閻魔問答

飛鳥休暇

曇りなき

 人間の二倍はあろうかという机の向こう側に、人間の二倍は大きい男が座っている。見た目上の年齢は五十、六十といったところか。

 立派な道服を纏ったそのひげ面の大男は目の前で正座をしている若い青年を鋭い目つきで見つめていた。


子墨ズモーよ。いまからお前の人生を振り返り天国へ行くか地獄送りとなるかの判断をする。決して嘘をついてはならんぞ。わしには人間の嘘を見破る力があるのだから。万が一嘘をついた場合は」


 大男は手に持ったヤットコをカチンカチンと二度打ち鳴らした。


「あぁ、閻魔えんま様。わたしは嘘などつきません。むしろ聞いて頂きたいのです。わたしが犯した最大の罪を」


 青年は手を合わせて閻魔に頭を下げる。彼の性格を表すかのようにその顔には誠実さと実直さが垣間見え、生前より真面目に生きてきたことが見て取れた。


「よかろう。では話してみろ」


 青年はひとつ頷くと、自らの半生を振り返るとともにその罪を話し始めた。


******


 わたしは小さな山村で生まれました。

 山羊や馬と共に生活し、枯れた土地でわずかな農作物を育てるような貧しい村でございます。

 ですが、わたしの両親は働き者で、貧しいなりにも生活はできておりました。

 わたしも物心ついた頃には両親の手伝いをしておりました。家畜の世話や農作物の収穫など、一生懸命に働いていたつもりです。

 わたしが十歳になった頃、弟が生まれました。俊熙シュインシーと言います。


 とても可愛い弟でした。生まれたばかりのその肌に触れたとき、わたしが守ってやるんだという気持ちが湧いてきたのを思い出します。

 しかし、俊熙には障害がありました。それが分かったのは二、三歳の頃だったと思います。

 同じ年頃のほかの子はすでに言葉を発しておりましたが、俊熙は静かなままだったのです。おかしいと思った両親が医者にみせたところ「この子は知恵遅れだ」と言われたんだそうです。

