしかできないが、それでも「やらないよりは、マシ」と思ったからである。「俺は、普通の人間だからな。こう言う事しかできないけど。ずっと怖がるよりは、良い。アンタの趣味は分かんないが、今日は俺の娯楽に付き合ってくれ」


 酒は、日頃の不満を吹っ飛ばす。生きた人間にも効く酒なら、死んだ人間にも効く筈だ。酒の席では、どんな人間も無礼講である。彼は「幽霊の弔い」として、二人分のお猪口に日本酒を注ぎ、最初は会社の愚痴から始まって、次に幽霊の冥福を祈りはじめた。「?」

 

 今の自分は忘れてさ、新しい自分を楽しめ。新しい自分はきっと、今の自分よりも良い。生きる事は決して、楽な事ではないけれど。自分の闇に捕らわれるよりは、ずっと良い。人間には、幸福追求権があるんだからな。他人様に迷惑を掛けないのなら、自分の幸せを求めても良い。「死ぬ」って言うのは、その権利を棄てる事だ。「本当のアンタはたぶん、そんな馬鹿じゃないだろう? 恨み辛みじゃ、幸せになれない」


 青年は自分の酒を呷って、その味を噛みしめた。が、どうも美味しくない。日本酒はあまり飲まない方だが、それでも「美味しい」とは思えなかった。普通なら感じるアルコールの味が、今は妙に鉄っぽくなっている。青年は「それ」に首を傾げたが、「酔いが回ったのか?」と思って、自分のお猪口を空け、相手のお猪口も代わりに呷って、一人だけの酒盛りを楽しみつづけた。


 が、それにも違和感がある。視界のそれが歪んだ事もあるが、部屋の空気も淀んでいるように思えた。テレビの映像はもちろん、その音もおかしい。「映像」と「音」の間に水が流れて、それが膜を作っている感じだった。夢と現実を掻き混ぜる膜。それが今、自分の周りに広がるような感覚を覚えたのである。

 

 青年は「それ」によろけて、自分の酔いを疑ったが……。それはどうやら、間違いだったらしい。目の前の視界が沈んだのも、視界の先に彼女が視えたのも。みんな、紛れもない事実だった。彼は目の前の幽霊に怯えて、今の状況を悟った。「そう、かよ。お前は」


 。家具の何処かに潜んで、この部屋にやって来たのか? 「俺の命を奪おう」として。青年は、その事実に苦笑した。それがもし、事実ならば。酒の味が変だった理由も、分かる。あの鉄っぽい味は、。血の鉄分が、酒の中に混ざった味。それが、お猪口の中に入っていたのである。彼は酒の真実を知って、自分の人生に肩を落とした。「助からないのか、俺」

 

 あの場所から逃げても、その運命からは逃げられないのか? 青年は部屋の壁にお猪口を投げて、床の上に寝そべった。どうやら、「もういいや」と諦めたらしい。彼は迫りくる幽霊に任せて、自分の最期を嘆いた。


 

 そんな事があってから数年後。ネットの掲示板では、これの後日談らしき物が書かれていた。彼は件の幽霊に殺されて、だけならいいが。今も、あの部屋をさまよっているらしい。あの部屋に居座って、部屋の入居者達に「出テイケ」と唸っている。「ココニハ、怖イ奴ガイル」と、そう夜に囁いていた。


 彼は新しい入居者達を追い払うと、今度は部屋の管理会社に「ドウシテ入レタ? ココハ、事故物件ダゾ?」と言って、心理的瑕疵の危険性を訴えた。が、それで止める管理者ではない。彼等にもまた、日々の生活があるから。その物件が普通に売れる以上、今の部屋の売買を止めるわけにはいなかった。


 管理会社は部屋の入居希望者達に「これ」を話した上で、彼等の承諾を得ていたのである。「説明の義務は、ないのですが。一応の儀礼としてね、希望者の方々には話しているんですよ。『ここは、危ない事故物件』とね? 実際、出ていく人も多いですから」

 

 希望者達は、その話を怖がった。そう言うのに疎そうな人間ですら、話の最後には「やっぱり止めます」と言った。彼等は「お金」よりも「自分の命」を重んじて、入居の意思を覆してしまうが……。


 それでも一部の者達は、「自分の命」よりも「お金」を重んじてしまった。かつての青年がそうであったように。彼等もまた、「幽霊」よりも「自身の欲」を重んじてしまったのである。彼等は「幽霊否定論」も手伝って、契約の書類に判子を押してしまった。「別にいいですよ? 俺、幽霊を信じていませんから」

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