溜め池の影

第1話 溜め池の幽霊

 農業用水のために造られた、溜め池。家の母から聞いた話では、それがあの溜め池らしい。畑の真ん中に「ぽつん」と建って、その下部には塩ビ管が設けられた。少し高い塀が不気味であるものの、それ以外は本当に普通で、夜に家の窓から「それ」を見なければ、特に怖がるような物ではなかった。あんな物は、どこにでもある。「怖い」と言う概念で見れば、怖い話の方がずっと怖かった。

 

 彼は窓のカーテンを閉めて、部屋の机に向かった。机の上には、学校の宿題が置かれている。今日の授業で習った、小学五年生の算数。その学習プリントが、無記名の状態で置かれていた。彼は最近買いかえた筆箱の中から筆記用具を取りだすと、プリントの氏名欄に「杉田信夫」と書いて、算数の問題を解きはじめた。


 算数の問題は、すぐに解けた。問題の内容自体が易しかったし、彼自身も理系分野が得意(と言うよりも、好き)だからである。信夫は鞄の中に宿題を入れると、ベッドの上に寝そべって、大好きなゲームをやりはじめたが……。


 今日は何故か、それを楽しめなかった。ゲームのステージは進められるが、時折感じる視線のような物、窓から感じる気配のような物に怯えて、それをどうしても楽しめなかったのである。彼はゲーム機の電源を切ると、今度は部屋の明かりも消して、毛布の中に潜ってしまった。が、それも無駄だったらしい。部屋の中は充分に静かだが、家の外から聞える音(恐らくは、水音?)が気になって、何度も起きてしまった。

 

 彼は眠れない苛立ちもあってか、窓のカーテンを開けて、そこから外の景色を眺めた。外の景色は、暗かった。家々の明かりがポツポツと見えるものの、雲の中に月が隠れてしまったせいで、「鮮明に見える物」はほとんど無い。遠くに広がる山の稜線が、僅かに見えるだけだった。道路の中に等しい間隔で建っている外灯も、場所によっては消えている物もある。


 彼はそれ等の景色をしばらく眺めたが、溜め池の方にふと視線を感じると、それに促される形で、溜め池の方に目をやった。溜め池の方に異常はない。そう思っていたが、暗闇の中で動く物、人影のような物を見つけると、それがよく見えないにも関わらず、それが溜め池の方に歩く光景を眺めてしまった。

 

 信夫は、謎の影に息を飲んだ。影の周りには暗闇が広がっているが、まるで何かの効果でも受けているように、その輪郭がしっかりと見えたからである。彼は影の動きをじっと眺めて、それが溜め池の中に飛びこむと、「もしかして、自殺?」と驚いて、両親の部屋に走った。「お父さん、お母さん!」

 

 大変だよ、。彼はそう叫んで、二人の手を引っぱった。「早くしないと溺れちゃう!」


  二人は、その言葉に驚いた。彼の言葉は尤もだったが、それに疑問を抱いたからである。彼等は(本当は、疑いたくないようだが)真剣な顔で、息子の顔を見かえした。「お前、本当に見たのか? 人が飛びこむところを?」

 

 その答えは、「もちろん!」だった。「そうじゃなかったら、言わないよ! 僕は、本当に見たんだ! 溜め池の中に人が飛びこむ……」

 

 両親は、その続きを遮った。息子の状態を見て、「ここは、警察に任せた方がいい」と思ったらしい。彼が自分達の腕を引っぱった時も、それをゆっくりと払って、彼に「落ちつきなさい」と微笑んだ。二人は息子の頭を撫でて、父親は地元の警察に電話を、母親は彼の体を抱きしめた。「本当に飛びこんでいたら大変だし。今日は、一緒に寝てあげるから?」

 

 信夫は、その言葉にうつむいた。両親の判断は「正しい」と思うが、どこか他人事の雰囲気がある。「人が死ぬかも」と言う恐怖を抱いていない。父親が電話で警察に事情を話す姿からも、「大変な事になった」と言うよりは、「恐らくは、息子の見間違いです」と言う雰囲気が感じられた。


 彼はそんな両親の態度に苛立ったが、「自分の力では、どうしようもない事」も分かっていたので、遠くから聞える警察のサイレンに祈る以外は、黙って母親の言う事に従った。「あの人、大丈夫だったかな? 警察の人達が、助けてくれればいいんだけど?」