 当時の両親は大変苦悩したと後になって聞きました。

 このまま苦しんで生きていくよりは、自分たちの手で楽にしてやろうかとまで考えていたようです。

 その晩、両親が俊熙を外に連れ出そうとしたとき、わたしが泣いて父の足にすがりました。

「俊熙は自分が守るから。どうか連れて行かないでくれ」と言っていたそうです。

 わたしの記憶の中にもうっすらとその光景は残っています。

 わたしのそんな姿を見て、両親は考えを改め俊熙を生かしておくことにしたようです。


 しかし、それからわたしたち家族に対する村人たちの視線は変わりました。

 わたしが俊熙を連れて畑仕事をしていると、遠目から彼を指さしひそひそとなにか話をしていることがよくありました。

 当の本人はというとそしらぬ顔で飛んでいる蝶を目で追ったりなんかしておりました。


 そういえばわたしは俊熙がなにかを見つめているときの目が好きでした。

 弟の目にはひとつの曇りもないのです。

 晴れた空をまるごと詰め込んだようなそんな目をしておりました。


 俊熙はときおり大きな癇癪かんしゃくをおこしました。

 一度機嫌が悪くなるとそれを治めるのも一苦労で、そんなときの俊熙はまるで獣のように思えたこともございます。

 みんなが寝静まった夜に癇癪がおきたときなどは村中に響く声で叫び暴れるのです。

 きっとほかの村人たちも迷惑をしていたことでしょう。

 わたしは弟が癇癪をおこすと、ただただ彼を抱きしめるのです。

 強く抱いていないと弟は走り出してしまいます。家の近くには切り立った崖もございます。万が一そこから足を滑らせると彼の命は助からないでしょう。

 ここではないどこかに向かって走り出そうとする俊熙を、ここにとどめておくために、願いながら、祈りながら、ただただ強く抱きしめることしかできませんでした。


 そんなおり、村を強烈な寒波が襲いました。

 畑は枯れ、満足な餌をもらえなくなった家畜たちが何匹も息絶え、村は絶望の淵に立たされたのです。

 村全体が疲弊しておりました。

 寒さと飢えをしのぐため、助け合いながら生活をしておりましたが、村人たちのわたしたち家族に対する目は厳しいものでした。

 理由は明らかです。

 ろくに働きもしない俊熙に分け与える食料がもったいないと、村人全員が思っていたことでしょう。

 両親とわたしは頭を下げながら小さくなって生活していました。とても肩身の狭い思いでした。

 しかし俊熙はそんなわたしたちの気持ちを理解することなく、癇癪の頻度も増えてゆきました。

 おそらく空腹のせいもあったのでしょう。

 そのたびにわたしは彼を抱きしめなだめていたのですが、ある日、自分の目から涙が流れていることに気付きました。

 弟を抱きしめながら、流れる涙を止めることができなくなっておりました。

 そしてついに、わたしはその手から力を抜いてしまったのです。

 食料もほぼ尽きて、両親も寝ている時間が多くなった頃です。

 大きな声で駄々をこねる弟の気の済むまま、どこかへ走り去ってくれるなら、それでもいいと思ってしまったのです。

 わたしの思い通りかどうか。俊熙は泣き叫びながら家の外へと走り出しました。わたしには追いかける気力も残っておりませんでした。

 ただ彼が飛び出した家の入り口をぼうっと眺めていたのです。

 雪が舞っているのが見えました。花びらのようなその降雪を見ているうちに、わたしは我に返って弟を追いかけました。


 俊熙シュインシー、俊熙、と名前を呼びながら、わたしは弟を探しました。

 俊熙は切り立った崖の端に立っておりました。

 わたしが名前を呼んでも彼は振り向きもしません。

 ただ飛んでいる蝶を見つけたときと同じく、空から降ってくる雪を目で追っておりました。

 ゆっくりと彼に近づき、そして抱きしめました。

 彼が立っているのは崖の端です。ここで癇癪がおきると足を滑らせて谷底に落ちてしまうことでしょう。

 弟が落ち着いていることを確認してから、わたしはゆっくりとその力を緩めました。

 俊熙はわたしを見つめておりました。

 晴れた空を内包したその瞳でわたしをまっすぐ見つめておりました。


 あぁ、そのときです。

 わたしはなにを思ったか弟の身体を突き飛ばしておりました。

 魔が差したとしか言いようがございません。

 ともすれば、その曇りなきまなこが曇る前に彼を楽にさせてやろうと思ってしまったのかもしれません。

 弟は舞い散る雪のその一片と同じく、谷底へと落ちてゆきました。

 我に返った頃にはもう手遅れでした。

 覗き込んだ崖下のはるか遠くの方で、俊熙が倒れているのが見えました。その周りは血で溢れ、一目で死んでいることが分かりました。


 あぁ、閻魔様、このわたしは、あろうことか大切な弟をこの手で殺めたのです。

 わたしひとりで家に帰ると、両親は全てを悟ったかのように何も問うてくることはありませんでした。


 きっとその罰が当たったのでしょう。

 そのあとすぐにわたしは病に罹り、この命を失うこととなったのです。


******


 青年が息を荒げながら自らの生涯を話し終えると、閻魔は自身の髭をぞろりと撫でた。


「ふむ。なるほど」


「あぁ、閻魔様。わたしは覚悟ができております。嘘などひとつもございません。どうか地獄へ送ってください」


 青年が正座をしたまま懇願するように頭を下げると、閻魔は隣にいた部下に声をかけた。


「あの者を連れてこい」


「……あの者?」


 そう言って首を傾げる青年の前に、閻魔の部下に連れられた弟の俊熙が現れた。


俊熙シュインシー!」


 青年はすぐに駆け寄り弟と抱擁する。


「兄さん」


 聞こえた声に青年が驚く。


「俊熙、お前言葉が?」


「ここではみな魂の姿だからな。現世とは少し違っているのだ」


 閻魔の説明に青年が目を見開き、そして涙を流した。


「おぉ、俊熙よ。弟よ。どうか兄さんを殴ってくれ。口汚い言葉で罵ってくれ。あれだけ守ると決めたお前の命を、わたしは自らの手で殺めたのだ。いまのお前ならそれができるだろう」


