第2話 悪夢の理由
どうやら夢らしい。「現実」とは違う感覚があるし、夢の中で「これは、夢だ」と分かっている。目覚めた場所は自分の部屋だったが、窓から差し込む夕日がいつもと違って見えていた。
普段は「温かい」と感じる夕日が、今は「冷たい」と感じる。窓の外から聞えてくる音も、まるで水の中から聞えてくるようだった。すべてが透きとおっているのに、すべてが籠もっている感じ。通りを歩いている人達の声が、何だか不穏に感じられた。
信夫は「それ」に震えて、床の上から立ち上がった。「ここに居ては、行けない」と、そう本能の内に感じたからである。この夢から目覚めなければ、自分はきっと助からない。あの幽霊に連れられて、向こうの世界に逝ってしまう。「そうなったら!」
彼は、部屋の中から飛びだした。部屋の中が怖くなったわけではないが、とにかく逃げだしたくなったからである。彼は家の廊下を走って、母が居るだろう調理場に向かった。調理場には、誰も居なかった。いつもなら夕食を作っているだろう母が、どこを捜しても見当たらない。家のトイレはおろか、テーブルの上に書き置きすら残していなかった。
信夫はテーブルの前にしゃがんで、自分の頭をまた抱えた。「そんな、酷い。お母さん、どこに行ったの?」
一人になりたくない。そう思った瞬間に聞えてきたのは、玄関のドアノブが「ガチャガチャ」と鳴らされる音だった。誰かがどうやら、帰ってきたらしい。最初は「お母さんが帰ってきた」と思ったが、ドアノブのガチャガチャ音が激しくなった事で、「これは、母以外の人間かも知れない」と思った。
彼の母は、そんな風にはしない。今日は(信夫が寝ている事もあってか)玄関の鍵を掛けていったらしいが、普段は出かける時に鍵なんか掛けないし、買い物から帰ってきた時には「ただいま」と言っていた。無言の状態で、しかもガチャガチャなんかしない。家の合鍵を持っている、彼の父親も同じだ。父親は急用でもない限り、こんな時間に帰ってこない。「そ、それなら!」
考えられる事は一つ、アイツがこの家にやって来たのだ。信夫の家を知って、その玄関に「やあ」とやって来たのである。信夫は「それ」に震えて、家の奥に走った。家の奥には、物置部屋がある。部屋の中は少し埃っぽいが、「幽霊に◯されるよりはマシだ」と思った。「いざ」となれば、棒か何かを武器にすればいい。
彼はそんな風に考えて、物置部屋の中に隠れた。部屋の扉にも、鍵を掛けて。「これだけじゃ、不安だ」と思った時は、扉の部分に支え棒を付けた。彼は部屋の一番奥に隠れて、家の音に耳を澄ませた。家の音は、静かだった。玄関の扉が「ガチャリ」と開いた以外は、何の音も聞えてこない。耳の痛くなるような静けさだけが、部屋の扉越しから聞えてきた。
彼は、それに体を震わせた。「どんなに静かだ」としても、鍵が開けられたのは確かだからである。「玄関の鍵が開けられた」と言う事は、「アイツが家の中に入った」と言う事だ。家の玄関から入って、信夫の事を捜しているに違いない。そうでなければ、扉の外に嫌な気配を感じない筈だ。アイツは今も、自分の事を捜している。扉の向こうから足音が聞えてきたのは、それを裏づける確かな証拠だった。
信夫はその音に怯んで、自分の両手を合わせた。それが効くかどうかは別にして、「幽霊には、
が、それで落ちつく筈はない。付け焼き刃の読経では、何の気休めにもならなかった。彼は家の中から消えてくる音、家の廊下を歩く音や台所の調理道具を動かす音、浴室の扉を開け閉めする音や廊下の明かりを点ける音、それ等が「ふっ」と消える音に泣きつづけてしまった。「もう嫌だ、許して! 許して下さい!」
そう叫んだのが不味かったのか? 今までは遠くにあった音が、この部屋に向かって動きはじめた。信夫は、その音に固まった。「あの音がこっちに向かっている」と言う事は、「相手に自分の居場所を知られた」と言う事である。部屋の扉が「ガチャガチャ」と揺らされたのも、相手が自分の居場所を知って、この場所にやって来たからだった。信夫は扉の方に走って、その内側を「グッ」と押しつづけた。「帰れ、帰れ、帰れ!」
もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だ。彼は目の前の扉をずっと押しつづけたが、扉の向こうから力を感じなくなると、それに「どうしたんだろう?」と驚いて、扉の前から下がってしまった。「帰ったのかな? アイツ」
自分の事を諦めてくれたのかな? そう思った瞬間に現われたのは、あの恐ろしい幽霊だった。幽霊は彼の左側に座って、その横顔をじっと眺めている。彼が「それ」に驚いても、その場にじっとしゃがみつづけた。幽霊は少年の手を掴んで、床の上から立たせた。「ア、アァアアアア」
人の声ではない、人の声。人間の声を忘れた、人間の声である。信夫は「それ」に怯えて、幽霊の手を振りほどこうとしたが。子どもの手で、幽霊の手を払えるわけがない。それどころか、「ぐいぐい」と引っぱられてしまう。少年の質量を無視して、床の上をずるりずるりと、だが強引に引っぱられてしまった。
信夫は必死の抵抗も虚しく、物置部屋の中から引っぱられて、床の上も「ズルズル」と引かれて、家の外に放りだされてしまった。「うっ、ぐっ、あっ」
お願いします! 相手にそう、叫んだ。「もう許して下さい!」と、そして、「何でも言う事を聞きますから!」と。子どもの涙を出して、叫びつづけた。彼は幽霊に自分の手を捕まれていてもなお、真剣な顔で目の前の幽霊に謝りつづけた。「お願いします!」
幽霊は、その声に力を緩めた。彼の訴えを聞いたのかは分からないが、手の力は緩めてくれたらしい。彼が地面の上に倒れた時も、その様子をしばらく眺めるだけで、彼に「危害を加えよう」とはしなかった。幽霊は彼の手を握って、今度は幽霊の方から「オネガイ」と頼みはじめた。「ミツケテ、ミツケテ」
信夫は、その言葉に顔を上げた。恐怖はまだ消えていなかったが、それに幾分かの思考を取りもどしたらしい。彼は幽霊からギリギリ逃げられる距離を取って、幽霊に「な、何を見つけるの?」と訊いた。「僕、何も知れないよ?」
幽霊は、その言葉を無視した。言葉の意味は分かっているらしいが、それに腹を立てたようである。少年の怒声も、すべて聞きながした。幽霊は少年の前に近づいて、彼にまた「オネガイ、オネガイ」と訴えた。「ミツケテ、ミツケテ」
信夫は、その言葉に息を整えた。「オネガイ」と「ミツケテ」の言葉からは、懇願の意思が感じられる。自分の事を呪うような、そんな殺意は感じられなかった。少年は最低限の警戒心だけを残して、幽霊の顔に向きなおった。幽霊の顔は、思った以上に穏やかである。表情の方も柔らかで、髪の長い女性である事も分かった。
信夫は、目の前の女性を眺めた。自分よりも十才くらい年上の女性を。
「何を見つけるの?」
「ワタ、シ」
それは、目の前の居るのでは? そう思いかけたが、それもすぐに思いなおした。彼女は、幽霊。この世の者ではない存在である。幽霊の彼女が、自分自身を捜す筈はない。生前の、生きていた頃の自分を捜す筈である。そう考えると、彼女の言わんとする事も分かった。彼女が欲している事、その願いも読みとれた。
彼女は、自分の亡骸を捜している。恐らくは、普通には死ねなかった死体を。今もこうして、「それ」を捜しているのだ。「僕のところに来たのは、僕が貴女を視られたからだね? 溜め池の前に居た、貴女を。貴女はただ、溜め池の周りを彷徨っていただけだった」
幽霊は、その言葉にうなずいた。まるでそう、今の言葉を待っていたように。彼女は少年の手を握って、その甲に涙を落とした。「オネガイ、ミツケテ」
信夫は、その言葉にうなずいた。今度は、彼女の憂いを感じるように。彼は相手の手に触れて、その涙を拭った。「分かりました、一緒に捜しましょう?」
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