 

 そんな不安の内に眠った、翌日。彼は、母から信じられない事を聞かされた。自分は、確かに見た筈なのに。警察の人達か聞いた話によれば、「溜め息の中からは何も見つからなかった」と言う。水の底に溜まっていたゴミ類は見つかったが、それ以外は死体も何も見つからなかった。


 信夫は、「それ」に言いかえした。「そんな筈は、ない」と、そう両親に怒鳴った。彼は「見間違い」の可能性も考えたが、そうでない可能性も……つまりは、「自分は、幽霊を見たかもしれない可能性」も考えた。

 

 ら? 自分に何か、起こるかも知れない。怖い話の主人公達は大体、そう言うホラーに襲われている。周りの誰も信じてくれない、ホラーに。彼等は大体が怖い目に遭って、大体が不幸な運命に落ちた。自分にも、その不幸が起こるかも知れない。信夫はそう考えて、自分の両親に訴えた。「お祓いに連れて行って!」

 

 両親は、その言葉に口を開けた。特に母親は、息子の言葉に呆れてしまったらしい。相手が「お願いだよ」と叫ぶ前で、相手に「大丈夫よ」と微笑んでしまった。彼女は息子の頭を撫でて、その体をまた抱きしめた。「あの溜め池は、普通の溜め池。怖い話は、何にもない。昨日の夜に信夫が見たのは」

 

 信夫は、その続きを遮った。言葉の続きを聞かなくても、分かる。母親は、まったく信じていない。彼女の言葉に「そうだ、そうだ」とうなずいている父親も、息子の話をまったく信じていなかった。


 信夫は二人の反応を見て、最悪の未来を考えた。自分はもしかすと、あの幽霊に殺されてしまうかも知れない。あの幽霊がもしも、本物だったら。あの幽霊は、自分の視線に気づいている。自分と目が合った相手を見逃す筈がない。今日か明日か、あるいは、今すぐに襲ってくる。信夫は「それ」に震えて、自分の母親に「今日は、休みたい」と訴えた。「疲れた」

 

 母親は、その訴えに答えた。彼の異常が「純粋な疲れ」と思った事で、その本質に「迫ろう」と思わなかったからである。彼女は息子の願いに応じて、学校にも「しばらく休みたい」と伝えた。「昨日の夜に嫌な物を見てしまって。警察の方は、『何もなかった』とおっしゃっていましたが。息子の事を考えると、二、三日は休んだ方がいいと思い」

 

 担任の先生も、それに「分かりました」と答えた。先生も先生で、問題の表面しか見ていなかったからである。母親が自分に「すいません」と謝った時も、それに「大丈夫です」と返した。先生は自分の経験から推して、「信夫も数日後に良くなるだろう」と思った。


 が、それは浅慮せんりょだったらしい。普通の常識から言えば、彼等の考えが至ってまともだったが。「溜め池の幽霊を見た」と思っている信夫には、文字通りの地獄でしかなかった。

 

 彼はベッドの上で起きる時はもちろん、家の中で食事を食べる時にも、テレビの子ども番組を観る時にも、あの恐ろしい幽霊に悩まされてしまった。挙げ句は、僅かな物音にもビクビクする始末。彼は毛布の中に潜って、(あの幽霊から逃げるように)自分の身を丸めた。「嫌だ! 助けて、助けて」

 

 怖い。アイツが、あのお化けがやって来る。玄関の扉を開けて、この部屋にやって来るんだ。お母さんが家の廊下を歩く音も、本当はアイツが歩いている音に違いない。家の廊下が妙にきしむのは、アイツが自分の事を怖がらせているからだ。部屋の窓が時折揺れるのも、アイツが窓の外側を揺らしているからに違いない。


 信夫はそれ等の現象(あるいは、思い込み)に恐れて、眠気の魔力に耐えられなくなった時以外は、不安な顔で過ぎ行く時を過ごしつづけた。「許して、許して下さい。お願いします」

 

 そう叫んだ瞬間に「プツリ」と切れた意識。彼は午後の光に手を伸ばす中で、床の上に倒れてしまった。

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