 しかし、俊熙は涙を流す青年の前で大きく首を横に振った。


「兄さんぼくは大丈夫だよ。あなたはこんなぼくをずっと愛してくれたじゃないか」


 微笑む弟を目の前にして、青年はさらに大きな声を上げて泣き叫んだ。


「さて、感動の再会はそこまでだ。ふたりとも地獄へ行く覚悟はできたか?」


 冷ややかな閻魔の言葉に青年がすぐさま顔を上げる。


「お待ちください閻魔様! わたしが地獄へ行くのは当然ですが、弟はなにもしていないではありませんか」


「なにも?」


 閻魔がじろりと青年を睨みつける。


「その者は生きている間ずっとまわりの人間に迷惑をかけていただろう? お前にも、両親にも、同じ村の人間にもだ。ともすれば、地獄のような日々だと思うときがお前にもあったのではないか?」


「あぁ、そんな。それでは俊熙は生まれてきたことが罪だというのですか」


「いや、生まれてきたことが罪なのではない。生き永らえたことが罪なのだ」


「なんという……」


 青年は言葉を失ってしまった。生き永らえたことが罪だというのであれば、そうさせてしまった自分にその責任があるということだと理解したからだ。

 青年の目からまたぽとり、ぽとりと涙がこぼれ落ちてくる。


「しかし、お前たちが助かる方法がないわけではない」


「どういうことですか」


 ふいに見えた光明に青年が顔を上げる。


「片方が、もう片方の罪を背負い地獄へ行くというのであれば、一方は天国へ行き輪廻を待つことができる。しかし、罪を背負ったほうの刑期は倍以上となるぞ。そうだな、おおよそ一万年は地獄で苦しんでもらうことになるだろう。それはそれは想像だにしない苦しみを味わうこととなるぞ。……さぁ、どうする?」


「いちま……」


 閻魔が提示した条件を聞き、青年は一瞬言葉を失ってしまった。一万年という時がどれほどのものか想像もできなかったからだ。

 生前守ると誓った弟を手にかけ、死後の世界で再び顔を合わせた弟を目の前にしてもなお、その心が揺らぐほどの言葉であった。


「では、決まりだな」


 閻魔がその手に持った木槌を二度打ち鳴らした。時間切れということだ。


「ま、待ってください」


「いいや、待たぬ。それでは、……俊熙、兄の罪を背負って地獄へ行くがよい」


「……え?」


 放たれた閻魔の言葉が一瞬理解できずに青年は弟に目を向ける。弟の俊熙はすべてを納得したような晴れやかな表情でうなずいていた。


「いったいどういうことですか」


 青年が閻魔に尋ねる。


「お前がここに来るまえに、俊熙と決めごとをしておったのだ。後から来る兄がわしから提示される条件に少しでも迷った場合、自分が兄の分の罪も背負って地獄へ行くということをな」


「そ、そんな。俊熙、ほんとうなのか」


 青年は弟の肩を揺すりながら問いただすと、弟の俊熙は静かにうなずいた。


「なぜ? お前を殺した兄をなぜ助けようとするのだ」


 唾を飛ばしながら迫る青年の手に、優しく俊熙の手が乗せられた。


「兄さん。兄さんにとってぼくがいたことで生前、地獄のように思えた日々もあったことでしょう。ですが、ぼくにとってあなたと、家族と過ごしたあの日々は、それはそれは幸せなものだったのです。ぼくを守ってくれたあなたを、どうして恨むことがあるでしょう。兄さん、こんなぼくを愛してくれてありがとう。次の人生は、きっともっと良いものになりますよ」


「あぁ、俊熙よ」


 別れを惜しむように抱き合う兄弟を引き剥がすようにして閻魔の部下が俊熙だけを地獄の門へと引きずっていく。


「俊熙! 俊熙!」


 青年の叫びが辺りにこだまする。


 地獄の門をくぐるその刹那、振り返り兄を見つめる俊熙のその目は、晴れやかな空のような光を宿していた。



【閻魔問答――完】

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